02*九死に一生を得た翌日の朝、俺は


 九死に一生を得た翌日の朝、俺は目覚まし時計が鳴りだす前に目を覚ました。


 小鳥のさえずりが聞こえて来る中、朝日の差し込む自分の部屋をゆっくりと見回す。


 机があって、本棚があって、テレビがあって。床には漫画が転がっている。


 しばらくそうして見回した後、俺はベッドから抜け出し、制服に着替え、二階にある自分の部屋から、一階へと降りていく。


 階段を降りている途中から、食欲を大いに刺激する匂いが漂ってきた。


 どうやら今日の朝食はカレーらしい。


 母さんの特製カレー、うまいんだよなぁ……って朝からカレー? 間違いなく父さんのリクエストだな。


 母さん、父さんにベタ惚れだから……。


 なんてことを思いつつ、俺はリビングの入口で立ち止まった。


 父さんはテーブルの定位置で新聞に目を通していて、母さんはキッチンで食事の用意。


 姉さんは皿を並べたりと、その手伝い。


 その様子を、俺は眺めたかったのだ。


 どれぐらいそうしていただろうか。


 父さんが俺に気づいた。


 中に入らず、入口で立ち尽くしている息子を、怪訝そうな顔で見る。


「どうした?」


「当たり前じゃないんだよ」


「は?」


「父さんがいて、母さんがいて、姉さんがいて。それはさ、当たり前に続いていく日常だと思っていたんだ。けどさ、それは当たり前じゃないんだよ」


 そのことを俺は昨日、知った。


 ダンプカーに、あわやはね飛ばされかけたことで。


「今、こうして続いている毎日は、奇跡みたいなものなんだよ」


 そう言いながら、父さんたちを見る俺の目は、あるいは潤んでいたかもしれない。


 いや、かもしれない、なんて曖昧な言葉で誤魔化すのはやめよう。


 断言する。


 俺の眼は潤んでいた。


 すっかり見慣れたこの光景が、実は特別なことだって気づくことができたのだから……!


 だが、ここでとても残念なお知らせをしなければならない。


 どうやら奇跡のような毎日に感動していたのは俺だけだった模様である。


 父さんは読んでいた新聞を落として愕然とし、母さんは真っ青になってパタパタとスリッパを鳴らして駆け寄ってくると俺の額に手を当てて熱を測り始めた。


 そんな中、姉さんがとても穏やかな眼差しをして言った。


「アンタ、やっぱり病院に行った方がいいよ。昨日帰ってきてから、変だって」


 何を隠そう、実は昨日も同じようなことをやったのだ。


 その時は冗談だと思って笑い飛ばされたのだが、二回も続くと、俺がどうにかなってしまったんじゃないかと受け止められたようだ。


 本気で心配そうにしている家族に向かって俺は叫んだ。


「いやいやいや、俺、大丈夫だから! 全然、変じゃないから!」


「わかったわかった。それで、病院の予約なんだけど――」


「全然わかってくれてないじゃないか……!」


 俺、そんなに変なことを言ったつもりはないんだけど。


 ……変なのか?




   ●




 なんて。


 そんな一悶着があったわけだけど、それはそれとして、学生である俺は、断じてどこにも異常は見当たらないので、学校に行かなければいけない。


 通学路に植えられている桜は入学式の時には満開だったが、今はもうすっかり散っていて、葉桜になっていた。


 もう一ヶ月もすれば、新緑が眩しい季節になるだろう。


 だが、そんなことに気を向ける余裕は、今の俺にはなかった。


 そんなことより、もっと気にしなければいけないことが……ん?


 俺の横をとおりすぎていく人が、怪訝そうな顔でこちらを見ていることに気がついた。


 その人の気持ちがわからなくはなかった。


 なぜなら今の俺は、自分でも挙動不審だと思うから。


 通報されないだけ、マシってものだろう。


「もしもし、警察ですか!? 今、めちゃくちゃ怪しい男の子がいて……!」


 通報されていたあああああああああああ!


 慌てて逃げ出す俺だった。


 何だってこんな目に!?


 俺が挙動不審なのは、例の視線を感じるからである。


 しかも、いつもよりずっと強い。


 まるで一挙手一投足を監視されているみたいな気分だ。


 再び通報されてはかなわないので急ぎ足で学校に着くと、下駄箱で靴を履き替え、教室へ。


 自分の席についても、まだ視線を感じる。


 気取られないように周囲を見回してみても、すでに登校してきていたクラスメイトたちが適当な雑談に花を咲かせているばかりで、それらしい人影を見つけることはできなかった。


 誰が見ているのか?


