第18話 ヴァルラム宮

 僕を呼ぶ声が聞こえた。僕は静かに瞼を上げた。

 気を失っていた僕を覗きこんでいたのは、ヴェロニカとイグナートだった。

「うわあ、よかった。あなたたち大丈夫?」

 ヴェロニカの高い声がぼんやりした頭にやけに響いた。ヴェロニカはユーリに切られた僕の腕に包帯を巻いているところだった。

 傍らを見ると、僕と同じように頭を擦りながら身を起こしたジェミヤンがいた。その横には、体の花々が少し焦げて薄汚れた花の羊がいた。

 僕は辺りを見回したが、頭が働かない。

「ここはどこだ?」

「亡国の広場よ」

 亡国の広場――。それはヴァルラム宮の中央にある。五百年前、シャマーラ人との戦争に負けて国を追われたクライン人が、国を失くした無念を忘れないように造られた広場だ。

「何が起きたんだ?」

「覚えてないの? ものすごい雷が塔に落ちたのよ」

「塔が中から爆発したんだぜ」

 イグナートがその体と同じように、目を真ん丸くして言った。

「何で俺は助かったんだ?」

 ヴェロニカがイグナートを押しのけて身を乗り出した。

「私たちが宮殿に戻ったら、あなたのお父様とアリフィヤ様がいたの。塔の中にいたはずなのに。それであなたたちが塔に入っちゃった事を伝えて、一緒に塔に戻ろうとしたんだけど、とてもじゃないけど塔に近づけるような状態じゃなかった。雷が何発も塔に落ち続けてたのよ。それで最後に強烈な雷が塔に落ちて、塔が中から爆発したの。でもその瞬間、あなたのお父様が杖を翳して、あなたたちを瞬間移動させたの」

 イグナートが立ち上がり、大声を上げた。

「ガヴリイルさまー! ルカたち気がついたぜー!」

 その声の先に目をやると、少し離れた所に父さんの姿があった。父さんは軽く手を上げたが、その視線は空を見ていた。

 空にはどんよりとした黒い雲が一面に広がっていた。曇天の中に、激しい雷光を瞬かせている巨大な渦があった。そこはヴァルラム宮の奥、塔があった場所の真上だった。そう、塔があったはずの場所だ。塔は忽然と姿を消していた。

「そうだ! アンナは!?」

 僕は自分がそう言った瞬間に、背筋が冷たく凍りついたのを感じた。あの時、ユーリが放った光る糸がアンナの腕を捕えていた。僕はアンナの手を握っていたのに、爆発の瞬間、離してしまった。

 僕は自分の手を見つめた。そして周囲を見渡し、ヴェロニカの顔を見た。ヴェロニカは返事に困っているようだった。

「アンナ!」

 僕は両手を震わせて叫んだ。この手の力の無さを、自分の不甲斐なさを呪った。

 僕は急いで立ち上がり、父さんの元へと走った。

「父さん! アンナは? アンナはどこにいる?」

 父さんはゆっくりと振り向いた。

「アンナってのは、お前たちと一緒にいた活発そうな女の子か」

「そうだ。俺の隣にいたんだ!」

「トポロフの魔女は――」

 父さんは雷光が瞬く雲を見つめた。

「魔女はアドリアンの魂と共に、二人の騎士を連れていったようだ」

「二人の騎士? 一人はユーリだとしても、もう一人は誰だ? アンナは騎士じゃない!」

 父さんは真剣な眼差しで僕を見つめた。そして静かに僕に問い掛けた。

「ルカ。あの女の子は、一体何者だ?」


 * * *


 恐ろしいほどの静寂が王都ラビナを支配していた。

 時間は無情に過ぎていき、太陽が西の空に傾いてきていた。落ち着かない心は行き場を失い、焦りばかりが募っていた。

 花の羊が小さな翼をパタパタと羽ばたかせて僕の横にやってきた。

「トポロフの魔女は、太古の騎士アドリアンの魂を魔剣に食わせた。これで魔剣は、名実ともにアドリアンの魔剣となったのだ」

 そして、赤い口をパックリと広げて僕に告げた。

「真の力を得たアドリアンの魔剣に、お前は逆らう事はできぬだろう。最後の魔法使い、ルカよ。魔女が次に狙うのは、お前だ」

 雷光が輝く黒い雲の渦は、世界中の大気を吸い込もうとしているように思えた。その中心に、幽霊船オルガ号に乗ったトポロフの魔女がいるのだろう。そして、アンナとユーリもそこにいるに違いない。

