第17話 騎士アドリアンの塔

 間近で見るその塔は、異様な空気を纏っていた。馬車から降りた僕たちは塔を見上げた。濃い緑色の蔦が這うように巻きつきながら、白い石造りの塔の頂を目指している。

 父さんは石段を上り、絡みついた蔦に手をかけた。しかし、蔦は鉄のように固く、引きちぎる事はできなかった。

「私に任せなさい、ガヴリイル」

 アリフィヤはそう言うと、父さんに代わって石段の上に立った。アリフィヤは鞘から剣を抜いた。一瞬の間の後、鋭い刃は光の跡を残し、壁のような蔦に向かって振り下ろされた。

 金属を断ち切るような音と共に、蔦は見事に切り裂かれた。そして、蔦の陰から、黒ずんだ木の扉が現れた。扉の周囲は、頑丈そうな古びた鉄製の金具で覆われている。

 扉の取っ手の下に鍵穴があった。鍵穴は鉄板をくり抜くように取り付けられていた。鍵穴はこの世界と異界を繋ぐ覗き穴のようだ。小さな穴の暗がりから、得体の知れない何かがこちらを見ているように思えてしまう。

「いよいよね」

 アリフィヤがフウッと息をついた。そして石段を下り、ユーリの前に立って手を差し出した。

「ペンダントを貸してちょうだい」

 ユーリはペンダントを握り締めた。

「待って。俺が行ったほうがいいんじゃないか?」

「あなたたちが世界を救うと父ヴィクトールは言ったわ。でも、あなたたちの出番はまだだと思うの。だからここは私に任せなさい」

 アリフィヤの凛とした眼差しに促され、ユーリはペンダントを首から外し、彼女に渡した。

「いい事? あなたたちはしばらく馬車の中で待っていなさい」

「しばらくって、どのくらい?」

「そうね――」

 アリフィヤは振り返って父さんを見た。父さんが代わりに答えた。

「あと一時間もすれば正午の鐘が鳴る。それを合図としよう。それまでに私たちが戻らぬ時は、馬車で宮殿に戻れ」

 この閉ざされた扉の向こうに、亡霊となった太古の騎士アドリアンがいる。トポロフの魔女の企みを止めるには、今ここでアドリアンを葬り去らなくてはならない。

「羊はどうすんの?」

 ジェミヤンがコルネーエフ文書をアリフィヤに向かって掲げた。

「本の中から出てこないってことは、今は出番ではないという事よ。さあ、みんな、馬車に戻りなさい」

 僕たち全員が馬車に戻ったのを見届けると、父さんとアリフィヤは扉の前に並んで立った。僕たちは馬車の窓から食い入るように二人の姿を見ていた。

 アリフィヤの手の中で、涙の形をした木のペンダントが呼吸をするように光を放っている。もう片方の手には剣がしっかりと握られている。アリフィヤは父さんと目を合わせた。父さんは伝説のナナカマドの杖を扉に向かって翳し、小さく頷いた。

 アリフィヤは、静かにペンダントを鍵穴に近づけた。するとペンダントは強い光を放ち、みるみるうちに鍵の形に姿を変えた。アリフィヤはその鍵を鍵穴に差し、ひねった。

 それは視界がカクンと下にずれたような感覚だった。鍵が開くと同時に、僕たちのいる世界が、ほんの少しずれたような感じがした。

 アリフィヤは石段を下りて僕たちの元に来た。そしてペンダントをユーリに差し出した。

「このペンダントはきっとあなたを守ってくれる。必ず身に付けていなさい」

「ああ、わかったよ」

 ユーリはペンダントを受け取った。

 アリフィヤは再び石段を上り、扉をゆっくりと開けた。父さんが扉の隙間から中を伺った。扉から何かが飛び出してくる事はなく、ただ静寂だけがそこにあった。

 二人は警戒しながら塔の中に入っていった。二人が入った直後、扉が勢いよく、バタンと閉まった。それは二人のどちらかが閉めたのではない。扉自身なのか、それとも見えない誰かの仕業か。扉は明らかな意思によって閉じられた。


