11*次の日。朝、家を出ると、村時さんが待っていた。


 次の日。


 朝、家を出ると、村時さんが待っていた。


 朝日を浴びて、村時さんの艶やかな黒髪が輝く。


「おはようございます、煌介くん」


「お、おはよう、村時さん」


 返事をしながら、少しだけ戸惑う。


 何だろう。


 村時さんの雰囲気が昨日までと違うような気がする。


 けど、何が違うんだ?


 そんなことを思っていたら、村時さんが俺の顔を覗き込んでくる。


「どうかしましたか?」


 大きな瞳が、真っ直ぐ、俺のことを見つめてくる。


 それで気づく。


 ああ、そうか。


 こんなに見ているのに、村時さんは泣き出さないし、恥ずかしがらないし、真っ赤にならないのだ。


 どこまでも真っ直ぐ、俺の視線をきらきらした瞳で弾き返してくるのだ。


 村時さんが変わる、何かきっかけがあったのだろう。


 それが何なのか、気になった。


 だけど、あれこれ尋ねることで、前のようになってしまわないとも限らない。


 なら、聞かなくていい。


「別に、何でもないよ。行こうか、学校」


「はい!」


 歩き出すと、村時さんが俺の隣に並ぶ。


 昨日より、一歩、近く。


 通い慣れ始めた通学路もこうして村時さんと一緒に歩くだけで、新鮮に見えた。


 そんなことを思っていたら、村時さんが口を開いた。


「今日は昨日じゃありません」


「え? ああ、うん。そうだね。今日は今日だね」


「つまり、もう昨日じゃないということです」


「当然だね」


 村時さんは何が言いたいのだろう?


「名前、たくさん呼んでもいいですよね!?」


「は? ……は!?」


「昨日、言いました。『今日はもう駄目だ』って。ですが、今日はもう昨日じゃありません。つまり、たくさん呼んでもいいってことですよね!?」


 村時さんがぐっと体を寄せてくる。


 途端、甘い香りが、俺の鼻先をくすぐった。


 俺は仰け反って、叫ぶように言う。


「ちょ、近い近い近いよ! 村時さん!」


「え? ……あ、ご、ごごごごめんなさい!」


 慌てて距離を取る村時さん。


 具体的には――。


「え、えーっと、村時さん? ……どこ?」


 村時さんの姿がどこにも見当たらなかった。


 いつものように認識をズラしたのだろうか?


『学校です』


「ああ、なるほど学校ね――って学校!?」


 全然違った!