 アドリアンに憑依されたユーリは、アンナに隠された何かに気がついた。アンナの慌て方を考えると、アンナ自身はそれが何かをわかっていたようだ。でも僕はそんな事はどうでもいいんだ。

「俺は何としてもあの二人を助け出したい。でも俺には何も武器がない。どうすりゃいい?」

「お前には武器がないだと?」

「ああ、剣も槍もないし、あったって使いこなす腕もない。俺、魔法使いの一族なのに、何で魔法を使えないんだ?」

「ふん。お前にとって、魔法とは何だ? 空を飛ぶ事か? 雷を呼ぶ事か? 死者を蘇らせる事か? それとも指先一つでパンを焼く事か?」

「そういう訳じゃないけど……」

「お前には、お前にしか使えない魔法がある筈だ。それは誰にでもな」

「前に、ネストルじいさんもそんな事を言ってたな。誰にでも魔法を使える時があるって」

「それを知りたければ、私を連れて魔女の元に行け」

「魔女の元に?」

「そうだ。お前を狙う魔女の元にだ」

 花の羊はそう言うと、真っ赤な口を薄く開けたまま、クックックッと笑った。


 * * *

 

 僕たちがいる亡国の広場は、ヴァルラム宮の中でも小高い丘の上にあり、外にあるラビナ飛行場の様子も窺える。ラビナ飛行場には巨大な蒸気飛行船が停泊していた。クライン王国最大のバルトン級戦闘空母、リーディア号だ。

 リーディア号の船体の上部に備えられている二本の煙突から、白い煙が曇天に立ち昇っていく。いつでも飛び立てるように臨戦態勢にあるようだ。王宮警備船団の四隻の飛行船も停泊していた。

 五機のブラックイーグルが滑走路脇に並んでいるのが見えた。ブラックイーグルは母艦であるリーディア号に先立って王都ラビナに入り、そのまま塔への攻撃を行ったようだ。

「勝手な事をしてくれたな」

 大きな声に振り返ると、銀色の毛並みの大きな馬に跨がった騎士団長イサークの姿があった。逞しく精悍な馬に、頑丈そうな馬具が装着されている。装飾が施された鞍の上の騎士イサークは、黒く長いマントを風に揺らせていた。体を覆う甲冑は神々しく銀色に輝いていた。

 騎士イサークは、僕の父さんの元へと向かった。近づけば近づくほど、その馬の大きさと、イサークの恰幅の良さに圧倒された。

「ブラックイーグルを動かすには、王か私の命令が必要なはずだが?」

「まあ、そうだろうな」

 父さんは顎を擦りながら、惚けた声で返事をした。

「私も王も、ブラックイーグルにあんな命令は出しておらぬ。エドアルトを問い質してみたら、聞こえぬ振りをして飛び去ってしまいおった。どうせお前の差し金だろう」

「ほほう」

「今し方、何故塔を攻撃したのかと私は王に問われた。止むを得ず、と答えておいたが」

「さすがは英雄イサーク。心が広い」

 イサークは眉間に深い皺を寄せた。

「さて、ルスラーン王からの命を伝える」

 イサークがそう言うと同時に、傍らにいた二人の近衛兵が突然、僕の両腕を締め上げた。爪先が軽く地面につく程度にまで、僕の体は持ち上げられた。

「魔法使いの一族の子よ。名をルカといったか。貴殿はこれより、牢に入ってもらう」

「牢だと!」

 イサークの言葉に、父さんが気色ばんだ。

「何故王がそんな事を!」

「私が謁見しに宮殿に入る時、司祭ギルシュと商人ドロフェイが出ていくのを見たが」

「やはりあいつらか。何を企んでるんだ」

「貴殿はわかっておらぬようだな。魔法使いの一族が、今、我が国に危機をもたらしているのだ。私は魔法使いたちを全員投獄したいくらいだ」

 イサークは近衛兵に目を向け、命じた。

「連れて行け」

 近衛兵は僕を持ち上げたまま歩き出した。爪先が地面を掠めるから僕は何とか足を伸ばそうとした。そのせいで足がチョンチョンと地面を蹴ってしまい、余計に簡単に運ばれてしまう。

