第15話 サラリーマンの語源は(「ヴィエリチカとボフニャの王立岩塩坑」)
「大変ご迷惑をおかけしました。この神田
神田さんは椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「本日限りでお酒をやめさせて頂きます。今夜はひとりだけソフトドリンクで勘弁を。というわけで、乾杯!」
8月上旬、金曜日の夜の始め頃。
和風バル「旅の夜風」で、私達はグラスを高々と掲げた。
先月の25日、本社から最終決定が出された。
神田さんと私はおとがめなし。
成城支店の支店長に、異動の辞令が出た。
グループラインに上がった「成城の支店長が本社に呼び出された」という話は、本当だった。
最初はのらりくらりと質問をかわしていた支店長だったが、徐々に須磨さんに追い詰められ、白状したらしい。
支店長はもともと「こうあるべきだ」という考え方が強く、自分の考え方と合わない人を心底嫌っていた。
成城支店の支店長になって次の年に、社員が直接社長にメールできるようになった。
それを好機とばかりに、気に入らない社員を非難するメールを送った。
それも、いなくなっても構わない成城支店の社員を使って。
1度目は、メールができてすぐ。吉祥寺支店で有名な、仕事ができない社員をターゲットにした。メールを送らせたのは、成城支店の大人しい社員だ。覇気がなく、いつも成城を暗くさせる人だと支店長は思い込んでいた。
2度目は、5年前。二子玉川支店の新卒の女性社員をターゲットにした。祖父母の介護をしながら働いているという美談は成城支店まで聞こえていた。会ったことはないが、新卒のくせに会社への貢献度が低い、あるまじき社員だと思っていた。
その社員が、飲み会でつぶれて体調不良で欠勤しているという話を部下から聞き出し、その部下を使ってメールを送らせた。
今回は、3度目。やたらとお客様から好感度の高い神田さんが許せなかった。
ただ好印象というだけなら目をつむらないでもないが、神田さんのためにお見合いの話しを持ち出すお客様がいらっしゃることに、支店長は悩んでいたらしい。
このままでは成城支店の印象を悪くしてしまう……そう思った支店長は、そこそこ嫌っていた八城さんに目をつけた。
八城さんは東京出身だが、両親が兵庫県出身ということもあり、若干の関西訛りがある。支店長は、八城さんの訛りが耳障りだった。
日頃から神田さんの欠点を集めるように八城さんに命令し、拒否する八城さんに「じゃあ、蔵波って子がどうなってもいいのか」と脅すようになった。
先日の飲み会での神田さんと私の発言を知った支店長は、私もターゲットにしてくれた。支店長は、神田さんと私を非難するメールを八城さんに送らせた。
以上が、「解雇すべき」メールの真実であり、“成城が正常でない”事実である。
八城さんは、最初の面談で、支店長のことも自分がメールを送ったことも黙っていた。
しかし、何かを隠していることは須磨さんに勘づかれていた。
三軒茶屋支店での面談の後、蔵波さんが須磨さんに、八城さんの「すまん。これから酷いことをする」のメッセージのことと、無理矢理メールを送らされたのではないか、と伝えたらしい。
須磨さんはもう一度、成城支店に足を運び、八城さんと面談。
八城さんは、支店長の命令でメールを送ったこと、それも黙っているように命じられたことを須磨さんに素直に話した。
それがきっかけで、支店長は本社に呼び出されたのだそうだ。
支店長を解雇すべき、という意見もあったそうだが、とりあえず異動にして様子を見ることになったらしい。
おそらく、もう支店長には戻れないだろう。
「あっ、千桜ちゃんじゃん」
聞き慣れないバリトンボイスが私を呼ぶ。
声の方を見ると、これまた見慣れないお兄さんがいた。
「そっか。話すのは初めてか。横田英一の叔父で、横田利一です。この前は演奏を聴いてくれて、ありがとな」
誰、と藍奈ちゃんが呟く。蔵波さんも眉をひそめる。
“横田英一の叔父”という部分で、私は気づいた。
先月。このお店でリサイタルをやってくれた、“和製リチャード・クレイダーマン”だ。
「今日は、えいちゃんと一緒じゃないのかい」
「はい、会社の人と飲みに来ました」
神田さんも私も解雇がなくなって、お祝いのつもりで来た。
高野さんは来られなかったが、藍奈ちゃん、蔵波さん、八城さん、神田さん、と私の5人で来ている。
「会社の人……じゃあ、おじさんからクイズ。サラリーマンの語源は何でしょう?」
急に利一さんが乱入し、急にクイズを出題。
でも、八城さんがあっさり答えてしまった。
「塩。兵士の給料として塩が支給されていたんやて。サラリウムだっけ? ラテン語か何かで“塩”の意味なのは」
そうなのか。サラリーマンの語源は塩なのか。
塩は「白い金」と呼ばれ、高値で取引されていたと聞いたことがある。
日本では塩田で塩を採取しているが、ヨーロッパでは塩の鉱山もあるらしい。
「眼鏡のにいちゃん、早えよ。もうちっと考えろ」
利一さんは、つまらなそうに口をとがらせる。
そのとき、お店のドアが開いた。
◇ ◆ ◇
「ヴィエリチカとボフニャの王立岩塩坑」
ポーランド共和国
文化遺産
1978年登録、2008年・2013年登録範囲拡大
13世紀頃から本格的な採掘が始まった岩塩採掘所。
2,000万年前には海だったこの地帯は、地殻変動により陸地に囲まれた塩湖となった。長い年月をかけて水分が蒸発し、広大な岩塩層が誕生した。
ポーランド王と結婚したハンガリーの女王・聖キンガが指輪を投げ入れた場所から、ヴィエリチカ岩塩坑が見つかったという伝説が語り継がれている。
14~16世紀には、産出された岩塩はポーランド王国の財源3分の1を占めるほどだったとされる。
「白い金」とされた岩塩の採掘には次々と新しい技術が導入された。木製の巻き上げ機やトロッコが使われ、18世紀にハプスブルグ家領になった後には、フランツ2世が坑道内を視察するために鉄道が敷かれた。
坑道は9つの層に分かれる大規模のものとなり、700年間で深さ300m以上、総延長は300kmにも及んだ。
1996年に商業採掘は中止となった。
坑道内には、頑丈な岩塩に守られた空間が広がっており、「聖キンガの礼拝堂」など、岩塩に掘られたいくつもの彫刻が残されている。
坑道内の一部が博物館になっているほか、塩の殺菌作用で空気が浄化されていることから、療養所なども設けられている。
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