第8話 さくっと訊いちゃいますね(「タスマニア原生地帯」)

 朝、目が覚めると、周りが薄暗かった。

 まだ明け方なのかな。それとも、もう夕方?

 枕元のスマートフォンで時間を確認しようとしたら、無料通信アプリにメッセージが来ていた。



『白河さん、おはようございます。

 昨日は俺の我が儘につきあってくれて、ありがとうございました。』



 一瞬で眠気がとんでしまった。送信者は、“横田英一”。

 昨日、別れ際に彼と連絡先を交換したのだ。

 目は覚めたのに、頭がまわらない。

 ぽんこつな思考回路で、やっとこさメッセージを入力し、送信した。



『横田さん、おはようございます。

 こちらこそ、ありがとうございました。

 素敵なお店でしたし、アーティストさんのピアノの演奏も楽しかったです。

 素敵な時間を、ありがとうございました。



 今の時間は、7時半。

 布団から出て、カーテンを少し開ける。

 外は雨が降っていた。

 まだ梅雨だったんだ。

 仕事は休みなので、もうひと眠りしたいところだ。



 次に目が覚めたのは、11時頃。

 外はまだ雨が降っていた。

 じめじめ暑いので、エアコンをつける。

 お姉ちゃんにもメッセージを送った。



『お姉ちゃん、おはよう☔

 昨日、素敵なお店を教えてもらいました。

 カクテルおいしかった🍸』



 カクテルの写真も送信する。

 アフリカンクイーンと言ったっけ。バナナの香りがふわっとして、オレンジの味のカクテル。

 店員さんは、彼のお姉さんだった。美人で恰好良かったな。



 ――弟が女の子を連れてくるなんて、初めてですよ。きっと、あなたのことが可愛いんですね。



 彼のお姉さん・珱子さんの言葉がよみがえる。

 いやいやいや、私は決して可愛くない。

 外見じゃなくて、性格も。

 昨日のカクテルのお金、払っていないし。

 カクテルどころか、料理の代金も全て彼が支払ってくれたのだ。

 どうしよう、お金を返さなくちゃ。



『すみません。お金を肩代わりして下さったんですよね。

 後日お返しします。

 いつならお会いできますか?

 振り込みの方が良いですか?』



 メッセージは送った。後は返信を待つだけだ。

 彼はきっと仕事中だから、すぐに返事は来ないだろう。

 私は特に予定はないので、気ままに出かけることにした。

 今日の服は、紺色のワンピースに薄手の白いカーディガン。これなら、誰に会っても恥ずかしくない。



 雨は止みそうにない。

 三軒茶屋のキャロットタワーに行くことにした。

 駅直結なので、雨に濡れることなく移動できるのだ。

 定期券で行けるし、お店もたくさんあるので、自然と足が向いてしまうのだ。

 まずはランチ。キャロットタワーの地下にあるパン屋さんへ行く。

 サンドイッチとカフェオレを買って、イートインコーナーで一息ついた。

 今の時刻は、13時。仕事の休憩中のような人が多く見受けられる。

 私はスマートフォンのロックを解除した。

 彼からメッセージが来ている。



『すぐに返事ができなくて、すみません。

 お金のことは気にしないで下さい。女の子におごるくらいは持ち合わせています。

 昨日キーボードを弾いていたのは、うちの叔父なんです。

 白河さんさえよければ、またあのお店に行きませんか?』



 心臓を殴られた感じ……というのは過言か。

 でも、どくんとした。何だろう、この感じは。

 というか、あの“和製リチャード・クレイダーマン”は叔父さんだったのか。

 そっちにも驚きだ。若そうだったし、顔は似ていないし。



 ランチの後は、本屋に行った。

 料理の本かお弁当の本を探していると、スマートフォンが鳴った。

 ディスプレイに表示されたのは、職場の電話番号。

 本屋を出て応答すると、支店長から「お休みのところ、ごめんね。今来られる?」とのこと。

 本社の人が来て、面談をしたいそうだ。

 また、心臓を殴られた感じがした。

 このときが来たのだ。

 服装はそのままで良いそうなので、すぐに職場に向かった。

 本当なら行きたくないけど、逃げるのはもっと嫌だ。



 お客様は立ち入ることができない、「関係者以外立ち入り禁止」の一角にある、小さなミーティングスペース。

 そこで、その人は待っていた。

「初めまして。『コンプライアンス推進室』の須磨と申します」

 60歳くらいと思しき、頭髪のさびしいその男性は、そう名乗った。

「なぜ“コンプラ”が介入したのかは、今は訊かないでね。実は、社長の直通メールに、きみ達を告発するような内容が書かれていたんですよ。不適切な言動があったから解雇してほしいって。言いがかりだってことはわかっていますが、社長へのメールに送られてきたから本社が動かないわけにはいかないんですよ」

 須磨さんは、にこにこ笑顔を絶やさない。

 なんだか、かえって怖い。

「というわけでね、白河さん……だっけ? さくっと訊いちゃいましね」

 その様はまるで、オーストラリアのとある地域に生息する、タスマニアデビルのようだった。



     ◇   ◆   ◇



 「タスマニア原生地帯」


 オーストラリア連邦

 複合遺産

 1982年登録、1989年範囲拡大


 オーストラリア大陸の南に浮かぶタスマニア島では、太古の姿を保った植物や独自の進化を遂げた動物が見られる。

 島南西部の総面積1万3,836 のエリアが「タスマニア原生地帯」として登録されている。

 タスマニア島はかつてゴンドワナ大陸の一部で、オーストラリアと陸続きだったと考えられている。

 この島には先住民のタスマニア・アボリジニが暮らし、19世紀まで石器時代と同様の狩猟生活を営んでいたが、タスマニアにイギリス人が入植し始めると、追い出しや狩り立てなどによって枯れた土地に移動せざるをえなくなった。

 島の北側につくられた収容施設に送られた者もいたが、劣悪な食料事情や白人が持ち込んだ伝染病に感染するなどして、死者が続出。4,500人ほどいた純血のタスマニア・アボリジニは1876年に絶えてしまった。

 島内には、タスマニア・アボリジニによって描かれた岩画面が残っている。

 有袋類のタスマニアデビルなど、他の大陸では絶滅してしまった動物がこの地で見られる。

 タスマニア島の自然は、ダム計画で一度は破壊の危機に晒されたが、世界遺産に登録されたことによってダム計画は頓挫し、現在もその独特の生態系をとどめている。

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