「待て!」

 止めようとした父さんを他の近衛兵たちが槍で遮った。イサークは足で馬の横腹を蹴り、手網を引いた。銀色の大きな馬は機敏に向きを変えた。

「イサーク! 私の息子を捕えるなど、到底納得できぬ!」

 そう叫んだ父さんをイサークは一瞥した。その目は冷ややかだった。

「ガヴリイル、私の息子は魔女に捕えられたのだ。貴殿の勝手な振る舞いのせいでな」

 イサークの言葉に、父さんは返す言葉が見つからなかった。険しい表情で唇を噛んだ。


 僕が投げ込まれたのは、ヴァルラム宮の地下にある「砂礫の牢」と呼ばれる地下牢だった。湿った石壁に生えた苔から蒸れたような匂いがする。石の床には露が溜まっていて、座っていると尻に不快な冷たさを感じる。天井近くに、空気取りの窓がある。窓の向こうに見える小さな空は、夕日で赤く染まっていた。明かりがない牢の中は、半分、闇の中に落ちていた。

 牢は頑丈そうな鉄格子で閉ざされていた。鉄格子の向こうは玉のような砂利が敷き詰められている。つるつるした砂利の底は深く、足を乗せようものならズボズボと足が砂利の中に入り込んでしまう。僕を牢に入れる時、近衛兵たちは入口に備えられている板を砂利の上に敷いて歩いた。抵抗して逃れようとした僕の足は見事に砂利に埋まり、身動きが取れなくなった。これが砂礫の牢の仕組みだ。

 小さな空の赤みは、僕に絶望感を嫌という程に与えた。トポロフの魔女に連れ去られたアンナを助けるにはどうしたらいいのか、太古の騎士アドリアンに取り憑かれたユーリを目覚めさせるにはどうしたらいいのか、僕には皆目わからなかった。ただ時間だけが過ぎていった。

 不意に、硬い音が聞こえてきた。誰かが砂利の上に板を置いたようだ。足音が近づく度に次の板が敷かれる音がする。暗い牢獄が、誰かが翳す松明の明かりでぼんやりと姿を現してくる。

 牢番に案内されて鉄格子の前にやってきたのは二人の男だった。一人は司祭長ギルシュだった。国の大きな祭礼でその姿を見た事がある。もう一人はでっぷりと太った大男だ。高級そうななめし革の上着で丸々とした体を包んだその男は、ギョロッとした目で暗がりに潜む僕を見た。その顔と体を一目見て僕は気づいた。彼はイグナートの父、大商人ドロフェイだ。イグナートにそっくりだ。誰が見てもわかるだろう。

 ルスラーン王の命とはいえ、僕をこの牢に閉じ込めたのはこの二人の企みのようだ。僕は頭にカッと血が上った。彼らに駆り寄り、鉄格子を両手でつかんで叫んだ。

「今すぐここから出してくれ! こんなとこにいる場合じゃないんだ!」

 ギルシュは表情を変える事なく答えた。

「ガヴリイルの子よ。申し訳ないが出す事はできぬ。王の命令なのだ」

「何でこんな牢に入れられなくちゃいけないんだ。俺は罪人じゃない!」

 僕の訴えにドロフェイが答えた。

「まあ、そう言うな。これは魔女からお前を守るための策だ。私たちはお前の味方だ」

 魔女から守る、という言葉に僕は違和感を覚えた。魔女の狙いが僕である事を何故知っているんだ。僕は嫌な予感がして、言葉を飲み込んだ。

 ギルシュは振り返り、牢番に告げた。

「床が濡れているようだ。板を持ってこい。毛布もだ」

 牢番はすぐに二枚の板を持ってきた。それを鉄格子の隙間から入れてきた。同じように毛布も入れてきた。

「それを使いなさい。いつまでもここに入れておく訳ではない。後で温かい食事を運ばせよう。しばらく辛抱するのだ」

 ギルシュのその言葉を残して二人は立ち去った。


 どうするべきか、僕は必死に考え続けていた。とにかくここにいては何もできない。何とかこの牢を脱け出す方法はないだろうか。

 小さな窓の向こうの空が真っ暗になってから、もうずいぶん時間が経つ。明かりがないこの牢は闇の中だ。小さな窓の外に目を凝らしても、月の明るさも星の瞬きも見る事ができない。恐らく、渦を巻く曇天が、今も空を覆っているのだろう。夏とはいえ、夜中の地下牢の空気は冷たく、重い。

