第5話


 時計の針の音がする。

 コツコツと。

 淡々と。

 この時計は私が小学生の頃からこの部屋の壁にかけてある時計で、赤い丸縁、ミッキーマウスが真ん中に立っていて、その右腕が長針、左腕が短針になっていた。

 真っ暗な部屋の中、私はロングコートを羽織ったままベッドに寝そべっていた。

 髪の毛をかきあげて身体を起こす。いまいち頭が覚醒しない。

 なんやったんやろ。今の。

 変な夢やった。よくよく考えるとおかしなところがもっとたくさん見つけられそうやったけど、考えるのが面倒でやめた。

 てか喉渇いた。

 私は鞄からバイトの休憩時間に飲んでいたペットボトルの水を出して飲んだ。ぬるくって、美味しくなかった。あの桃ジュースが飲みたいなぁ。うん、あれは美味しかった。あのコックさんはほんと素晴らしかった。

 携帯を見ると午前一時半。四時間前にお母さんからご飯できてるよ、とメールが来ていた。四時間前って私どんだけ熟睡してたんだ。お腹がすいていた。くぅー、と鳴ってしまいそうな感じ。胃の中が空っぽな感じ。でも肉じゃがなんよなぁ、確か今夜は。肉じゃがはあんまりやな。何かもっとジャンクな、カップヌードルとか食べたい。シーフードの。お母さんには悪いけど。

 カーテンを開けると月明かりがすーっと入ってきて、外には驚くほどいつも通りの世界があった。

 あっちの世界のサリはあの後どうなったんかなー。ちょっと眠る、とかわけ分からんこと言ってたけど。眠るって何よ。色が薄くなってって消えちゃいそうになってるくせして。あれ、まさかほんまに消えちゃってないやんな? よく雪山系で起こる「私、なんか眠くなってきた……」「ダメだ! 寝るな! 寝たら死ぬぞ!」的な流れで。それやったら引っ叩いてでも起こすべきやったなぁ。うーん。いや、でも何か「お前に愛されてるから消えない」とか言ってたな。自信満々に。それやったら、まぁ、多分大丈夫やろ。

 こっちのサリはどうしてるんかな。

 これくらいの時間なら、ちょうどバイト終わったくらいの時間かな。

 こっちのとかあっちのとか別にして、私は夢でサリに会ったから、今、胸の中でサリの存在がいつも以上に浮き上がってる。そういえば眠りに落ちる前もサリのことを考えてた気がする。しばらく会えないとか言われて。

 会いたいなぁ。

 次いつ会えるかな。

 てか、今すぐ会いたいな。

 遠くの方で猫が喧嘩してる声がした。それが終わるとまた静かな夜で、痛みのない甘ったるい空気が世界を包んでいた。何があっても壊れない世界。消えない世界。そして今日という夜。

 何かが私の胸を打った。

 今すぐ会いたい。

 私は鞄の中からキーケースだけを取ってロングコートのポケットに入れて部屋を出た。

 眠っている家族を、温められずに鍋の中にいる肉じゃがを、ベッドの上の温もりを、ミッキーマウスの腕が示す午前一時半を、その他もろもろを置き去りにして、私は春の夜に飛び出した。

 自転車にまたがった時にサリに電話をかける。出ない。えーい。それでもいいや。私は携帯をポケットに入れて、サリのバイト先を目指して走り出す。

 いつも二人で歩く街並みを秒速で走り抜ける。大事にしていた景色とかよりも、大切なものが今はあった。

 信号で止まって携帯を見ると、サリから折り返しが入っていた。私はすぐ掛け直したけど、またサリは出ない。信号が変わったので先を急ぐ。

 スピードを上げると頬に当たる風が冷たかった。私は構わず全力で自転車を漕ぐ。

 近道で公園の散歩道を通った。よく遅刻しそうな時に通る道だ。

 散歩道の両サイドに立つ街路樹は街灯の灯りを受けて風に揺れているから、万華鏡の中を走っているような気持ちになった。全力で走っているから身体はどんどん暑くなっているのに相変わらず風は冷たい。外気と内面の温度差が激しく、不思議な感じやった。