 驚きつつも、俺は村時さんの言葉を嘘だとは思わなかった。


 村時さんは勇者で、昨日も一瞬で帰宅したからだ。


「あれ? でも、それならどうしてこんなふうに話ができるんだ?」


『遠く離れた人とも話すことができる力があって、それを使っているんです』


「おお、なるほど」


 さすが勇者だ。


『それで……もう近くないですし、名前、呼んでもいいですよね!?』


「ああ、うん。それはいいけど」


『けど?』


「その、ちょっと離れすぎというか……できれば近くに来て欲しいなぁ、とか思ったりして」


 周囲の視線が気になるのだ。


 だって、明らかにおかしな人を見る感じでこっちを見ている。


 その気持ちがわからなくはなかった。


 誰もいないのにぶつぶつ喋っていたら、俺だって「大丈夫かな?」と心配して、決して近づこうとは思わない。


「わかりました」


 という声は、すぐ近く、隣で聞こえた。


 見れば、そこに村時さんがいた。


「も、もう戻ってきたんだ。すごいね」


「これでいいですよね!?」


 俺の話を聞いてない。


 というか、どれだけ呼びたいんだ……。


 驚くやら、苦笑するやら。


 本当のことを言えば、恥ずかしかった。


 けど、こんなにお願いされて、断るなんてことは俺にはできなかった。


「いいよ、好きなだけ呼んで」


 覚悟を決めてそう言ったはずなのに、声が少しだけ裏返ってしまったのは、ここだけの秘密だ。


 それから村時さんは学校に着くまで、本当に好きなだけ、俺の名前を呼んだのだった。




   ●




 午前中の授業が終わり、昼休みになった。


 今日も村時さんが弁当を作ってきたというので、一緒に食べることにした。


 昨日とは気分を変えて、今日は中庭で。


 村時さんの作った弁当は本当においしくて、それを素直に伝えたら、村時さんは顔を真っ赤にして、はにかんだ。


「ありがとうございます、煌介くん」


「別に、礼を言われるようなことじゃないよ。村時さんの作ってくれた弁当がおいしいのは本当のことだから」


「それでも、すごくうれしいです。……本当にありがとうございます、煌介くん」


 なんてやりとりをしていたら、一緒に食べていた真耶が、ぽつりと言った。


「ねえ、合川くん、ちょっといいかな?」


「ん? 何だ?」


「どうして村時さんのこと、名前で呼ばないの?」


「え?」


「村時さんが名前で呼んでるんだから、合川くんも名前で呼ぶべきでしょ」


「何だその理屈は。意味がわからないんだけど」


 俺の言葉に村時さんが同意する。


「そ、そうです! 煌介くんに名前で呼ばれたら、わたし、すごくうれしくなってしまって、とんでもないことになってしまう自信があります!」


 同意じゃなかった。


 内容がまったく違っていた。


 そうなんだ、とんでもないことになるんだ……。


 俺が村時さんの言葉に衝撃を受けつつ、とんでもないことというのがいったいどんな感じなのか気になっている間に、村時さんと真耶の話は進んでいく。


「とかなんとか言っても、本当は合川くんに名前で呼んで欲しいと思ってるんでしょ?」


「そ、それは……その……」


 ちらちら。


 村時さんが上目遣いで俺を見てくる。


 真耶が俺の脇腹を肘でつついてきた。


「ほら、呼んで欲しいって言ってるじゃない。合川くんも男なら男らしく、ビシッと呼んであげるべきなんじゃないかな」


 名前を呼ぶのに男らしいとかあるのか!? とか。


 男らしくとか言うのってセクハラなんじゃないか? とかとか。


 そんなふうに思ったりしたけど。


 村時さんが俺に向けてくる「呼んで欲しいです!」といった感じの眼差しを、俺は無視することはできなかった。


「わ、わかったよ。呼ぶ、呼びます!」


 別にすごいことをするわけじゃない。


 ただ、名字ではなく、村時さんのことを名前で呼ぶだけ。


 ただそれだけだ。


 というのに、なんで俺はこんなに緊張しているんだ!?


 ヤバい。


 心臓が痛いくらいドキドキしてきた。


 深呼吸を繰り返して、気持ちを仕切り直す。


 村時さんの視線が、じーっ、と突き刺さっていることは、あえて意識しない方向で。


 よ、よし、行くぞ!


「さ、沙里緒、さん」


 うわずってしまった。


 村時さんを見れば、


「ふわぁ……!」


 顔が真っ赤で。


 その頬を涙が伝い落ちた。


「ちょ!?」


「ご、ごめんなさい! とってもうれしかったから! だから、その、ありがとうございます!」


 俺は自分の頭を叩いた。


 こんなに喜んでくれるなら、どうしてもっと早く呼んでいなかったんだ。


 ポケットからハンカチを取り出し、村時さん……じゃなくて、沙里緒さんに差し出す。


「だ、大丈夫です! 自分のを使いますから!」


「そんなこと言わないで。使って欲しいんだ」


 有無を言わさず、沙里緒さんに手渡す。


 けど、沙里緒さんはそれを使ってくれなかった。


 大事にすると、胸に抱きしめて。


 それがうれしいやらくすぐったいやらで俺が微笑むと、沙里緒さんもはにかんだ。


 そんな俺たちのやりとりを眺めていた真耶が、


「自分で言っといてなんだけど、ふたりとも、いちゃつきすぎ。つきあい始めたばかりだから、そうしたくなるのはわからなくはないけどさ」


「は!?」「え!?」


 俺と村時さんの声が、期せずして重なった。


「え、何? 何でそんなに驚いてるの!?」


 俺たちが驚いたことに、真耶も驚いていた。


「いや、だって、俺たち、つきあってないぞ? ……ね? 沙里緒さん」


「はい。つき合ってません」


 俺と沙里緒さんは顔を見合わせ、うなずき合う。


「ちょ、つき合ってないとかどういうこと!? 意味がわからないんだけど!」


「いや、意味はわかるだろ? つき合ってないというのは、俺たちがつき合ってないということで――」


「そういうことを言ってるわけじゃなーい!」


 真耶が叫ぶ。


「村時さんは合川くんのことが好きなんだよね!?」


 その言葉に、沙里緒さんは真っ赤になりながらも、こくっ、と力強く頷いた。


 沙里緒さんのその反応に、俺の顔も熱くなる。


「合川くんも好きだって返事をして、だからそんなにいちゃついてたんじゃないの!?」


「別にいちゃついてなんか――」


「いーいーえー! めちゃくちゃいちゃついてました! 十人いれば百人が『いちゃついてた』って答えるぐらいでした!」


「真耶、数が合ってないぞ」


「細かいことはどうでもいいの!」


 細かくないだろうと思ったけど、真耶が今にも噛みついてきそうな勢いで睨んできたので、俺は固く口を閉ざした。


 親友の昼食にはなりたくない。


「てっきり、昨日、喫茶店に行って、そこで返事をしたと思ってたのに……」


「そのことなんだけど……真耶、ごめん。喫茶店、行けなかったんだ」


「なんだとぅっ!?」


 真耶が目を剥くと、沙里緒さんが慌てて、


「ま、真耶さん、顔が大変なことになってます!」


「そんなことどうでもいいよ! 喫茶店にも行かないし、告白の返事もまだとか、いったいどういうことなのさ!?」


 わけがわからないよ! と叫び、手当たり次第、弁当を食べ始める真耶。


 荒ぶる真耶は手がつけられず、沙里緒さんが作ってくれた弁当はあっという間になくなってしまった。

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