 不意に、地下牢の入口の方から物音が聞こえてきた。僕は耳を澄ませた。足音だろうか。牢番がこちらに来るのか。いや、音は離れていっているようだ。板を踏む音がカッと鳴り、少し経ってからまたカッと鳴る。それがしばらく続いた後、ドスンという鈍い音が地下牢に響いた。そして、ズッズッと何か重たい物を引きずる音が聞こえた。続いて、扉をバタンと閉める音、板を砂利の上に置く音、板の上を早足で歩く音がした。

 暗い地下牢がゆらゆらとした光に照らされた。それはランタンの明かりだった。ランタンが鉄格子の前に来た時、光が二人の姿を照らし出した。

「ヴェロニカ! イグナート!」

「ルカ、大丈夫だった?」

 ヴェロニカはそう言いながら、手に持っている鍵を鉄格子の錠前に差し込もうとしたが、うまく入らない。

「ちょっと、ちゃんと照らして」

「ああ、すまんすまん」

 イグナートが持つランタンの明かりを頼りにヴェロニカが鍵を開けた。

「ありがとう。恩に着るよ。それにしても、牢番はどうした?」

「ああ、あんなのチャッチャッと片付けといたわ。軽いものよ」

「よく言うよ。ヴェロニカは命令するだけで、全部俺がやったんじゃないか」

「静かに。声が響く」

 僕は二人を制して、地下牢の入口に向かって歩き出した。牢番がいるはずの部屋には誰もいなかった。入口に着くと、何故か紙幣がが何枚か落ちていた。

「あ、それ、俺のだ」

 イグナートは紙幣を拾うと、ポケットから分厚い財布を取り出して無造作にしまった。それでわかったが、紙幣をばら撒いて牢番を誘き出し、大きな体に物を言わせて力任せに殴って気絶させたのだろう。イグナートが大金持ちの息子でいつも大枚を持ち歩いている事と、僕たちと同じ十四歳とは思えない巨体の持ち主だという事を無駄なく利用したようだ。

「こっちこっち」

 ヴェロニカが手招きをした。ヴァルラム宮の地下は複雑に入り組んでいて、まるで迷路のようだ。僕とイグナートだけだったら迷子になりそうなものだが、ヴェロニカは違った。司祭の一族レドフスカヤ家は、ヴァルラム宮の一角にあるクライン国教区に住んでいる。だから、ヴェロニカはヴァルラム宮の地理に詳しい。

 王宮の廊下の壁には整然と電灯が並んでいる。電力供給が不安定なせいで、電灯の光は時折り揺らめいている。その明かりは、僕たちを奥へ奥へと誘っているように思える。

 ヴェロニカは歩きながら小声で囁いた。

「私、あの後、無理やり家に連れ戻されたのよ。ライサの教会にいるはずが、勝手に王宮に戻って、あろう事かアドリアンの塔に行ってたんだからね。私が行方不明だって大騒ぎになってたみたい。おじいさまにこっぴどく叱られたわ。可哀そうにテオドールも叱られてた。お前まで一緒になって何やってるんだって。でもそういう時、テオドールは知らんぷりしてるの。テオドールはいつも私の味方なの」

 ヴェロニカはひそひそ話すが、静かな夜のヴァルラム宮の廊下では思った以上に声が響く。だから僕はヴェロニカのお喋りを止めようと思うのだが、口を狭む隙がない。

「私は自分の部屋に入れられて、扉の外には二人のメイドが見張りについた。でも、私をそこに閉じ込めたのはいい策じゃないわ。クローゼットに隠してるロープを窓の外に垂らして、外に脱出したの。二階だからちょっと怖かったけど」

 そもそもクローゼットにロープを隠してるなんて、ヴェロニカは家出の常習者のようだ。

「裏庭を通って白夜の間に向かったのよ。イグナートとジェミヤンは白夜の間に入れられてたからね。二人とも連れ出すと見回りが来た時にバレるから、イグナートだけ連れてく事にしたの。で、私、ジェミヤンの本をブンブン振って、あの丸い羊を出して、イグナートの代わりにベッドの中に押し込んだの。でも意外に小さいから、膨らんで、って言ったら、プーッて膨らんだのよ。あれならベッドにイグナートがいるって誰でも思うはず。あの羊、便利ね」