 僕は、握り締めていた手のひらが汗で濡れているのに気づいた。異常なほどの緊張に僕は襲われていた。周囲を見回すと、全員が僕と同じ状態のようだった。誰も言葉が出ず、息を潜めていた。

 耳を澄ませても、塔の中からは何一つ物音は聞こえてこなかった。父さんとアリフィヤが、太古の騎士アドリアンと対峙しているのか、それとも奈落の底に落ちてしまったのか、皆目わからなかった。見えない時計の針だけが、無機質に時を刻んでいるかのようだった。

 ふと気づくと、さっきまで晴れ渡っていた空に、どんよりとした雲が広がり始めていた。夏の陽差しを受けて白く光っていたはずの塔は、いつの間にか灰を被った白猫のように鎮座していた。

 突然、イグナートが窓の外を指差して叫んだ。

「お、おい! あ、あれ!」

 僕たちは一斉にイグナートの元に集まり、彼が差し示した空を見た。

 黒ずんだ雲の中に、金属で引っ掻いたような光の筋が見えた。雲と雲が共鳴するように、幾筋もの光が瞬いては消え、消えてはまた瞬いていた。

「雷か」

 そう呟いた僕の言葉をイグナートは即座に打ち消した。

「それじゃない。雲の中をよく見ろ!」

 僕たちはじっと目を凝らした。

「あれは――」

 僕の目に小さな何かが映った。一瞬の稲妻の光に照らされたそれは、紛れもなく黒い飛行船だった。

「オルガ号だ!」

 僕は叫んだ。

「オ、オルガ号って、もしかして」

「オルガ号は、イラリオン飛行船商会のネストルじいさんが若い頃に造った小型蒸気飛行船だ。トポロフの森に墜落したそいつをトポロフの魔女が蘇らせたんだ」

「あれがトポロフの魔女の幽霊船か!」

 僕はある事に気がついた。朽ち果てた船体のオルガ号は妙な動きをしている。前に進むだけでなく、左右にも、後ろにも進む。じっと観察して、僕は気がついた。

 僕が空の上でオルガ号と遭遇した時、ものすごい速度で飛ぶオルガ号が雲間に見え隠れしているように思えたけど、本当はそうじゃない。

「オルガ号は飛んでるんじゃない。雲と雲の間を瞬間移動してるんだ!」

 僕の言葉にアンナが即座に反応した。

「そうか! だから私のレオナ号に負けないくらい速かったんだ! それが奴のスピードの秘密か」

「貨物船を撃墜した後、オルガ号が姿を消したのは、雲がなくなったからだ」

 アンナが慌てて反対側の窓の外を見た。

「雲か。まずいな、塔に雲が近づいてる」

 ヴェロニカが両手を頬に当てた。

「二人が危ない! あの二人はまだ塔の中にいるのよ!」

「探しに行くか」

 ユーリは独り言のようにそう言い、馬車の扉に手を掛けた。馬車から出ようとしたユーリを、本をぎゅっと抱き締めたジェミヤンが呼び止めた。

「待って待って。正午の鐘はまだ鳴ってないよ! 鐘が鳴るまで待ってろって言ってたよ!」

 ジェミヤンがそう言った直後、正午の刻を告げる鐘の音が聞こえた。

「時間だ」

 ユーリがニヤリと笑ってそう言った。でもその笑みはいつもの余裕綽々のそれではなく、引き攣った笑みだった。

 馬車から降りたユーリに続いて、僕とアンナも外に出た。ジェミヤンとイグナートとヴェロニカは中に残った。ジェミヤンが馬車の扉の縁に手をかけ、塔の前に立つ僕たちに向かって叫んだ。

