第15話 ロトキナ街道

 騎士団の軍用蒸気飛行船が次々に墜落してきた。飛行船はライサの町なかに落ち、幾度もの爆発を起こしては炎に包まれていった。町はあっという間に火の海になった。

 火の粉と黒煙が、火災の上昇気流に乗って黒く澱んだ空に舞い上がっていく。命からがら飛行船から脱出した小さな救命艇が、火の粉を浴びながら呆然と空を漂っている。

 町の人々は、動揺しつつも同じ方向に向かって歩いている。騎士の町の住人は、非常事態への対応が早いようだ。

 アンナ、ジェミヤン、イグナート、ヴェロニカ、そして僕の五人は、あまりの事に言葉もなくその様を見ていた。すると、僕たちの前に一台の立派な蒸気自動車が停まった。蝶ネクタイをした運転手が車から降り、観音開きの扉を開けた。車内にはユーリとアリフィヤがいた。アリフィヤは鞘に収められた剣を持っていた。

「早く乗れ!」

 ユーリが僕たちを促した。僕たちは慌てて車に乗り込んだ。車内は広く、向かい合わせの座席になっている。エルモライの花の羊はジェミヤンに無理やり本の中に押し込まれた事が不満だったようで、彼の鞄の中で本がバタバタと動いている。僕たちを乗せた蒸気自動車は、勢いよく走り出した。

「何が起きたの?」

 ジェミヤンがユーリに尋ねた。

「飛行船団がいきなり攻撃を受けたようだ」

「シャマーラ王国が攻めてきたのか? こっちに攻められる前に先制攻撃をしてきたとか」

 イグナートが真ん丸い頬をプルプル震わせながら言った。

「わからねえ。空を見ても、敵の船の姿がないんだ」

 ユーリは真剣な表情で、首を左右に振った。蒸気自動車はますますスピードを上げた。車窓の外を見ながらヴェロニカが言った。

「皆、どこに向かってるの?」

「ライサが攻撃を受けた時は、各地に造られているシェルターに避難するんだ。騎士の町ライサは軍事要塞でもあるんだ」

「私たちもそこに?」

 ヴェロニカの問い掛けにユーリは答えず、アリフィヤの顔を見た。ユーリと目を合わせたアリフィヤは、僕たち一人一人に視線を向け、ゆっくりと話し始めた。顔に刻まれた深い皺が静かに動いた。

「使命を持った誰かが、私を探しに来ると思っていたわ。それがあなたたちだったのね。恐れていた時がいよいよ来たのかもしれない。私はユーリのおばあさんであると同時に、騎士ヴィクトールの娘でもあるの。あなたたちが何のために私に会いに来たのかわかってる。エルモライの羊、あなたもここにいるのでしょ?」

 アリフィヤの言葉を受けて、ジェミヤンの鞄から本が飛び出し、本から羊が飛び出した。

「騎士の娘アリフィヤよ。私はお前を――」

 エルモライの花の羊が話し始めた途端、蒸気自動車が急停車した。僕たちは皆、前方に体が持っていかれて少し体勢を崩したが、宙に浮いていた花の羊は、慣性の力でそのまま前方に飛んでいってしまった。蝶ネクタイの運転手の顔の横をすり抜けて、フロントガラスに衝突し、ぺちゃんこに潰れた。花の羊の様子に運転手は「あっ」と声を上げたが、今は羊にかまっている暇はないようで、後ろを振り返って僕たちに告げた。

「これより地下に参ります」

 運転手はそう言うと、車から降りた。外を見ると、ここは何かの施設の中だった。スチームパイプが張り巡らされた壁にレバーがあり、運転手はそれを押し下げた。シューッという蒸気が抜ける音と共に、車がガクンと揺れた。車は床ごと下がり始めた。再びガクンと揺れ、床の降下が止まった。前を見ると、ずっと奥まで続く地下通路があった。僕たちを乗せた蒸気自動車は、再び走り出した。

 ジェミヤンは運転席の足元にぺちゃんこのまま落ちていた花の羊を拾い上げ、珍しそうにしばらくまじまじと見つめていたが、そのまま本の間に挟んでパタンと閉じた。

 

 地下通路は果てしなく続いているように思えたが、やがてフロントガラス越しに前方が明るくなってきたのがわかった。でもそれは単にトンネルの出口が見えたのではなかった。塞がれていた出口がゆっくりと開き始めていた。

