第5話 今日の世界遺産(「コルディリェーラ山脈の棚田」)
「千桜先輩がパスタを食べてるなんて、珍しいですね」
藍奈ちゃんは、猫のようにふにゃっと笑う。
今日の彼女のお弁当は、手鞠みたいな小さなおにぎり3つとミニトマト。おにぎりとミニトマトの仕切りになっているのは、レタスの葉だ。
それに対して私は、茹でたパスタを弁当箱に敷いて、その上に昨日の平べったいハンバーグを乗せただけ。
白米を切らしていたことに気づかず、ひとつかみ残っていたパスタをご飯代わりにしたのだ。女子力どころか、男飯。
「うん、たまにはお弁当にしてみようかと思って」
そうでしたか、と藍奈ちゃんはにこにこしている。
言えない。訊けない。
成城支店に本社の人が来て、この前の飲み会のことを聴き取りしていたなんて。
この前の飲み会のこと、誰かが社長の直通メールに送って、神田さんを辞めさせてほしいって書いたみたい。
……なんて、言えない。
……なんて、訊けない。
「ねえねえ、先輩。“今日の世界遺産”をひとつ、お願いします」
「何、そのコーナーみたいなのは」
「テキストにかじりついているより、話題にあげたほうが覚えやすいかと思いまして。先輩のいちおしを教えて下さい」
確かに、テキストの丸暗記よりは、話したり聞いたりした内容の方が覚えやすいと思う。
「沖ノ島」の立ち入り禁止とか。
……あの彼が頭に浮かんでしまって、気が緩みそうだ。いけない、いけない。
「藍奈ちゃんはどこの出身なの?」
「山形県の鶴岡です。何もないところですよ。田んぼだらけです」
藍奈ちゃん、山形の出身だったのか。訛っていないから、首都圏かと思っていた。
では、田んぼの話しをひとつ。
「世界遺産になった田んぼがあるんだよ」
「田んぼが世界遺産ですか?」
「うん。日本じゃないんだけどね」
日本の世界遺産でないことは覚えている。でも、名前を忘れてしまった。
スマートフォンの検索エンジンに「田んぼ 世界遺産」と入力し、検索結果を藍奈ちゃんに見せた。
藍奈ちゃんも、自分のテキストを出して「もしかして、これですか?」とページを見せてくれた。
「コルディリェーラ山脈の棚田」
舌を噛みそうな名称の世界遺産は、フィリピンにある。
「建物とか綺麗な自然じゃなくても、世界遺産になるんですね」
藍奈ちゃんの反応は、もっともだ。
古く立派な建物や雄大な自然、珍しい動物がいる地域は、世界遺産になりそうなイメージがある。
イメージしづらい世界遺産を「なぜこれが世界遺産に?」と受け入れられない人もいる。受け入れられないことは悪いことではない。でも、冷静になったときに、世界遺産になれた理由を考えてほしい、と私は思っている。
藍奈ちゃんなら、きっと大丈夫。
食わず嫌いだった「富岡製糸場と絹産業遺産群」を調べて克服して、他の世界遺産も勉強しようとしているから。
私も負けていられない。
今日は遅番なので、業務時間は12時から21時。
仕事が終わって建物を出るときには、とっくに暗くなっている。
アパートに帰り、コーンフレークを少しだけ食べた。
明日は可燃ごみの回収日なので、夜のうちにごみをまとめておく。
開封した牛乳は消費期限が1週間ほど切れていたので、半分残っていたけれど捨てることにする。
キッチンの隅に置いたままだったレジ袋を開けてみたら、未開封のパン粉が入っていた。
昨日スーパーで買ったのは良いが、すっかり存在を忘れていた。多分、ハンバーグにも入れていない。
ごみ箱をひっくり返して、ひき肉のラベルを見てみたら、“鶏ひき肉”と表示されていた。
合びき肉を買ったつもりだったが、鶏肉だったようだ。
パン粉なし鶏ひき肉のハンバーグが、綺麗に膨らむはずがない。
私は天井を仰いでしまった。
今日は遅番だったから、駅の近くであの彼に会わなかった。
今日は会えなくて良かったかもしれない。
料理をする人だと思われてしまったから、ハンバーグに失敗しましたなんて言えない。
でも、あの穏やかな笑顔を思い出して、柄にもなく乙女チックになっている自分がいる。
◇ ◆ ◇
「コルディリェーラ山脈の棚田」
フィリピン共和国
文化遺産
1995年登録
ルソン半島北部のあるコルディリェーラ山脈には、標高1,000m~2,000mの斜面に築かれた棚田が連なる地域。その景観から「天国への階段」とも呼ばれる。
幾重にも重なった棚田は、斜面に積まれた石段で築かれており、その総延長距離は地球半周分に等しい約2万kmにも及ぶと考えられている。
少数民族イフガオ族によって、およそ2,000年前から伝統的な稲作が行われてきた。
イフガオ族は16世紀のスペイン支配、20世紀のアメリカ支配の間も、稲作技術や儀礼を守り抜き、2,000年前とほとんど変わらない稲作が現在も行われている。
2001年、後継者不足などから荒廃する水田が増加し、「危機遺産」に登録された。2012年に解除。
植えつけや収穫、冠婚葬祭の際に歌い継がれてきた「ハドハド」と呼ばれる歌が「イフガオ族の歌、ハドハド」として「無形文化遺産」にも選出されている。
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