 ふと私は、今年の冬の出来事を思い出す。

 寒い日が続いたが、雪はなかなか降らなかった。サリは北国育ちやから雪が好きで、降らないなぁ、降らないなぁ、と毎日言っていた。

 で、ある日やっと雪が降った日の夕方、サリから電話がかかってきた。

「降ったな、雪」

 サリの声は興奮気味で、こんなに寒いのに外にいるみたいやった。

「降ってるね」

 私は二月生まれやのに寒いのが嫌いで、学校帰り、ぐるぐるに巻いたスヌードも外さないでリビングの炬燵で丸くなっていた。

「積もるかな?」

「いやぁ、積もりはしないんちゃう」

 寝転んだまま窓の外を見た感じ、ほんとにそう思ったのだ。

「そうだよな。この感じは」

「外、寒くないの?」

「そりゃ寒いよ」

「じゃ中入ったら? 何してんの?」

「別に。ベランダから雪を見てるだけ」

「何それ。風邪引くよ」

「うん。懐かしくってさ、雪」

「ほどほどにしなよ」

「うん」

 それでしばらくどうでもいい話をしたあと、電話を切った。

 そんな今年の冬の話。

 その時、私は炬燵の中、サリは雪の中、なんか真逆やなぁ。なんて思った。ただそれだけやけど。何のオチもないけど。

 そんなことをなぜか今思い出した。

 公園を抜けた時、ポケットの中で携帯が震えていることに気づいた。でも取り出した瞬間に切れた。すぐに折り返すと、今度はワンコールでサリが出た。

「入れ違ったな。どうした? こんな時間に」

「うん、サリ今どこ?」

「バイトから帰ってる途中だけど」

「だからどこよ。場所。私今、サリのバイト先に向かってる途中なの」

「えっ、大丈夫なのかよこんな時間に。門限は?」

「くだらないこと聞かないでよー。ね、どこなん?」

「ん、今ちょうど薫の高校の前くらい」

 高校ならここからすぐだ。

「ちょっと待ってて。そこにいて」

 私はそれだけ言ってまた自転車を走らせた。

 高校までは多分、二分くらいで着く。

 全力でペダルを漕いだ。

 それにしても、さっきから心が、時間が一秒一秒過ぎる度に心が軋む。風が冷たい。「今」が少しずつ消えて行くのが分かる。まるであの日の雪みたい。積もらないで消えていく。だから、とにかく早く会いたくて。

 高校に着いて思ったんやけど、高校と言えど外周は広い。まったく、高校の前くらいってどこの前のことよ。ってよく聞かずに電話を切ったのは私なんやけど。

 自転車を降りて、再びサリに電話をかける。すぐに出た。

「高校の前ってどこらへん?」

 電話口でそう聞いた瞬間、ちょっと先のとこ、サリが原付のシートに座って上を見ているのを見つけた。頭上には桜、満開やった。

「よぉ」

 サリが私に気づいて片手をあげる。何故か眼鏡を掛けていた。

「何で眼鏡なん?」

「ん、昨日寝不足でコンタクト入らんかった。バイトの後に大学の課題やってたから」

「そうなんや」

「綺麗だな、桜。通りかかったらめっちゃ咲いてた」

「ほんまやな」

 見上げると夜の闇をバックに桜の花びらが映えていた。

 映画みたいな、絵画みたいな。嘘みたいで、うっとりと。陶酔してしまうような。そんな美しさやった。

「私の席、あの教室の窓際やってん」

 私は遠くに見える校舎を指差す。

「どれだよ」

「三階の右から三番目」

「へぇ」

「校庭の体育がよく見えるの」

「そっか」

 出た、「そっか」。

「てか急にどうした? なんかあったの?」

「会いたかったの」

 私は「そっか」って言われる前にサリの胸元にパンチを入れた。もちろん本気じゃなくて、弱くやけど。

「何なんだよ」

「怖い夢を見たの」

「へぇ。どんな?」

「うーんと、蛇に襲われる夢」

「蛇か。でも蛇が出る夢って縁起が良いんだぞ」

「そうなん?」

「うん。で、最後蛇はどうなったの?」

「えーと、何か床の裂け目に落ちてった」

「シチュエーションが読めねぇ」

 そう言ってサリは笑った。

「サリも出てきたんやで」

「あ、そう。何してた?」

「何してたと言われると難しいなぁ。でも優しかったよ。私のこと助けてくれたし」

「なら良かったけど」

 笑った。二人して。

 風が吹いて夜桜が揺れる。花びらが少し舞う。そしてサリがここにいる。

 で、私は思った。

 めっちゃプラス思考で。

 基本的に輝いてるんじゃないかなぁ。未来なんてものは。だいたい。ただ、そうは思えない時やってこれからあるかもしれないけど。時は流れてく、どんどん大人になる。私もサリも。だから今って、刹那的な今って、すごく愛しい。

 やがて桜は散ると思う。

 でも私は今見てる桜の色を、匂いを、感じを、隣で微笑むサリを、ずっとずっと、決して忘れないでいたい。

 そう思う。思ってる。

 祈ってる。

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