 いったい、いつまで続くのか?


 謎は尽きない。


 だが、今は一旦、脇に置いておこう。


 クラスメイトがいる中で、何か変なことは起こらないはずだ、たぶん。


 ……きっと。


 …………俺はそう信じたい!!


 ということで、ひと息をつく。


 けど、すぐに気を取り直した。


 大事なことがあったのを思い出したのだ。


 俺はゆっくりと後ろを振り返り、を見た。


「まだ来てないのか」


「誰が?」


 そんな声が聞こえてきた。


 声の主を見る。


 隣の席の、真耶まや和希かずきだ。


 お下げ髪で、頬の丸みや垂れた目元などに幼さを残した、青縁メガネの美少女である。


 手に持ったバームクーヘンをむぐもぐと、本当においしそうに食べていた。


 いや、バームクーヘンに限らず、真耶が食べているものは、何でもおいしそうに見えるのだ。


 実はこの真耶、休み時間の度に何かを食べないではいられない、大食漢だったりする。


 そもそも真耶と話すようになったのも、この間食がきっかけで、真耶がその美少女然とした見た目に反して、ものすごい勢いで腹をぐーぐー鳴らしていたから、昼食用にと買っておいた焼きそばパンを食べるかと差し出したことから始まったのだった。


「おはよ、合川くん。で、誰が来てないって?」


 おはよ、と返しつつ、言う。


「村時さん」


 すると、真耶がきょとんとした顔をする。


 美少女はすごい。


 こんな顔をしていてもかわいいと思える。


 じゃない。


 聞こえなかったのか? 仕方ない。


 俺はもう一度言った。


「村時さんだけど」


 途端、教室に絶叫が響き渡った。


「ちょ、どういうこと!? 合川くんは思い出の女の子一筋じゃなかったの!?」


 真耶の口からバームクーヘンの欠片が俺の顔に飛んできた。


「それなんてご褒美!?」とかいうクラスメイトの声が聞こえてきたのは、全力で聞こえなかったことにしたかった。


 真耶が言った思い出の女の子とは、例の、十年前に一度だけ出会った少女のことだ。


 その子のことをどうして真耶が知っているのか?


 答えは簡単。


 入学式が終わり、クラスで自己紹介をした時、全員が初対面という状況にテンパってしまった俺は、うっかり口走ってしまったのだ。


 十年前に一度だけ出会った女の子と再会するためにこの町に戻ってきた、と。


 つまり、真耶に限らず、クラスメイト全員が知っているというわけだ。


 それ以来、クラスメイトたちからめちゃくちゃ生あたたかい眼差しで見られるようになったのは、どうでもいいことなのでまったく気にしていない。


 ほほほほ本当だぞ!?


 なんてことを思っていると、落ち着きを取り戻した真耶が、うんうんと頷いていた。


「でも、よかった」


「よかったって何がだよ?」


「だって、合川くんがようやく現実に目覚めたんだよ? 友だちとして、こんなに喜ばしいことはないって」


「現実に目覚める? 悪いが、俺にはお前が何を言っているのか、さっぱりわからないんだけど」


「思い出の女の子って、合川くんの中にしかいない存在でしょ? つまり、えーっと、脳内設定?」


「いるよ! 思い出の女の子ちゃんといる!!」


 思わず大声で叫んだ後、真耶が笑っていることに気がついた。


 どうやら冗談だったらしい。


 叫んでしまったことと、クラスメイトたちからめちゃくちゃ生あたたかい眼差しを向けられた気恥ずかしさから、真耶を強く睨みつけると、


「そんなに見つめられると照れちゃうよ」


 と、まったく照れていない顔で言うのだった。


 ……まったく。


「でも、ちょっと意外だったかも。合川くんが村時さんに興味があるなんて」


「興味というのとはちょっと違うんだけど」


「いやいや、誤魔化さなくていいよ。村時さん、美人だもんね。実際、彼女に告白したっていう男子、けっこういるみたいだし」


「へぇ、そうなのか」


 真耶が頷く。


 それは知らなかった。


「でも、告白した男子、全員が玉砕しちゃったんだな」


「は、全員!?」


「そうだよ。一人残らず『ごめんなさい』」


「マジか……」


「その中に次期サッカー部エースと名高い男子もいたんだよ!? もったいないよね」


 そういう真耶の口調が本当に残念そうだったから、俺はある可能性に思い至った。


「なあ、真耶。もしかしてその男子のこと、好きだったりするのか?」


「うん!」


 マジで!?


