第19話 うぬぼれてもいいのかな(「リュウゼツランの景観とテキーラ村の古式産業施設群」)
朝から30度を超え、最高気温38度に達した日。
遅番を終えて建物を出ると、蒸した空気が服にまとわりついてきた。
女で良かった、制服のある職場で良かった、とつくづく実感する。
私服で通勤しているから、職場で制服に着替えられる。
男性はクールビズしているものの、基本はスーツなので大変そうだ。
でも、私服でも、さすがに熱い。
『ごめんなさい。愚痴ります。
今仕事が終わりました。疲れたのです。』
何も考えずに、無料通信アプリのメッセージで彼に愚痴ってしまった。
すぐに彼から返事が来る。
『俺も今終わったところなんです。
そっちに向かっています。』
おお、彼は今から来るのか。
会いに来てくれるって、
世田谷線の改札に行く前に、キャロットタワーに逃げ込んだ。
閉館30分前だけど、汗が引くまで居座るつもりだ。
雑貨屋さんには、値引きされている夏物商品もあり、秋の新商品も並んでいる。
まだまだ暑い日が続きそうだが、秋は近づいてきているのだ。
汗が引いたところで外に出て、世田谷線の改札前で彼を待つ。
すると、全然違う方から来た人が私に向かって手を振ってくれた。
その人が彼だとわかるまで、少々時間がかかった。
彼はスーツを着ていた。ジャケットは脱いで腕にかけているが、ネクタイを締めてリクルートバッグを手にしている。
いつもと全然雰囲気が違う。凛としている。
「お待たせしました」
にこりと笑えば、いつもの彼だ。
「いえ、私こそ、呼び出したみたいになって、ごめんなさい」
「いいんです。今日は法人の理事会で、法人本部のある特養に行っていたんです。ここで世田谷線に乗り換えるつもりでいたので、手間なんかじゃありません」
彼は話しながら、細い指で頬を掻く。夜だからかな、剃り残したみたいな短いひげが目立つのは。
流れで「旅の夜風」にお邪魔すると、珱子さんが「いらっしゃいませ」と言ってくれた。
珱子さんにすすめられるまま、カウンター席に腰を下ろす。
「横田さん、理事会おつかれさまでした」
「白河さんも、日々のお仕事おつかれさまです」
モスコーミュールで乾杯する。銅のマグカップでお酒なんて、初めて飲んだ。
「白河さんは、振っ切れたみたいですね」
「そうですか? ……一応解決したら、気持ちが楽になりました」
「良かったですね。俺も安心です」
彼はにわかに手を伸ばす。でも、何も触らないまま引っ込めてしまった。ハエでもいたのかな。
「テキーラの原材料って、知ってます?」
彼が訊ねてくれる。カウンターの向こうの珱子さんが、小耳に挟んだようで、にやっと笑った。
答えちゃっていいのかな。
「リュウゼツラン、という植物ですよね。アオノリュウゼツラン」
「そうです、そうです。よかった、白河さんも知っていて」
よかった、答えられて。
メキシコにあるアオノリュウゼツランの畑が、世界遺産に登録されている。
試験勉強の一環で覚えた内容だ。
お酒が入った彼は、仕事の話をこぼした。
彼の勤務先は、桜新町のショートステイ。
昨年度は法人本部の勤務だったが、ショートステイの事務員の入れ替わりが激しかったため、今年度は彼がショートステイに異動になった。
本部でやっていた仕事は継続して、こまごまとした金銭管理や物品管理も担当しているらしい。
毎月上旬、国保連に介護保険料を請求して、ご利用者様のご家族様に利用料を請求する時期は、オーバーワークになってしまうこともあるそうだ。
でも、本部はそれを承知して、残業手当や振替休日は融通をきかせてくれている。
今月は理事会の準備もあった。今日は理事会の後片づけをして、本部に来たついでにタイムカードをチェックして、打刻修正もしてきたらしい。
こんなに仕事を抱えていたら、悩みたくなるのもわかる。
「……すみません、こんなに弱音を吐いてしまって」
「ううん、気にしないで下さい。同志なんですから」
「そうですね、俺達は同志ですから」
彼は目を細めて微笑んだ。
私も酒がまわっているせいか、口が軽くなってしまう。
「そうだ! 今度ね、帰省するんです。お姉ちゃんと釣りをするんです。英一くんも一緒にどうですか?」
同志ですから。同志が弱っているのを放っておくことなんてできない。
彼は頬を掻いてから答える。
「ご迷惑でなければ、ぜひ」
◇ ◆ ◇
「リュウゼツランの景観とテキーラ村の古式産業施設群」
メキシコ合衆国
文化遺産
2006年登録
メキシコ中西部のテキーラ地方には、18世紀に建てられたテキーラの醸造施設が残っている。16世紀に入植したスペイン人によって蒸留製法によるテキーラ酒の大量生産が始められ、19世紀以降、生産量が増加した。現在残る日干しレンガの蒸留所にはバロック様式の装飾が見られ、まだ稼働しているものもある。
テキーラ酒の原材料・アオノリュウゼツランは、古くから発酵飲料や織物などの原料として用いられ、先住民文化を育んだ。
2~9世紀にかけて栄えた先住民のテウチトラン文化の遺跡も世界遺産に登録されている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます