第16話 すてきな演奏(「ザルツブルグの歴史地区」)

 心臓を殴られた感じがした。

 お店に入ってきたのは、“英一くん”だった。

 彼は私に気づいて、にこりと笑ってくれる。

 でも、その表情には疲れの色が出ていた。

 利一さんは、甥っ子が来たことに気づいていない。

「じゃあ、おじさんから第2問。“ヤシの木1本、実がふたつ”これ何でしょう?」

 神田さんが笑いをこらえる。

 八城さんは笑いがこらえられない。

 蔵波さんは本気でわかっていない。

 藍奈ちゃんが「わかりました!」と挙手し、言ってはいけないフレーズを元気よく答えた。

 利一さんは耳に手を当てて、聞こえなかったふりをする。

「何? ごめん、もう一回大きな声で……いてっ!」

 彼が利一さんの後ろにまわり込み、頭に軽くチョップを入れた。

「なんだ、か。何しに来たの?」

「変態ミュージシャンの演奏を聴きに来てあげたんですよ、残業を切り上げて。もうすぐ8時だろうが」

「うわ、まじか。教えてくれてありがとう」

 利一さんは、小さいステージに移動した。

「えいちゃんて人、千桜先輩の彼氏ですか?」

 藍奈ちゃんが、私の袖を引っ張って訊ねる。

 私は答えた。

「同志だよ」

 肯定はしない。

 カウンター席に行こうとした彼は、神田さんと八城さんに引き止められ、近くの椅子に腰を下ろした。


「えー……若い子がたくさん来てくれたので、今夜は趣向を変えたいと思います」

 利一さんは前回は一言も喋らなかったのに、今日はマイクを使って挨拶から始める。

 叔父さんの演奏を、甥っ子はどんな目で見ているのだろうか。

 私は彼を盗み見た。

 彼は、すでに頭を抱えている。

 利一さんによる、キーボードの演奏が始まった。



 一曲目は、よく耳にする曲だった。

 曲名は知らないが、出だしが有名なクラシックだ。

 キーボードの演奏なのに、ピアノやパイプオルガンにも引けを取らないくらい雰囲気が出ている。

 でも、重い曲だ。

 バラエティ番組などで、ショックを受けたときに使われる効果音のよう。

 演奏が終わると、利一さんによる解説が入る。

「……以上、バッハの『トッカータとフーガニ短調』でした。若者が悩みながらも立ち上がるイメージで演奏してみました」

 嘘だろ、と私は突っ込みを入れそうになった。これ、絶望の曲じゃないんだ。

 酒のまわった八城さんは、けらけらと笑い続ける。

 拍手が起こった。演奏自体は素敵だったのだ。



 続いては、ギターの弾き語り。

 真面目に演奏してくれるのは、山崎まさよしの「やわらかい月」。

 利一さんのバリトンボイスがすごく似合っている。

 なんだ、真面目じゃん……そう思って彼の方を見たけれど、彼は浮かない顔をしている。

「じゃあ、次はこの曲ですが……藍奈ちゃん、だっけ? 曲紹介してくれる? 歌手と曲名、この紙に書いてあるから」

 利一さんは、わざわざこのテーブルまで来て、藍奈ちゃんに紙を渡す。

 藍奈ちゃんは、正直に歌手と曲名を読み上げた。

 曲名は「コンビニ」。歌手名は、私の口からはとても申し上げられない。

 フォークソングのような軽やかな曲だ。

 「コンビニエンスストアー」の部分で、八城さんがお腹を抱えて笑う。

 “英一くん”以外の全員が大笑い。

 でも、私は笑わないように我慢した。

 彼が楽しんでいないのに、私が楽しむのは悪いと思ったから。



 それにしても、利一さんはよくわからない。

 “和製リチャード・クレイダーマン”ばりに上品すてきな演奏をする人だと思ったら、モーツァルトばりに下品すてきな演奏をする人だったから。

 甥っ子の彼は、昔から利一さんの演奏を聴かされていたのかな。

 でも、それであきれていたら、わざわざ大人になっても演奏を聴きに来ないだろう。

 やっぱり、疲れているのかな。



     ◇   ◆   ◇



 「ザルツブルグの歴史地区」


 オーストリア共和国

 文化遺産

 1996年登録


 オーストリア北西部に位置し、ドイツとの国境近くの山間部のあるザルツブルグは、紀元前から岩塩の採掘と交易によって栄えた宗教都市である。

 739年に司教座が置かれたザルツブルグは、司教都市としての性格を強め、8世紀には大司教座に昇格する。

 1077年には、教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争をめぐりローマ教皇側に立った大司教が、帝国の侵攻から逃れるための隠れ家としてホーエンザルツブルグ城を建設した。この城は建設以来拡張と軍備強化が繰り返され、15世紀には莫大な武器庫を備える城塞となった。

 16世紀になると、塩の取引で生じる莫大な富を手にした大司教達が、「北のローマ」を目指してバロック建築に力を注ぐようになる。

 1758年に大司教に就任したヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウは、現存するバロック建築を多く建設した。

 一方で、ドイツ語圏最初期の教会建築も残っている。

 696年頃に創建された聖ペテロ(ザンクト・ペーター)修道院は、ドイツ語圏最古の男子修道院である。

 ザルツブルグは音楽の都としても知られ、1920年から続く夏のザルツブルグ音楽祭やザルツブルグ生まれの作曲家・モーツァルトを記念して開催されるフェスティバルには、毎年多くの人が訪れる。

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