 程なくして、僕たちを乗せた蒸気自動車は地上に抜け出した。振り返ると、地下通路の出口は高い崖の麓にあった。出口の横の大きな岩が回転して、出口をすっぽりと覆い隠した。

「この道はロトキナ街道だ」

 ユーリが僕たちに言った。

「騎士の町ライサから王都ラビナに行く最短ルートだ」

「王都ラビナ! 俺たちはラビナに向かっているのか」

 驚いた僕に、アリフィヤが静かに答えた。

「そう、私たちは王都ラビナに行く。王宮の奥にある閉ざされた塔を目指す」

 ガタガタと車体を揺らす車の中で、アリフィヤの声は透き通るように僕たちの耳に届いた。それは声なんかではなく、心に直接伝わってくるようだった。

「私が知っている事をあなたたちに話す。よく聞いてね」

 僕たちは大きく頷いた。

「今、この国はシャマーラ王国に攻め込もうとしている。シャマーラの国土に眠る無尽蔵の資源に目を付けているの。シャマーラから国土を奪い、資源を我が物にして、クライン王国が経済的に豊かになる事が狙いなの。奪われた聖地サンドラを取り戻すという、大義名分を掲げてね」

「じゃあ、攻撃してきたのはシャマーラなんですか? 侵略される前に攻めてきたの?」

 ヴェロニカの質問にアリフィヤは首を振った。

「ほとんどの人はそう思ったでしょうね。でも違うわ」

「なら、誰の仕業?」

 そう尋ねたアンナに視線を返した後、ゆっくりと僕たち全員を見た。そして答えた。

「トポロフの魔女よ」

 その言葉に、僕たちは息を飲んだ。


 トポロフの魔女の仕業と聞かされても、すんなりと腑に落ちないのは何故だろうか。想像はできても受け入れられないのは、僕が魔法使いの一族だからだろうか。

 深い森の奥にポツンと建つ煉瓦の家で、僕たちは魔女に出会った。魔女はこの世界を闇に落とすために、僕を引きずり込もうとした。でも、トポロフの鏡に取り込まれ、飢えて死んでいく哀れな魔法使いの子供たちを、恐しい魔女はたった一人で見守り続けてきた。

 王や騎士団に都合よく書き換えられたエルモライ伝ではなく、隠されていたコルネーエフ文書が伝える物語こそが真実ならば、果たしてトポロフの魔女が悪と言えるのだろうか。

「あなたたちは、長老ヴィクトールに会ってきたのでしょう?」

 頷いた僕たちの中で、ヴェロニカがキョトンとした顔で皆の顔を見回した。ヴェロニカはヴィクトールじいさんに会っていない。

 僕はハッとした。

「そうだ! ヴィクトールじいさんは無事でしょうか? 町と一緒に燃えてしまってるんじゃ――」

 僕の問い掛けに、アリフィヤは優しく微笑んだ。

「長老ヴィクトールは燃えてしまっても種を残すわ。焼け跡から芽を出し、また大きな木になる。だから、長老ヴィクトールの心配はいらない」

 ジェミヤンが眼鏡を掛け直しながら尋ねた。

「長老ヴィクトールは、何で木になっちゃったんですか?」

「ちょうどいい質問ね。私があなたたちに話そうと思っている事は、長老ヴィクトールが木になってしまった話でもある」

 そして、アリフィヤは遠くを見るような目で僕たちに話し始めた。


 * * *


 今から七十年も昔の事だ。

 夏が過ぎ去ろうとしていた頃、未曽有の大嵐が王都ラビナを襲った。狂ったような暴風雨の中、王宮務めだった若き騎士ヴィクトールは身重の妻ルフィナを支えながら歩いていた。

「頑張れ、ルフィナ。王宮まで後少しだ」

 川が氾濫し、激しい濁流が町に流れ込んだ。頑丈なはずの石造りの家々が薙ぎ倒され、無残に壊れていく。町の人々は小高い丘の上にある王宮に向かっていた。

 ヴィクトールとルフィナは、町の人々と共に、猛烈な勢いで流れる濁流を眼下に見ながら必死に歩いた。臨月だったルフィナは、胎内の赤ん坊をなだめるようにお腹をさすり続けた。やがて、林の向こうに王宮が見えてきた。