 あの羊――。僕は襲われたりして、かなり恐怖を与えられたが、ヴェロニカは怖い物なしだ。

「同じ王宮の中って言っても、私が住んでるクライン国教区から地下牢までは、迷路みたいな廊下を通っていかなきゃいけないのよ。隠された場所にあるからね。地下牢に近づいて気がついたんだけど、厳重に結界が張ってあった。あれはおじいさまがやった事だわ。たとえ魔女でも、おじいさまの結界の中を覗く事はできない」

「あ、あのさ」

 喋り続けるヴェロニカが息継ぎをした一瞬の隙を突いて、イグナートが割り込んだ。

「何よ」

「同じとこ、ぐるぐる回ってない?」

 そう言えば、さっきもここを通った気がする。

「私が王宮の中で迷子になったとでも?」

「いや、だってさ」

「そうまで言うなら認めるわ。そうよ、迷子よ。ここはどこ?」

 ヴェロニカは腰に両手を当てて、イグナートを睨んだ。返事に困ったイグナートにヴェロニカは畳みかけた。

「ちょうどここは分かれ道。どっちに行ったらいいのよ。あなたが決めて」

「と、とりあえず、さっき行ったのと違う方に行ってみようか」

 イグナートはそう言って、壁の電灯の明かりでゆらゆら揺れる廊下を指差した。


 それからしばらくの間、僕たちは右に左に曲がり、階段を上り、外に出られそうな場所を探した。

「出口まだー? 私もう疲れ――」

 そうぼやいたヴェロニカを僕は止めた。

「シッ。人の気配がする」

 僕は小声で二人に言った。廊下の先に部屋がある。廊下に面した部屋の窓から漏れる明かりが揺れて、人の存在を感じさせた。

「あ、あの部屋、おじいさまの書庫よ。あそこからクライン国教区。その先に出口がある」

 僕たちは引き返そうかとも思ったが、出口があるのなら行くしかない。身を隠しながら、書庫を通り過ぎる事にした。僕が先頭になり、ヴェロニカとイグナートが順に続いた。僕たちは壁に身を寄せて慎重に書庫へと近づいた。

 夜の廊下はしんと静まり返っていて、壁の電灯の中で輝くフィラメントのざわめきまでも響いてくるような気がした。僕たちは身を屈めて、部屋の窓の下に侵入した。

 書庫から話し声が聞こえてきた。

「言われた通り、あの子供を捕えてある。魔女は本当に約束を守るのであろうな?」

 それはしわがれた声だった。それを受けて別の誰かが言葉を返した。

「もちろんだとも。あの子供さえ手に入れれば、我が主は恐ろしい力を持つのだ。国の一つや二つ滅ぼすなど造作もない事だ。何せ、この世界を暗黒におとしめる事ができるくらいの力だからな」

 この声を聞いた瞬間、僕は背筋に冷たいものが走ったのを感じた。聞き覚えのあるこの声の持ち主に、今ここで遭遇したくはなかった。

 さっきの声とは違う野太い声がした。

「魔女の使者よ。何故、魔女はあんな子供が欲しいのです? ガヴリイルの嫡男のくせに魔法を使えないそうじゃないですか」

「お前たちは余計な事を知らなくてよいのだ。黙って私と取り引きするのが利口というものだ」

 少し高いその声に、薄い笑いが混じっている。

「まあまあ、良いではないか、ドロフェイ。魔女が何を企んでいようとも、我々は魔女の力をうまく利用してやればよいのだ」

「それもそうですな、ギルシュ様。騎士団の船の多くは魔女によって撃墜されております。戦力を失って役に立たなくなった騎士団に成り代わり、司祭様が魔女を操ってシャマーラを滅ぼしたとなれば、騎士団も魔法使いどもも立つ瀬が無くなりますな。これからこの国の実権を握るのは司祭の一族、つまりギルシュ様、という事になりますな」

「ドロフェイよ。私は権力を欲している訳ではないのだ。国教を司る私の一族を差し置いて我が物顔でのさばっている騎士団と、王に重用されている魔法使いたちに、目に物を見せてやりたいのだ」

 司祭長ギルシュと大商人ドロフェイ。つまり、今ここにいるヴェロニカのおじいさんとイグナートの父さんじゃないか。僕は二人の顔を見た。彼らの話を聞いた二人も驚いた表情で僕を見た。僕たちは窓の下でしゃがんだまま、言いようのない緊張感に震えていた。