「危ないよ! アドリアンに殺されちゃうよ!」

 ジェミヤンの呼び掛けをよそに、ユーリは躊躇う事なく塔の扉に手を掛けた。扉は軋んだ音を立てながら開いた。中を覗いてみたが、そこは何もない、薄暗い空間だった。

 僕はユーリと視線を合わせた後、ジェミヤンに言った。

「ジェミヤン、宮殿に戻って俺のじいさんに伝えてくれ。魔女が塔に近づいてるって。俺たちは二人を探しに行く」

「わ、わ、わかった! 伝える! それで助けを呼んでくる!」

「ああ、頼むよ」

 ヴェロニカが叫んだ。

「テオドール! 宮殿に向かって!」

 神馬テオドールは、前足を高々と跳ね上げ、甲高い声で嘶いた。その瞬間、コルネーエフ文書がジェミヤンの手の中で暴れ出した。慌ててつかんだジェミヤンを引きずって、コルネーエフ文書は馬車の外に飛び出した。コルネーエフ文書を抱きかかえたままのジェミヤンが叫んだ。

「わわっ! 馬車から出ちゃったよ!」

 そんなジェミヤンに構う事なく、テオドールの馬車は走り出した。窓からヴェロニカが顔を出して叫んだ。

「私たちが助けを呼んでくる! ジェミヤン、あなたはそこで頑張って!」

 イグナートがその隣から顔を出し、ジェミヤンに向かって手を振った。神馬テオドールの馬車は光の筋を残して、あっという間に走り去っていった。

 ジェミヤンは呆然とした表情で馬車を見送った。ジェミヤンの手の中で勢いよくページが捲られ、弾けるようにエルモライの花の羊が飛び出した。花の羊は背中の小さな翼をパタパタと羽ばたかせながら、ジェミヤンを見下ろした。

「ほう、お前も行くのか。ジェミヤン・コルネーエフよ。お前は見かけによら――」

 何かを言おうとした花の羊の足を、ジェミヤンがむんずとつかんだ。ジェミヤンは瞼をひくつかせながら、花の羊の言葉を遮った。

「おい、羊。僕は自ら危険に飛び込んでいくようなタイプじゃないんだ。そんなのわかってんだろ?」

「や、やめんか。足を離すのだ。せっかく誉めようとしたのに何という仕打ちだ。では、お前は何故馬車を降りたのだ?」

「お前のせいだ!」

 花の羊とジェミヤンの争いを一瞥した後、ユーリは「行くぞ」と低い声で言い、塔の中へ入った。

「ジェミヤン、置いてくぞ」

 僕はジェミヤンに声をかけ、アンナと共にユーリの後に続いた。

「ま、待ってよ!」

 ジェミヤンはそう言って、慌てて僕たちを追って塔の中へと足を踏み入れた。

 

 塔の中はがらんとしていた。見上げると、装飾が施された窓が点々とあり、陽差しを暗闇に導いている。壁に設けられた螺旋階段は遥か上まで続いている。塔を支えるための梁は、ことごとく折れている。それは若きアリフィヤが亡霊アドリアンに追いかけられた時の名残りだろう。アリフィヤの昔語りのままだ。梁がみんな折れているのに、この塔は何十年も倒れずにいる。

 僕たち四人と花の羊が中に入ったのを見届けたのか、塔の扉がバタンと音を立てて閉まった。ジェミヤンが慌てて扉を開けようとしたがビクともしなかった。ジェミヤンは舌打ちをして扉を蹴飛ばした。

「ユーリ」

 僕はユーリに声をかけた。

「何だ?」

「アドリアンが出てきたら、俺たちはどうやって戦うんだ。丸腰だぞ」

 ユーリは一瞬戸惑った表情を見せた。

「――だよな」

 どうやらユーリは、綿密な作戦を立てて、しっかりと準備をしてから戦いに行くタイプではないようだ。将来、騎士団長イサークの跡を継いで騎士団を率いていくのだろうが、それまでに学ばなければならない事が、まだまだ沢山ありそうだ。

「私は持ってる」

 アンナはそう言うと、腰の鞄から小振りな革製の袋を取り出した。その袋には何か液体が入っているようで、タプンと揺れた。アンナはその袋を腰に付けた。次に鞄から金属の棒を取り出した。馬車の中で一度見たやつだ。続いて鞄からチューブを取り出した。そのチューブを液体が入った袋と金属の捧に取り付けた。そして、金属の棒を両手で引っ張ると、剣くらいの長さになった。