 その時だった。人々の悲鳴が聞こえた。ヴィクトールとルフィナは、濁流に落ちて流されていく少年の姿を見つけた。少年は木の枝にしがみついたが、激しい流れに今にもさらわれてしまいそうだ。あまりに流れが早く、誰も助けに行く事ができない。

 ロープを持った男が走り寄り、ロープを少年に向かって投げたが、強い風雨と濁流に煽られて少年の元には届かなかった。

「ルフィナ」

 ヴィクトールはルフィナに呼びかけた。それだけで、ヴィクトールの考えはルフィナに伝わった。ルフィナは頷いた。

 ヴィクトールは濁流に向かって走っていった。男が投げたロープに手を伸ばし、しっかりと腕に巻きつけた。ヴィクトールは迷う事なく濁流に飛び込んだ。流れに揉まれながらも、枝にしがみついている少年の元に辿り着いた。ヴィクトールは腕からロープを外し、少年の体に巻きつけた。そして手を大きく振り、ロープを引っ張るよう、人々を促した。しかし、自らの体からロープを外してしまったヴィクトールを、濁流が見逃す事はなかった。

 大きな波と強いうねりがヴィクトールを襲った。ヴィクトールはあっという間に濁流に連れ去られた。人々はロープに繋がれた少年を引っ張り、少年は少しずつ岸に近づいていった。

「ヴィクトール!」

 ルフィナは血相を変えて叫んだ。ヴィクトールをさらった濁流に向かって走り出そうとしたが、周りの人々はそんなルフィナを押し留めた。ルフィナは大声を上げて泣き叫んだ。

 王宮から一人の男が走ってきた。男は背丈ほどもある長いナナカマドの杖を持ち、黒いガウンを身にまとっていた。彼は王の魔法使いだった。

 魔法使いは杖の先を叩き折った。砕けた杖の欠片を拾い、濁流の中に投げ入れた。ナナカマドの杖の欠片は濁流の中を突き進み、濁流の底に沈むヴィクトールを見つけた。しかし、時すでに遅く、ヴィクトールは息絶えていた。ナナカマドの杖の欠片はヴィクトールの体内に入った。ヴィクトールの体が光り、やがて、霧が晴れていくように体が消えていった。そして、ヴィクトールの魂は杖の欠片と同化し、小さなナナカマドの赤い実になった。赤い実は激しい濁流と共に流されていった。

 ルフィナは町の人々に抱えられながら王宮に入った。その夜、ルフィナは王宮で赤ん坊を産んだ。その赤ん坊こそ、騎士の娘アリフィヤだった。しかし、憔悴しきっていたルフィナの体は出産に耐える事ができなかった。アリフィヤを産み落とすと同時に、ルフィナは命を落とした。

 ヴィクトールの魂を宿した赤い実は川を下り、海に出て、遥か彼方まで流されていった。それから五年もの間、海を漂い続けたが、その実が腐る事はなかった。

 赤い実は海流に乗って遠い北の国まで運ばれていった。やがて、小さな砂浜に赤い実は辿り着いた。波に打ち上げられ、砂の上で幾つもの昼と夜を過ごした。ルフィナと過ごした思い出の地はもはや遠く、ヴィクトールの魂は静かに永遠の眠りにつこうとしていた。いつしか夏は終わりを告げ、少し肌寒い風が吹き始めていた。


 秋の高い空で、小さな鳥が円を描くように舞っていた。薄茶色の背に、淡い白色の喉元を持つノドジロムシクイだ。彼らは寒くなる前にこの地を離れるが、このノドジロムシクイは体を悪くしていて、遥か遠くまで飛び続ける勇気を持てずにいた。仲間たちはすでに南へと旅立ち、最後の一羽となっていた。

 ノドジロムシクイは小さな赤い実を見つけた。砂浜に降り立ち、小さな嘴で赤い実をくわえた。赤い実を食べると、ノドジロムシクイは大空へと舞い上がった。この地に残って凍え死ぬより、力の限り飛び続ける事を選んだ。小さな翼を懸命に羽ばたかせ、南に向かって飛んでいった。