「お前たちドブロホトフ家は騎士団の金庫と呼ばれているが、騎士団を裏切って、我々につく、というのか」

「ギルシュ様の先見の明に私は感服したのでございます。我々ドブロホトフ家は商人ですから、将来性のある方への投資は惜しみません」

「私もせいぜいお前に裏切られないように気をつけねばな。資金は十分になくてはならぬ」

「大丈夫ですよ、ギルシュ様。今朝、騎士の町ライサで、トポロフの魔女の恐ろしい力をこの目で見ました。騎士団の船団は、赤子の手をひねるくらい簡単にやられていました。旗艦リーディア号が残ってるとはいえ、太刀打ちできんでしょうな」

「うむ。さて、魔女の使者よ。明日の朝、ルスラーン王へのそなたの謁見が許された。私の客人として、私と共に王の前に出るのだ。そして、私との約定によってシャマーラ王国を滅ぼすという事を、王に誓うのだ」

「ふん、いいだろう」

「王はトポロフの魔女の圧倒的な力に恐怖を感じたはずだ。これから先、王は私に逆う事などできなくなるだろう」

「お前の目論見など興味はない。好きなようにするがいい。それよりも、私が王に会った後、魔法使いの子ルカをすぐに引き渡すのだ」

「いや、引き渡しはシャマーラを滅ぼしてからだ。魔女が約束を守るのか、一抹の不安がある」

「駄目だ。引き渡しが先だ」

「少年は私の手の中にある事を忘れるな」

「ならば力ずくで奪うまでだ。その時、この国は火の海になるだろう。しかし、そうすると、我々はあの少年まで焼き殺してしまうかもしれぬ。生きたままの状態で手に入れたいからこそ、わざわざお前たちに取引を持ち掛けているのだ。だが我々の要求を受け入れぬのなら、今すぐに攻撃を仕掛るぞ」

「わ、わかった。そう急くな。王との謁見が終わったら少年を渡す。シャマーラ王国の事、約束を違えるなよ」

 ギルシュの慌てた声に、魔女の使者は抑えた笑い声を上げた。それは、約束を守るという意味なのか、それとも、約束など無意味だという意味なのか、つかみ所のない笑い声だった。

 突然、カシャンという金属音がした。それも、僕のすぐ横でだ。僕はハッとして振り向くと、イグナートが持っていたランプを落とし、慌てて拾っていた。夏の夜の冷気が漂う廊下の奥底で、渇いた音がこだましていた。

 魔女の使者の笑い声がピタリと止んだ。ドロフェイの低い声が聞こえた。

「誰だ? 誰かいるのか?」

 僕たちは激しく動揺した。窓の下に隠れている自分たちの存在に気づかれた。すぐに逃げないといけない。

 しかし、そう思った直後、僕は頭上に何かの気配を感じた。それは誰かの息遣いなのか、それとも揺らめいた空気の動きなのか。はっきりとはわからなかったけど、得体の知れない何かがいる事は確かだった。

 僕は恐る恐る頭上に目を向けた。窓の桟の上に、黒い小さなブーツの足先が見えた。心臓が痛いくらいに脈を打った。息を潜めたまま、僕は視線を上げた。その足の主は、僕を見下ろして薄気味悪い笑みを浮かべた猫人間だった。

 ヴェロニカが思わず、ひっ、と声を上げた。でもその声はヴェロニカの体内に飲み込まれ、くぐもった息の音でしかなかった。

 猫人間は軽く笑いながら言った。

「ほう。獲物が自らやって来るとは」

 廊下の電灯の明かりがゆらりと揺れた。猫人間の白い顔が照らし出され、金色に光る眼が僕を見ていた。黒いマントに自分の背丈ほどの杖。それはトポロフの森で出会った時の姿と同じだった。僕たちは猫人間に見つかってしまった。

「最後の魔法使い、ルカよ。魔女ジーナ様がお待ちだ」

 猫人間がそう言い終わった瞬間、僕はイグナートの手からランタンを奪い取り、猫人間に叩きつけた。ランタンを胸にぶつけられた猫人間は窓の桟から落ちた。

「逃げろ!」

 僕は叫び、二人を叩いて促した。二人は廊下の先に向かって走り出した。僕も二人の後を追いかけた。

 振り返ると、窓から飛び出してきた猫人間の姿が見えた。猫人間は廊下の床に降り立ったが、明らかに宙に浮いていた。そして、僕たちに向かって床の少し上を滑り出した。

 ヴェロニカが言っていたように、この廊下の先に出口があった。しかし、その出口は、天井まで届くほどの大きな扉で閉ざされていた。

 先に着いたヴェロニカとイグナートがその扉を開けようとしたが、扉はビクともしなかった。追いついた僕も一緒にその扉を押したが、まるでただの壁のように、その扉が聞く気配はどこにもなかった。