「剣じゃないよな? これも炎が出るのか?」

 そう聞いた僕に、アンナは首を振ってみせた。

「君は私が進歩しない奴だと思ってる? 失礼な」

 アンナは長く伸びた棒の先を僕に見せた。先端には目の細かい網が付いていた。どうみてもただの棒だ。手元の柄にはボタンが付いていた。何か仕掛けがあるようだ。

 バキッという音に振り向くと、ユーリが壁の手摺りを力任せに蹴飛ばしていた。朽ちかけていた手摺りはあっけなく砕けた。ユーリは床に落ちた破片から適当な木片を拾い上げ、僕とジェミヤンに一つずつ渡した。

「ないよりはましだろ」

 僕はそれを受け取り、ギュッと握った。手摺りの棒は取り敢えず使えそうだ。

「行くぞ」

 そう言って、ユーリは階段を上り始めた。


 塔は高く、天辺に近づいた頃には、僕たちの息はだいぶ切れていた。花の羊は押し黙ったまま、一番後ろについてきた。僕たちは天辺の少し手前で立ち止まった。

 塔の天辺に部屋が見えた。その扉は砕けてしまっていて、壁に残った蝶番だけが、その名残りを伝えている。僕たちが立ち止まった場所からは、部屋の中はまだ見えない。

 太古の騎士アドリアンの亡霊はあの部屋にいるのだろうか。何の音も聞こえてこない事が、逆に僕たちに不安を与えていた。

 ユーリが小声で囁いた。

「二人がいたら連れて帰るぞ」

 僕とアンナは黙って頷いた。

 僕たちは一歩ずつ慎重に階段を上った。階段に足をつく音でさえ、空虚な塔の中で響いてしまう。僕の首筋を冷たい汗が流れたのを感じた。

 階段を上り切った僕たちは、壁に身を寄せ、部屋の中の様子をそっと伺った。明かり取りの小さな窓が幾つもあるが、殺風景なこの部屋は太古の騎士アドリアンを封印するための場所というよりも、天空の牢獄に思えた。

 部屋の中は中はひどく荒れていた。床には瓦礫が飛び散り、奥には見る影もなく破壊された祭壇らしき物があった。でも、そこには誰もいなかった。父さんもアリフィヤも、そして太古の騎士アドリアンの姿もなかった。

 僕たちは恐る恐る部屋の中に入った。

「これは、戦った後か?」

 そう呟いたユーリに花の羊が答えた。

「そうだ。しかし今ではない」

「今じゃない?」

「その昔、私がアドリアンと戦った時のままだ。王の魔法使いガヴリイルと騎士の娘アリフィヤは、この部屋に入り、そのまま姿を消したようだ」

 そう言った花の羊の視線を追うと、剣と鞘が瓦礫の上に落ちていた。

「ユーリ。これはおばあさんの剣じゃないか?」

 僕は剣と鞘を拾い上げ、ユーリに渡した。

「ああ、そうだ。間違いない」

 ユーリは剣をまじまじと見つめた後、鞘を自分の腰に結び付けた。

「それにしても、ばあさんたちはどこに行っちまったんだ」

 花の羊は三日月の形の瞳をぐるぐる回しながら辺りを観察していた。

「おかしい。アドリアンの気配は感じるのだが、その位置がわからぬ。いや、全ての方向から気配を感じる。奴は我々を見ている。一体どこから見ているのだ?」

 僕たちは部屋の中央に身を寄せ、四方八方を警戒した。アドリアンが僕たちを見ているという花の羊の言葉が、僕たちの緊張を煽った。足が床を擦る音が静寂の中に響く。心臓がドクンドクンと脈を打つ音までも、響き渡ってしまいそうだ。

「おい、縮んでないか?」

 ユーリが言った。

「縮む? 何が?」

 聞き返した僕にユーリが答えた。

「部屋だよ」

 その言葉に、僕たちはハッとした。四方の壁も、天井も床も、最初にこの部屋に入った時よりも迫ってきている。気づかない程、少しずつ、この部屋は縮んでいた。ジェミヤンが叫んだ。

