第9話 もやもや、じめじめ(「知床」)
須磨さんによる、タスマニアデビルのような聴き取りは1時間ほど続いた。
思い出したくない。
終始にこにこ笑って「そっかそっか。でも、僕からは何とも言えないんだよねー」と相づち。それでいて、上げ足を取るような質問。
例のメールをプリントアウトしたものも見せてくれた。
これはもう、告発文だ。
神田さんと私の言動が観光業界で働く者としてふさわしくないから解雇してほしい、という内容だ。
神田さんについては、この前電話で本人が話してくれたのと同じ内容。
私については、「観光客を侮辱している。プライベートの発言であっても許しがたい」という内容だった。
メールアドレスは、多分、フリーのアドレスを取得している。
送信者の名前はなく、メールの最後に匿名希望と書かれていた。
何となく……成城支店の人の目線で書かれたような印象を受けた。
それにしても、思い出したくない。
私と入れ違いに、蔵波さんがミーティングルームに入る。
私はすぐに帰らずに聞き耳を立てていた。我ながら、趣味が悪い。
数分後、「蔵波さん!」と須磨さんの慌てた声が聞こえた。
「蔵波さん!?」
私は何も考えずにミーティングルームに入ってしまった。
蔵波さんは、椅子に座ったまま体を丸くして浅く荒い呼吸を繰り返している。
過呼吸だ。
私は蔵波さんの背中をさすりながら、須磨さんに目をやった。
ありったけの“ぎょろ目”で。
なんだか、すごい休日になってしまった。
遅番の蔵波さんはそのまま早退し、私は蔵波さんにつき添っている。
須磨さんは「何かあったら連絡ちょうだい」と名刺をくれたが、連絡することはないだろう。
職場の中に、落ち着いて休める場所はない。
私は無礼を承知で、思いついた場所に蔵波さんを案内した。
「……白河さん、ごめんなさい」
「私は平気です。私こそ、蔵波さんを巻き込んでしまって、ごめんなさい」
移動先は、和風バル「旅の夜風」。17時前で準備中だったが、珱子さんが出てくれて、お店の中で休ませてもらうことができた。
「違うの。違うんだよ、白河さん」
蔵波さんは、泣きはらした目を伏せ、ハンカチを握りしめる。
こんなに弱り切った蔵波さんは、初めて見た。
いつも冷静で、穏やかで、陰口を叩かれても平気でいる。
そんな蔵波さんが、ものの数分で過呼吸を起こし、初めて早退した。
蔵波さんは黙り込んでしまった。
沈黙の時間は長く感じられた。
「昔ね」
蔵波さんが口を開く。
「小さい頃、家族で知床に旅行したの。世界遺産に登録される前だよ。エゾリスが可愛かったなあって、思った。須磨さんがエゾリスに似ていて、一瞬だけ笑いそうになっちゃった」
「エゾリスですか……私にはタスマニアデビルに見えました」
「わかるわかる。厳しいところなんか、それっぽいかも」
蔵波さんは弱々しく笑った。でも、また暗い表情になる。
「想像でしかないんだけど、須磨さんが見せてくれたメールを送信したのは、私の彼氏かもしれない」
「え……?」
私は耳を疑った。
「蔵波さん、彼氏いたんですか!」
「気にするところ、そこ?」
蔵波さんは目を丸くする。
気にするところ、そこです。
仕事一筋そうな蔵波さんが誰かとつき合っていたとは。意外な一面だ。
「話しを戻すね。飲み会の次の日、彼氏から変なLINEが来たの」
蔵波さんは、スマートフォンを見せてくれた。
無料通信アプリのトーク画面。
『すまん。
これから酷いことをする。』
この後、相手からのメッセージはない。
既読もついていないし、蔵波さんの電話に出た形跡もない。
彼氏だというメッセージの主は“八城周”。
成城支店の
それにもびっくりだよ。
「社長へのメール、告発だよね。そのメールの送信時刻は、彼氏からのメッセージの20分後だった。それに気づいたら、彼氏がメールを送ったんじゃないかと思って……急に息が苦しくなって……」
「蔵波さん、もう思い出さなくていいです!」
「うん、もう大丈夫だから」
蔵波さんは深呼吸する。
「でも、
蔵波さんは、また口を閉ざしてしまった。
神田さんも私も、解雇とは告げられていない。
須磨さんは「何とも言えないんだよねー」と言っていた。
最終決定は今月の25日らしい。
約半月、もやもやした気持ちを抱えなければならないようだ。
世間はまだ梅雨。
もやもや、じめじめ。
湿っぽいのはしばらく続くことになる。
◇ ◆ ◇
「知床」
日本国(北海道
自然遺産
2005年登録
地球上で最も低い緯度で海水が氷結する「季節海氷域」にあり、この季節海氷が海、森、川に及ぶ独特の食物連鎖を引き起こす。それが地球上で最も稀な例として世界遺産に登録された。
知床の海域は、暖流の宗谷海流と寒流の東樺太海流の境界線であるため、多彩な魚類・海藻類が生息する。
陸上では、知床半島には知床連山が存在するため、幅の狭い半島に0~1,600mの高低差があり、湖沼や湿原、
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