 迫り来る猫人間は、杖の先を僕に向けた。杖の先が光沢を帯び始めた。みるみるうちに杖の先が尖ってくるのがわかった。その杖を僕に刺し、僕を捕らえるつもりなのだろうか。僕は開かない扉の前で、立ちすくむしかなかった。

 その時、イグナートが僕に言った。

「ルカ。何でかわからねえが、俺の親父はお前を売ろうとしてる。商売人は諸かる事なら何でもするけど、俺はそんな商売人にはなりたくねえ。俺があの猫を何としてでも食い止める。その隙に逃げるんだ!」

 杖の切っ先を突き出したまま、猫人間が僕に向かって突っ込んできた。杖が僕に刺さる寸前に、イグナートが僕の前に立ちはだかった。両手を広げたイグナートの巨体に、僕の体は完全に隠された。

 その直後、小麦が一杯詰まった穀物袋に、検品のための穀刺を突き刺した時のような音がした。イグナートの叫びは声にならなかった。

「イグナート!」

 尖った杖の先端はイグナートの脇腹に突き刺さり、イグナートはその杖を両手で握り締めた。イグナートは膝から崩れ落ちた。

「は、離さぬか!」

 猫人間はイグナートの体から杖を抜き取ろうとするが、イグナートは苦しそうにうめきながらも、杖を固く握り締めた両手を決して離さなかった。床に転がったイグナートの腹から血が流れ出していた。猫人間は必死になって杖を取り返そうとしていた。

 突然、重しを引きずるような地響きと共に、固く閉ざされていた出口の扉が開き始めた。

「ルカ! 扉が開くよ!」

 ヴェロニカが叫んだ。薄く開いた扉の向こうに、コルネーエフ文書を手に持ったジェミヤンが立っていた。重い扉を引っ張っているのは花の羊だった。鉄の取っ手をくわえ、背中の小さな翼をハチドリのように高速で羽ばたかせている。しかし、扉が相当重たいのか、花の羊の黒い顔がみるみるうちに赤黒くなっていった。力強い蒸気機関のように、羊の小さな耳から湯気が吹き出していた。

「早く! こっちだ!」

 ジェミヤンが僕たちに呼び掛けた。

 イグナートが叫んだ。

「今のうちだ。二人とも逃げろ!」

「で、でも」

「大丈夫だ。親父が来る。医者んとこに連れてってもらうからよ」

 イグナートの言う通り、彼の父ドロフェイが巨体を揺らしながら走ってくるのが見えた。痛みを堪えているのか、イグナートの顔に脂汗が滴っていた。イグナートはニヤリと笑って言った。

「行け! ユーリとアンナを助けられるのはお前かもしれねえ」

「わかった。ちゃんと手当てしてもらえよ!」

 僕はヴェロニカと目を合わせ、扉の隙間から外に飛び出した。

「逃がさん!」

 猫人間はイグナートから強引に杖を奪い返し、僕たちを追って扉の隙間に飛び込んだ。その瞬間、花の羊が猫人間の前に立ち塞がり、眩しい閃光と共に弾け飛んだ。色とりどりの小さな花々が放射状に飛び散った。

 目が眩んだ僕たちが呆然としていると、重そうな軋み音を立てながら扉が勝手に閉じ始めた。やがて扉は再び壁と一体になった。

「イグナート!」

 僕は扉に駆け寄り、力任せに何度も叩いた。でも扉はすでに扉ではなく、壁に描かれた絵に過ぎなかった。

 爆発した花の羊の姿はどこにもなかった。僕の前から姿を消してしまった。ただ、淡い虹色の一枚の花びらが地面に落ちていた。僕はそれを拾い、ジェミヤンに渡した。ジェミヤンは黙ってそれをコルネーエフ文書のページに狭んだ。

 僕は振り返り、ジェミヤンとヴェロニカに言った。

「アンナとユーリを助けに行く。魔女が待つあの空に行くぞ」

 見上げた夜空には月も星もなかった。稲妻を光らせながら渦を巻く青紫の雲は、まるで巨大な目のようだった。その目は、地上にいる僕の事をじっと見つめていた。

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