「ま、まずいよ! このままじゃ、押し潰される!」

「なるほど。そういう事か」

 花の羊が低い声で呟いた。

「私がここでアドリアンと戦った時、奴は亡霊ながらも実体を持っていた。しかし、アリフィヤによってこの塔ごと封印された後、アドリアンは六十年という年月の果てに、この塔と一体化したのだ」

「塔と一体化?」

 アンナが怪訝な顔をした。

「そうだ。だからこの塔の中に奴はいなかった。この塔こそが、太古の騎士アドリアンだったのだ」

「塔そのものがアドリアン!? だから、梁がみんな壊れてるのに、この塔は倒れずにいるのか。俺たちはアドリアンの体の中にいるって事か」

 思いがけない事実に、僕はうろたえた。

「うむ。我々はまんまと奴に食われたのだ」

 顔面蒼白になったジェミヤンが本をギュッと抱えながら、震える声で言った。

「じゃ、じゃあ、あの二人は消化されちゃったのかな?」

 その時、天井から粘り気のある水滴が、ジェミヤンの頭に垂れてきた。ジェミヤンは髪に付いた粘液を手で拭った。

「こ、これ、胃液?」

「そうかも知れねえな。けど、ばあさんの剣だけは消化できなかったようだな。こいつでぶった切ってやる!」

 ユーリは剣を大きく掲げ、迫ってきた壁に向かって勢いよく振り下ろした。鋭利な切っ先が石壁を削ったが、小さな欠片が飛び散っただけだった。

「くそっ!」

 ユーリは力任せに何度も切りつけたが、壁はビクともしなかった。

「壁も天井もどんどん近づいてくるよ! 潰されるよ!」

 僕は慌てふためくジェミヤンの肩に手を置き、アンナに目を向けた。

「アンナ。その武器は使えないか?」

「こんなのは想定外だ。私の武器じゃ、どうにもできない」

 アンナはそう答え、唇を噛んだ。

 僕たちは必死に手で壁を押し戻そうとした。天井は屈めた頭を押さえつけるほどに下がってきた。

「もうだめだ!」

 ジェミヤンがもがきながら苦しそうに叫んだ。

 体を密着させた僕たちに粘液がまとわりつく。僕たちに為す術は何も残っていなかった。


 まだ小さかった頃、家の階段を踏み外して、尻餅をつきながら下まで落ちてしまった事がある。階段を落ちた時、目に映る世界が一頻りリズミカルに揺れた後、チカチカした光の粒がまるで昼に起き出した星々のように瞬いたものだ。

 記憶のフラッシュバックに飲み込まれた僕を呼び覚ましたのは、幾度となく繰り返された衝撃波だった。それは、潰されかけていた僕の全身を、強い力で叩くように揺さぶった。

 突然、壁と天井が激しく軋みながら離れ出した。それはもう壁というよりも、固い皮膚のように見えた。壁は大きくうねり、僕たちは床で転げ回った。再び、激しい衝撃波が僕たちを襲った。僕は顔を上げ、明かり取りの小さな窓を見た。窓の向こうに見える空に、急旋回する複葉機の姿が見えた。

 それは黒い機体の複葉機だった。機体には、白い円の中に翼を広げたワシミミズクが描かれている。王国騎士団のマークだ。

「ブラックイーグルだ!」

 僕は叫んだ。ぐにゃぐにゃと波打つ床の上をよろけながら窓に駆け寄った。窓にしがみついて外を見ると、さっき旋回していったブラックイーグルが再び向かってきた。ものすごいスピードで飛んでくる。至近距離から塔に向かって七・七ミリ機銃の弾丸を連射した。

 プロペラ同調装置で制御された機銃から放たれる弾丸は、高速で回転するプロペラの残像の中から光の糸を引きながら飛び出し、次々に塔に当たった。ブラックイーグルは塔をかわして旋回した。その背後には別のブラックイーグルがいて、同じように弾丸を連射し、旋回していった。

