第3話 食わず嫌いだった(「富岡製糸場と絹産業遺産群」)

 飲み会から2日後、いつも以上に気合いを入れて出勤した。

 コンビニで無糖コーヒーを買って、いつものハムレタスサンドではなくチキンカツサンドを買って。



「白河さん、おはよう」

 朝一番に挨拶をしてくれたのは、同期の蔵波くらなみ祥子さん。

「蔵波さん、おはようございます。おとといはごめんなさい。迷惑をかけてしまって」

「迷惑なんかじゃないよ。意見をぶつけることは悪いことではないから」

「本当にすみません!」

「ううん、今日も一日頑張りましょう」

 にこやかなビジネススマイルの蔵波さんに、私は何も言えなかった。

 蔵波さんもあの飲み会にいた。神田さんと私のやりとりを聞いて、良い気はしなかったと思うのに。

 ちなみに、私が同期の蔵波さんに敬語を使うのは、蔵波さんの方が年上だからだ。

 四年制大学を卒業して入社した蔵波さんは、二年制の専門学校卒の私より2歳年上。でも、私より2歳以上大人びている。

 三軒茶屋支店の従業員であの飲み会にいたのは、高野さん、蔵波さん、藍奈ちゃん、私、の4人。

 高野さんは、今日はお休みの日。

 藍奈ちゃんは、ぎりぎりに出勤していたので、朝は話せなかった。



 昼休憩になると、藍奈ちゃんが「飲み会おつかれさまでした」と話しかけてくれた。申し訳ない。

「藍奈ちゃん、本当にごめんなさい。空気を壊してしまって」

「平気ですよ。千桜先輩に賛成の人、多かったじゃないですか。先輩、冷静で恰好良かったですよ。私も先輩みたいになりたいです」

 藍奈ちゃんは、猫が欠伸をするみたいに、ふにゃっと笑った。

 藍奈ちゃんは私みたいにアパート暮らしなのに、しっかりお弁当を持ってきている。6月頃からは、お弁当箱に保冷剤も当ててきて。

 私があなたみたいになりたいよ。私なんか、梅雨入りしてから毎日コンビニのサンドイッチだよ。

「飲み会の後に調べたんですけど、ウルルのある国立公園は、先住民の壁画とかもあるんですね。ウルルだって充分良いところだけど、壁画とかも見てほしいなあ」

 藍奈ちゃんは、小さいハンバーグを箸でさらに小さく割る。冷凍食品のハンバーグじゃなくて、手づくりっぽい。

「藍奈ちゃんは、なぜ世界遺産の勉強をしようと思ったの?」

 私が訊ねると、彼女は「どうしてだっけ」と小首を傾げ、思い出したように頷いた。

「食わず嫌いだったんです」



 藍奈ちゃんにとってのきっかけは、お客様に群馬県のツアーを紹介したことだった。

 富岡製糸場、サファリパーク、温泉などをめぐるツアーだったが、富岡製糸場のことを説明できなかった。

 もともと、「なんで富岡製糸場これが世界遺産なの?」という不満があり、何となく毛嫌いしていた。

 世界遺産といえば、古い城や雄大な自然というイメージがあり、比較的新しい時代の、しかも工場である富岡製糸場は、世界遺産のイメージからかけ離れていた。

 しかし、そんな考え方の従業員からツアーをすすめられたお客様は嬉しいと感じるのだろうか、と思い立った。

 今後のためにと、仕事の合間に富岡製糸場や世界遺産について独学で勉強を始めたら、意外にも奥が深く、専門用語も多かった。

 世界遺産の検定があることを知り、向学のために受験申し込みをしたそうだ。



「世界遺産検定のテキストって、本屋さんに置いていないんですね。注文してしまいました。過去問は置いてあったからすぐに買って、今は過去問だけで勉強中です」

 そう話す藍奈ちゃんは、きらきらしていて可愛らしい。

 私も負けていられない。

 仕事も、世界遺産も、女子力も。



 仕事終わりに、三軒茶屋駅近くの大型スーパーで買い物をした。

 ひき肉、玉ねぎ、パン粉、卵、こしょう、ソース、ケチャップ……ハンバーグに必要な材料だけを買ったつもりだが、普段から買い置きしていないものが多い。小さいサイズを買ったのに、財布がさみしくなってしまった、

 スーパーを出ると、思い出したように汗が噴き出した。19時近いのに、まだ西の空は明るい。

 駅に向かっていると、人ごみの中に気になる人を見た。

 駅から出てきたらしいその人は、若い男性だ。肩からエナメルバッグを下げている。

 男性も私に気づいて「あれ?」というような表情をした。

「昨日もお会いしましたよね?」

 訊ねられ、私は「ですよね」と答えた。

「お料理をなさっているんですね」

 レジ袋を見られ、感心されてしまった。今回からです、とは言えない。

「お仕事、この辺なんですか?」

「いえ、職場は逆方向なんですけど、この辺のスポーツジムに通っています。昨日は仕事が休みだったので、午前中に行っていました」

「そうだったんですね」

 この人の喋り方は今日も穏やかで、周りの空気はふわふわしていて、私まで気が緩んでしまう。

 何も話さなくても居心地は悪くないけど、話したくなってしまう。

「あの、私、白河千桜といいます。この近くの旅行代理店で働いていまして、この辺はよく通るんです」

「そうでしたか。俺は横田英一といいます。すみません、今度ゆっくり話しましょう。明日やあさってもこの時間にこの辺にいると思うので」

「すみません! ……お気をつけて」

 反省。彼の気持ちを考えずに引き止めてしまった。



 世田谷線の改札を通り、ホームで電車を待つ。

 暇つぶしにスマートフォンの無料通信アプリを開き、“友だちリスト”をスクロールする。

 忘れていた。横田英一氏とは、アカウントを教え合っていない。

 昨日今日で同志になった気でいたから、互いの連絡先も知った気になっていたのだ。

 穏やかな笑顔と喋り方は、“横田さん”より“英一くん”という感じだった。

 きっと、近いうちに会える。根拠もなく信じて、スマートフォンをマナーモードにした。

 西に沈む夕焼けをのんびり受けて、世田谷線の車両がゆっくりとホームに到着する。



     ◇   ◆   ◇



 「富岡製糸場と絹産業遺産群」


 日本国(群馬県富岡市・伊勢崎市・藤岡市・下仁田町)

 文化遺産

 2014年登録


 富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴を構成資産とする。

 富岡製糸場は、19世紀にフランスの近代技術を導入して建造された絹産業の官営模範工場。1919年に世界一の生糸輸出国となり、近代化を果たした日本の歴史を誇る産業遺産である。

 「清涼育」と呼ばれる養蚕技術を確立した人物の住宅であった、田島弥平旧宅。

 「温涼育」を確立し、養蚕の技術者を育成する学校「高山社」のあった、高山社跡。

 清涼な環境で蚕種を保存し、夏から秋にかけての養蚕を可能にした、荒船風穴。

 絹産業を価値の中心に据えた世界遺産はこれまで存在せず、世界遺産としての価値を備えているという判断から世界遺産に推薦、登録が決定した。

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