第4話 神田、仕事やめるってよ(「石見銀山遺跡とその文化的景観」)

 実家にいたときは、エアコンなんて使ったことがなかった。

 窓は空けっぱなし。閉めるのは寝るときだけ。

 しかし、アパートではそうもゆかない。

 部屋の中が丸見えになってしまうし、開けても涼しくならない。

 仕方がないので、エアコンはつけるけれど設定温度は高めで風量は一番弱くしている。

 あゝ、電気代。



 エアコンをつけて、ハンバーグづくり開始。

 まずはじめに、玉ねぎのみじん切りに苦戦した。目にしみることはないが、細かくならない。

 次に、手でひき肉をこねるのに躊躇ためらった。

 卵を入れたけれど、ゆるい感じがして、本当に膨らむのか疑わしい。

 気がつくと、キッチンに立って1時間が経過していた。

 しかも、こんなタイミングで誰かから電話がかかってくる。

 ひき肉でべたべたの手だから、応答は諦めた。

 ハンバーグのたねをフライパンに並べ、手を洗ってからスマートフォンのロックを解除した。

 着信履歴には、5分前の時刻と知っている人の名前が表示されている。

 20時37分、神田好基。

 飲み会で喧嘩になった、あの神田さんだ。

 名前を見ただけで、あのときの苛々を思い出してしまう。

 その神田さんから、今度は無料通信アプリにメッセージが来た。



『この間はごめんなさい。酒が入っているとはいえ、大人げない発言と態度を取ってしまった。

 責任を取って、辞職しようと思います。』



 どうした、神田さん。

 「神田、仕事やめるってよ」なんてシャレにもならないぜ。

 確かにあのときの神田さんは大人げなかったが、辞めるほどではないと思う。辞職なんて大げさだ。

 私がメッセージを開いたから、相手に既読が伝わったのだろう。

 また神田さんから電話がかかってきた。

 話したくないけれど、辞めてほしいわけじゃないから、応答する。



『もしもし、白河さん?』

 やっぱり切りたい。でも、6秒我慢しなさいとお姉ちゃんから教わったから、6秒だけ我慢。

『大げさだと思われるかもしれないけれど、白河さんにも聞いてほしい。成城支店うちに本社の人が来たんだ。飲み会のこと、誰かが社長の直通メールで伝えたらしくて、飲み会に参加した人に面談が行われた』

「……すみません。どういうことですか?」

 6秒だけ我慢して良かったのかな。よくわからないことになってきた。

『飲み会自体が悪かったのではない。飲み会のときの俺の態度が社員としてふさわしくないから解雇に値する、というメールだったらしい。それで、その飲み会のことを、本社の人が聴き取りに来たんだ』

「それ、おかしくありませんか? 私が神田さんをかばうのも変ですけど、神田さんはそこまで不適切なことをしていませんでしたよ。確かに喧嘩腰になってしまって空気は悪くなってしまいましたが、誰しも一度はやるくらいのレベルです。お店に迷惑をかけたわけでもないですし、業務に支障をきたしたわけでもありませんし」

 今度は、神田さんが黙ってしまった。

 フライパンの上で油が跳ねる音がうるさい。それにかき消されそうなほど小さな声を、神田さんは絞り出した。

『……解雇に値する理由は、それだけじゃなかったらしい』

 神田さんが言うには、神田さんのあのときの発言は持論ではなかったらしい。

 あの日の業務で、あるお客様が「エアーズロックに登れなくなるなんて、馬鹿げている」と吐き捨てたそうだ。

 そのお客様は昔、オーストラリアに旅行した際、強風の影響で、予定していたウルル登山を断念せざるを得なかった。

 もう一度ウルルに登るチャンスを掴めたと思った矢先、ウルル登山の禁止が発表された。

 その話を聞いた神田さんは、お客様を上手くなだめられなかった。

 同日の飲み会で“ウルル”が提供され、酒のまわった思考で、お客様から言われたことを自分のことのように喋ってしまった。

『……それが個客情報の流出だって、おとがめを受けてしまったよ』

「それ、言いがかりじゃないですか!」

『でも、俺も悪かった』

「そもそも、その話は私が聞いても平気なんですか?」

『そのうち、三軒茶屋支店そっちにも本社の人が来るだろう。その前に白河さんには話しても良いかなと思って』

「でも、神田さん。辞めるのは違うと思います」

『違う……か?』

「とにかく、結論を出すには早過ぎます。本社から解雇を言い渡されていないんでしょう? 三軒茶屋支店うちに本社の人が来て、私達も面談してから今後のことを考えませんか?」

『う……ん。そうしてみるか』

 神田さんは、とても歯切れ悪く答えた。



 お客様のお話を聞くことも、我々の仕事である。

 私の中で印象に残っているのは、「石見銀山がつまらなかったわー」という話。

 世界遺産になったと聞いたから行ってみたら、手つかずの自然やバスの少ない不便な場所で、見るものがなかった……と、マダム風なお客様が話していた。



 ――世界遺産なんだから、もう少し観光客に配慮してほしかったわ。



 その言い方は多分、神田さんが受けた話しと似ている。



 ――あなたも大変ねえ。つまらない観光地も面白いようにすすめなくちゃいけないんだから。



 お客様の話しは止まらず、別の作業をしていた高野さんが仲裁に入ってくれた。

 お客様は話し足りないようだったが、この話を切り上げてくれた。

 今まで思い出さないようにしていた、嫌な思い出。

 私が世界遺産の勉強を始めたきっかけは、これだったのかもしれない。



 フライパンの中で自己主張をするハンバーグを、フライ返しでひっくり返す。

 小判型で厚みのないハンバーグは、片面が黒こげになっていた。

 お姉ちゃんや藍奈ちゃんみたいに料理が上手くなる日は、想像以上に遠そうだ。



     ◇   ◆   ◇



 「石見銀山遺跡とその文化的景観」


 日本国(島根県大田市)

 文化遺産

 2007年登録、2010年範囲変更


 16~17世紀初頭にかけて発展した銀山と、その周辺の景観を含めた文化遺産。

 遺産には、間歩まぶと呼ばれる坑道や、銀の積み出し港であった鞆ヶ浦ともがうら沖泊おきどまり温泉津ゆのつも登録されている。

 14世紀に大内氏によって発見され、16世紀に発展期を迎えた。

 朝鮮半島から呼び寄せられた技術者によって灰吹法はいぶきほうという製錬技術が伝えられた。灰吹法の導入により、良質な銀の大量生産が可能となった。

 最盛期の17世紀初頭には、年間約40トンの銀を産出し、当時全世界の三分の一に相当する量をまかなっていた。

 銀鉱山という経済的基盤を基に形成された街であったため、通常の城下町とは異なり、大森地区の街並みには、武家屋敷、商人屋敷、寺社などが混在している。

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