 隊列を組んだ四機が旋回した後、最後に向かってきたのは赤い機体のブラックイーグルだった。

「ヴァジム副長だ!」

 ヴァジム副長は機首の七・七ミリ機銃ではなく、両翼に装備された二十ミリ機銃から弾丸を連射した。これまでよりも強い衝撃波が塔を揺るがした。僕たちを囲む壁が大きく波打った。塔と同化した太古の騎士アドリアンが、激しく身悶えた。

 突然、床がパックリと割れ、僕たちは真っ逆さまに塔の中を落ちていった。

「離さぬか!」

 空中を浮遊できる花の羊までも僕たちと一緒に落ちていった。見ると、ジェミヤンが花の羊の短い足をしっかりと握っていた。

 このまま下まで落ちていったら、間違いなく一溜まりもないだろう。せめて僕に魔法の力があったなら、皆を宙に浮かせて助ける事ができるのに。

 力のない僕は為す術もなく、隣で落ちていくアンナに手を伸ばした。アンナが僕の手に気づき、手を伸ばした。落ちていく僕たちはお互いの命を求め合うように、手と手を合わせようとした。風圧に体が揺れ、アンナの指先が僕の指先をかすめる。一瞬触れたアンナの指を僕はさらに求めて手を伸ばす。アンナの細かい三つ編みが解け、髪先に付けられていたカラフルなビーズが弾け飛んだ。薄い明かりを受けたビーズが空中で輝きながら消えていった。

 アンナのブラウンの瞳が真っすぐに僕を見ている。僕は宙をまさぐるように、必死に手を伸ばした。お互いの指先が再び触れ合った。僕たちはお互いを求めた。そして、指が絡み合い、僕たちは死の淵に向かって落ちながらも、お互いの手を握り締めた。そして僕たちは、地面に叩きつけられる瞬間を覚悟した。

 その時、ふわりとした弾力のある空気が僕たちを包んだ。魔法使いの町アクサナの懐かしい我が家の庭先にあったハンモックに揺られているような感覚がした。

 跳ねるように弾んだ僕は、同じように宙に舞うアンナを見た。ゆっくりと僕たちは手を解き、不思議な感触に身を任せた。

 僕たちに少し遅れて、花の羊の足をつかんだままのジェミヤンも落ちてきた。そして同じように、空気のハンモックに受け止められた。落ちてきた勢いのせいで花の羊が弾け飛び、羊毛でできたボールのように壁に飛んでいって、四方八方に跳ね返った。

 僕たち三人は静かに床に降り立った。僕たちが受け止められたのは、固い床の目と鼻の先だった。床に叩きつけられて、死んでしまってもおかしくなかった。

 僕たちは何故助かったのだろうか。答は簡単だった。薄暗がりの中で、滲むように男の顔が浮かび上がってきた。それは、魔法の番人ガヴリイル、僕の父さんだった。離れた場所から自らの姿を投影しているようだ。

「お前たちは何をやってるんだ。正午の鐘が鳴っても私たちが戻らぬ時は、馬車で宮殿に戻れと言っただろう」

 宙に浮く父さんの顔は引き攣っている。どうやら怒っているようだ。

「その塔はアドリアンと一体化している。私とアリフィヤは押し潰されそうになったが、魔法の力で逃れたのだ。しかし、あろう事にお前たちまで塔に入るとは。そこは危険だ。扉の外にすぐに出るんだ」

 そう言うと、空中に浮かんでいた父さんの顔は、瑶らぎながら消えていった。ギイッと軋んだ音を立てて、塔の扉が開かれた。僕たち三人は顔を見合わせ、扉に向かって駆け出した。