「その男子の家がパン屋さんなんだよね! すっごくおいしいって評判の!」


「それを好きとは言わない絶対に……!」


「特にクリームパンが絶品なんだって! いいよねぇ、クリームパン……」


 恍惚とした表情をする真耶。


 駄目だこいつ、早く何とかしないと。


 こんなにかわいいのに、頭の中は食べもののことばかりすぎる……。


 なんて苦笑している場合じゃない。


「真耶、よだれ、よだれ」


 俺が自分の口元を示してよだれが垂れていることを指摘すると、真耶は紅くなって、慌てて口元を拭うのだった。


「ま、まあ、あたしのことはどうでもいいんだよ。そんなことより、どうして合川くんが村時さんのことを気にするのか、気になるんだけど」


「力業で誤魔化さなくてもいいのに」


 言うと、真耶がぐるるーと唸って睨んでくる。


「実はさ」


 と、俺は昨日の顛末を真耶に話した。


 ひとり屋上に取り残された俺。


 混乱して、叫んでいると、警備員さんがやって来た。


 鍵は閉まっていた。


 なのに、なぜ、こんなところにいるのか。


 どうやって忍び込んだのか。


 いろいろ質問され、正直に、空を飛んで――いや、空を走って、ここまでやって来たと言った。


 そうしたらら、とてもかわいそうな子を見るような目で見て、気をつけて帰るんだよ、とあたたかい飲み物まで持たせて、送り出してくれた。


 真実が必ずしも通じるわけではないのだと、俺は十五歳にして知った。


「それで、いつになったら村時さんは出てくるの?」


 しまった。


 出てこない。


「ま、まあ、これはちょっとした行き違いってやつで……そう、これからはじまりを話すつもりだったんだよ」


「力業で誤魔化そうとしているね?」


 何のことだか。


 笑う真耶から視線を逸らし、俺は最初から話し始めた。


 誰かにつけられているような気がして逃げていたら、いつの間にか道路に飛び出していたこと。


 死んだ、と思ったこと。


 でも、助かったこと。


 いや、助けられたこと。


 その助けてくれたのが村時さんだったこと。


「……でも、村時さんは自分は村時さんじゃないって否定したんだ」


「じゃあ、違うんじゃないの?」


「いや、それはない。……と思う」


 確信を持てないでいるのは、村時さんと話したのが昨日が初めてだったから。


 何せ彼女が数多くの男子に告白され、そのすべてを断っていたことも、真耶に聞かされるまで、知らなかったぐらいだ。


 でも、やっぱり、彼女は村時さんだったと思っている。


 だから、教室で確認したいと考えていたんだ。


「それに……」


「それに?」


 真耶が聞いてくるが、俺は「何でもない」と首を振った。


 言っていいのか、わからなかった。


 彼女は自分のことを勇者だと言っていた。


 額面どおりに受け取るなら、そのまんま。


 魔王を倒したり、世界を救ったりする、そんな存在だ。


 普通に考えれば、あり得ない。冗談を言っているとしか思えない。


 けど、俺はそう言い切れなかった。


 だって、彼女は常識では考えられないことをした。


 俺を助けた方法。


 普通、空を走ることなんてできない。


 それに、忽然と姿を消したこともそうだ。


 だが、彼女が言うとおり、勇者であるというなら、そういうことができても不思議じゃない気がする。


 ふたつ後ろの席は、いまだに空いたまま。


 果たして村時さんはいつ来るのか。


 思った時、キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴った。


 鳴り終わると同時に、担任がドアを開けて、入ってくる。


 途端、クラスメイトたちが雑談をやめ、ざわめきが収まる。


 担任が教壇に立つと、日直が号令をかける。


 起立、礼、着席。


 出欠を取り始める担任。


 村時さんは来なかった。


 遅刻? あるいは欠席?


 そんな俺の予想は、裏切られることになる。


 なぜなら、担任の呼び声に応える声があったのだ。


「村時ー」


「はい」


 俺はものすごい勢いで後ろを振り返った。


 すると、そこには田辺くんがいた。


 当然だ。


 俺の真後ろの席は出席十五番田辺くんの席だからな。


 ギョッとしている田辺くんには悪いが、今、俺が見たかったのは田辺くんではない。


 心の中で謝りつつ、俺が見たいのはその後ろ。


 そこに、村時さんがいた。


 背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見つめた姿は凛としていて、清々しい。


 だというのに、俺が感じていたのは寒気にも似た感覚だった。


 背筋がゾクゾクする。


 だってそうだろう? さっきまでそこには誰も座っていなかったのだ。


 いったいどういうことなんだ?

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