第13話 普通って難しい(「ル・コルビュジェの建築作品群 -近代建築運動への顕著な貢献-」)

 着いたのは、国立西洋美術館。

 世田谷から一番近い世界遺産だ。

 特別展で銅版画展が開催されていた。中世ヨーロッパの作品を中心に展示されているようだが、意外にも作品のサイズは小さい。

「銅版画、お好きなんですか?」

 訊ねると、彼は「ひとつかふたつ、好きなのがあるんです」と答えてくれた。

「でも、展示されているかわからないです」

 画家と作品の名前を教えてもらったが、知らない名前だった。

 芸術作品のことはよくわからないが、銅に絵を彫る技術はすごいと思う。

 印刷みたいに細い線を彫るのは、現代でも難しいのに。

 不器用な私は、小学校の木版画もできなかった。

「……あった」

 彼が呟いた。

 作品名は「書斎の聖ヒエロニムス」。作者は、アルブレヒト・デューラー。

 大きな窓から光が差し込む書斎で、ライオンがゆったりと床に寝そべる絵だ。

 その奥の机で、男性が書き物をしている。

 白黒の世界なのに、光の雰囲気がわかる作品だ。

 その絵を見る彼の目も、きらきらしていた。

 本当に好きな作品なのだろう。



 たっぷり2時間かけて展示を見て、西洋美術館を出た。

 なんか、大切なことを忘れている気がする。

 炎天下の中、私は「あっ」と間抜けな声を発してしまった。

「英一くん、世界遺産のことを忘れていました!」

 彼は、しばし呆気にとられていた。その顔が赤くなり、四つ折りにしたリーフレットで熱を冷まそうとする。

「……うん、忘れていました」

 美術館の展示は見たが、世界遺産に登録された西洋美術館そのものに触れることなく退館してしまった。

「もう一回入ります?」

「入ります?」

 彼に訊かれ、私は訊き返し、ふたりで苦笑いした。

 2回目はノーサンキューかな。



 お昼をかなりまわってしまった。

 三軒茶屋の近くでランチにしようということになり、上野駅から銀座線で渋谷方面へ向かう。

「白河さん、さっき……」

 彼は何か言いかけ、口をつぐんでしまった。

 私も会話のきっかけがわからなくなってしまい、2駅くらい無言の状態が続いた。

「普通って、難しいですよね」

 唐突に呟いたのは、彼の方だった。

「西洋美術館の設計をした人、コルビュジエでしたっけ。西洋美術館以外に、住宅の設計をしたんでしたよね。今見ると、シンプルで普通のデザインかもしれませんが、コルビュジエは今に通ずる“普通”をつくったのだと思いました。ピロティとか、吹き抜けとか、大きなガラス窓を取り入れて、昭和の白黒写真の時代に、今の“普通”をつくったんですよ……すみません。言い始めたら、自分でもわからなくなってしまいました」

 彼は頭をかき、また口を閉ざしてしまった。

 彼の言いたいことは、何となくわかる。

 国立西洋美術館は、他の建物と共に「ル・コルビュジェの建築作品群」として世界遺産に登録されている。

 ル・コルビュジエの建物は、写真を見る限りでは至ってシンプルだ。でも、昭和の時代にこのような現代建築を手がけたル・コルビュジエは、独創的というか、先見の才があったのか。

 彼は、ル・コルビュジエのそんなところに感服したようだ。



 彼は自身を「俺なんか、大学出たけど無資格」と言うが、知識が豊富で深く考察しようとする姿勢は、とても私には真似できない。

 対して、私は自分を平凡だと思っているが、彼は「すごい」と言ってくれた。

 本当に、普通って難しい。



     ◇   ◆   ◇



 「ル・コルビュジェの建築作品群 -近代建築運動への顕著な貢献-」


 ドイツ、アルゼンチン、ベルギー、フランス、インド、日本、スイス

 文化遺産

 2016年登録


 20世紀の近代建築運動に多大な影響を及ぼしたル・コルビュジエの作品群をまとめて世界遺産に登録した物件。

 7か国17件の作品群が対象となっており、世界初の大陸をまたいだ世界遺産になった。

 日本の構成資産は、国立西洋美術館の1件のみ。東アジア唯一のル・コルビュジエの建築である。

 実業家・松方幸二郎の収集した美術品「松方コレクション」が第2次世界大戦後期にフランス政府に敵国資産として差し押さえられていたが、松方コレクションが返還されるにあたり、その受け入れ先となる美術館が必要となったことから美術館の設立が実現した。

 ル・コルビュジエが基本設計をして、具体的な寸法などは日本の坂倉準三、前川國男、吉阪隆正の3人が担当した。

 1958年3月21日に起工式、それからほぼ1年後に竣工となった。

 1階部分は本来ピロティ構造となっていたが、現在ではガラスの外壁が設置され、1階の大部分が室内に取り込まれている。1階中央部分は、屋上の明かり取り窓まで吹き抜けとなったホールである。

 1階から2階へは、彫刻作品を眺めながらのぼれるように、階段ではなく傾斜のゆるい斜路が設けられている。

 2階は、中央の吹き抜けのホールを囲む回廊状の展示室になっている。ル・コルビュジエの「無限成長建築」というコンセプトに基づくもので、巻貝が成長するように、将来拡張が必要となった際には外側へ、外側へと建物を継ぎ足していける構造になっている。

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