 しかし、僕たちが扉に近づくと同時に、扉はバタンと大きな音を立てて閉じられた。何とか開けようと試みたが、重そうな木の扉はまるで壁のように固く、ビクともしなかった。

「三人で体当たりしてみよう」

 僕は二人に声をかけ、思い切り一斉に扉に体をぶつけたが、何の効果もなかった。

「くそっ! もう一度三人で――」

 そう言った僕は、今さらながら違和感を覚えた。

「三人?」

 僕は自分で自分に開き返した。そして僕たち三人は一斉に声を上げた。

「ユーリがいない!」

 そうだ。塔の中を落下している最中もユーリの姿はなかった。壁に押し潰されそうになっていた時はどうだった? ブラックイーグルが塔を攻撃してきた時は? ユーリはまだアドリアンの部屋に残されているのか。僕たちは上を見た。

「何かが来る!」

 ジェミヤンが叫んだ。

 白い光が揺らめきながら下りてくるのが見えた。僕たちは扉を背に立ちすくんだ。光は人間の姿に形を変えながら、ゆっくりと中央に降り立った。

「ユーリ!」

 ユーリは無表情な顔で僕たちを見ていた。最上階で拾ったアリフィヤの剣を手に持っていた。僕はユーリに駆け寄った。しかし、僕を迎えたのは、鋭く尖った剣の切っ先だった。僕はすんでの所で立ち止まった。剣は僕の顔前に突き出されていた。

「何するんだ!」

「貴様、魔法使いだな」

 ユーリの口から発せられたその声はユーリの声ではなかった。低く、薄闇に響く、おぞましい声だった。

 ユーリは剣を翳し、容赦なく振り下ろした。僕は慌てて避けたが、剣の先が僕の左腕を掠った。一瞬の事に、僕は腕の痛みを感じなかった。でも、吹き出した血に自分の腕の皮膚が切られた事を知り、直後に冷たい激痛が僕を襲った。

 僕はよろけながら扉に向かい、アンナとジェミヤンの前に立った。両手を広げ、ユーリから二人を覆い隠したが、僕は持っていたはずの棒を無くしていて、完全に丸腰だった。

「よせ! ユーリ!」

 そう叫んだ僕の顔の横に花の羊がゆらりとやってきて呟いた。

「アドリアンに取り憑かれたな」

「え!?」

 ユーリは一歩二歩と、僕たちに向かって歩き出した。しかし、その足は地面を促えてはいなかった。地面のほんの少し上を歩いている。明らかにユーリは宙を歩いていた。ユーリの全身から妖気が湯気のように立ち昇っている。アドリアンに憑依されたユーリは片方の口角を上げ、ニヤリと笑った。

「エルモライの羊か。往生際の悪い奴だ。今度こそ息の根を止めてやろう。エルモライの末裔も一緒か。一族もろとも殺してやる」

「うわわ、まずいよ!」

 ジェミヤンがうわ言のように言った。

「む、貴様は――」

 ユーリが剣を突き出した。その剣は僕の後ろにいるアンナを差し示していた。

「何だ貴様。もしや騎士――」

「黙れ!」

 僕の後ろからアンナが飛び出し、ユーリの言葉を遮った。

「おかしな事言うな! 立ってられないようにしてやろうか!」

 アンナはひどく興奮していた。手に持っている金属の棒をユーリに突き出した。壁に押し潰されそうになった時、その武器は使い道がないような事を言っていたが、果たして今のこの状況なら使い道はあるのだろうか。

 金属の棒は剣くらいの長さがあるが、尖っていないただの棒だ。棒の先端には細かい目の網が付いている。棒の柄にボタンが付いていて、アンナが腰に付けている革製の袋にチューブで繋っている。

「貴様は――」

「うるさいっ!」

 アンナは両手に力を込め、両目をギュッと瞑って怒鳴った。そして、棒を振り翳し、近づいてきたユーリに向かって、思い切り振り下ろした。

 振り下ろした瞬間に、アンナは柄のボタンを押していた。勢いよく振られた棒の先端から、霧状の液体が飛び出した。液体はユーリの頭の天辺から足先まで、たっぷりと降り注がれた。

 顔にかかった液体を拭おうと腕を動かした時、ユーリの手からアリフィヤの剣が滑り落ちた。ユーリは腰を屈め、地面に落ちた剣を拾おうとしたが、ぬるぬると滑ってしまって手に取る事ができない。

「ざまあみろ。もっと食らえ!」

 アンナはそう言うと、何度も棒を振り下ろした。その度に霧状の液体がユーリにかかり、ユーリの体はまるでナメクジのようにねっとりとした艶を放った。

 アンナが力任せに棒を振ったせいで、液体は四方八方に飛んでいた。それは僕やジェミヤンも例外ではなかった。

「うわっ。何だこれ。油?」

 僕は慌てて顔を拭った。

「エンジン用の潤滑油だ。粘度が高めだから、結構しつこいよ」

 アンナはニヤッと笑った。そして、棒をユーリに向かって突き出して言い放った。

「どうだ。滑って立ってられないだろ。悔しかったらここまで来てみな」

 しかし、勝ち誇るアンナの表情が引き攣るまで、時はほとんどかからなかった。ユーリは油を滴らせながら、スッスッと歩いてきた。

「な、何で!?」

 うろたえるアンナに、ジェミヤンが溜め息をつきながら言った。

「地面の上を歩いてないからね……」

「あ、慌てるな。奴は武器を持ってない」

 アンナがそう言った矢先に、地面に落ちていたアリフィヤの剣がカタカタと動き出した。ユーリは空中を滑らすように指をアンナに向かって差し出した。途端に剣がアンナに向かって飛んだ。

「ひっ!」

 アンナが咄嗟に差し出した棒に剣が触れ、僅かに軌道が逸れた。剣はアンナの頼を掠めて、甲高い音を立てて木の扉に突き刺さった。剣は音叉のように反響音を奏で、音の波が塔の中に広がった。

 ユーリは指で剣を招いた。剣は扉から抜け、ユーリの前に戻った。ユーリは剣を持つ事はなかった。剣は空中で浮遊し、切っ先を僕たちに向けていた。僕はアンナの前に立ち、ユーリに向かって叫んだ。

「正気に戻れ! ユーリ!」

「ふん、魔法使いめ。まずは貴様から殺してやろう」

 ユーリの紫がかった青い瞳が光っていた。それは明らかに反射ではなく、体内から発せられた光のように思えた。ユーリは手を軽く掲げ、僕を目がけて指を振り下ろそうとした。

 突然、火花が視界を覆い尽くした。ものすごい圧力が上から襲ってきた。巨大な太鼓を一撃で打ち破るような破裂音が、重い岩の塊のように落ちてきて、僕たちを地面に叩きつけた。燃える光が塔の中を駆け巡った。

 ジェミヤンが叫んだ。

「か、雷だ! 雷が落ちたんだ!」

 僕は一瞬で悟った。

「魔女だ!」

 押し寄せてきていたどす黒い雷雲が、この塔の上に来たに違いない。そして、トポロフの魔女は、太古の騎士アドリアンの魂を魔剣の生け贄にするつもりだ。

 塔の中を鮮烈な稲妻が駆け巡っている。さっきまで揺らめいていた塔は硬直し、ミシミシと音を立てながら、石壁が崩れ始めた。砕けた石の破片が雹のように降ってきた。

 背後に明るさを感じた僕は振り向いた。壁を伝った稲妻が木の扉を壊したようで、グラグラとした扉の隙間から外界の光が差し込んでいた。

「今だ!」

 僕は扉を力任せに蹴破った。そしてアンナの手を取り、ジェミヤンに目で合図して外に向かって駆け出した。

「あっ!」

 アンナの叫びと同時に、僕が握っていたアンナの手が引き戻された。振り向くと、ユーリの指先から放たれた光る糸が、アンナのもう片方の腕に巻きついていた。

「離せ!」

 アンナは声を荒げ、その糸を振り解こうとしたが、ビクともしなかった。

「逃さぬぞ、騎士の――」

 その時、目が眩むほどの輝きが視界の全てを奪った。世界が真っ白に光り、次の瞬間、とてつもない爆風が僕たちを吹き飛ばした。

 弾け飛んだ意識の片隅で、手を離してしまったアンナが連れ去られていく姿を、僕はただ見つめていた。

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