 ノドジロムシクイは、強い風に吹かれ、冷たい雨に凍えながらも、必死に飛び続けた。やがて、目指していた越冬地が見えてきた。その瞳は、遠くの空に舞う小さな影たちを見つけた。それは先に旅立った仲間たちの姿だった。仲間たちはノドジロムシクイを迎えるために一斉に飛び立っていた。飛び続けてきたノドジロムシクイに並走しながら、仲間たちは口々に鳴いた。後少し、後少しと、皆が声を掛けた。

 しかし、ノドジロムシクイの羽は止まってしまった。もうこれ以上、羽ばたく事はできなかった。真っ逆さまに空を滑り落ちていった。ノドジロムシクイは町の広場に落ちた。仲間たちは心配そうにいつまでもその空を舞い続けた。その時、ノドジロムシクイの体がキラリと光った。光は小さな体を包み込み、やがて小さなナナカマドの赤い実になった。

 赤い実から、瑞々しい芽が生えてきた。芽はみるみるうちに伸び始めた。実からは太い根も生えてきた。根は広場の石畳を砕き、大地に力強くめり込んでいった。芽はあっという間に太くなり、幹となり、枝を生やした。枝は葉を繁らせ、豊かで大きなナナカマドの木になった。

 ノドジロムシクイが落ちたのは、騎士の町ライサだった。突如として姿を現したナナカマドの大きな木を、町の人々は珍しそうに取り囲んで見ていた。不意に木の幹の皮がよじれ、大きな目が開いた。人々は驚き、一目散に逃げたが、ただ一人、その場に残った少女がいた。

 ナナカマドの大きな目が少女を見つめた。幹の皮が動き、口が開いた。

「ルフィナ――」

 ナナカマドの木は、少女にルフィナの面影を見た。少女は言った。

「ルフィナは私のお母さん。お母さんは死んじゃって、もういないの」

 ナナカマドの木の枝葉が揺れた。風もないのに、葉は小刻みに波打ち、震えていた。

「私はアリフィヤ。嵐の夜に生まれたのよ」

 ナナカマドの大きな目がゆっくりと閉じられた。そして、一粒の涙が澪れ落ちた。涙は幼いアリフィヤの足元で固まり、涙の形の木になった。アリフィヤはそれを拾い上げた。

 アリフィヤはそれから毎日ナナカマドの木の元にやってきた。町の人がナナカマドの太い枝にブランコを作り、アリフィヤは町の子供たちと一緒にブランコに乗って遊んだ。アリフィヤは涙の形の木をペンダントにしてもらい、首に下げていた。ブランコで遊ぶアリフィヤの胸元でペンダントが揺れていた。

 アリフィヤは成長し、二十歳になった。アリフィヤはナナカマドの木に別れを告げた。明日から王宮に入り、騎士として王に仕える事を伝えた。ナナカマドの木は、これまでずっと自分の正体をアリフィヤに告げる事ができずにいた。木の姿になってしまった父をアリフィヤが受け入れられるとは思えなかった。でもこの日、思い切ってナナカマドの木はアリフィヤに告げた。自分が父ヴィクトールである事を。

 アリフィヤは何も言わなかった。驚く事もなかった。アリフィヤははじめから気づいていた。ナナカマドの木の幹に抱きつき、アリフィヤは涙を流した。


 王宮務めにようやく慣れてきた頃の事だ。それは激しい雨が降る夜の事だった。王宮の奥にある塔から、地を這うような恐しい声が聞こえてきた。獣同士が威嚇し合う唸り声のようだった。アリフィヤは宿舎の廊下を走り、他の騎士たちの部屋の扉を叩いたが、静まりかえっていて誰の気配もなかった。この世にアリフィヤたけが存在しているかのようだった。声はますます大きく聞こえてきた。アリフィヤは宿舎の入口に置かれている塔の鍵を持ち、意を決して塔に向かった。

 白い石造りの塔の入口の古ぼけた木の扉の鍵を開け、中に入った。塔の中は、剥き出しの梁が何本かあるが、がらんとした空洞になっていた。壁伝いに上へと続く螺旋状の階段がある。筒のような塔の中で低い唸り声が反響していた。

 アリフィヤは腰の鞘から剣を抜いた。剣を手に階段を昇っていった。塔の天辺に部屋があった。恐しい声はその部屋の中から聞こえていた。アリフィヤは手のひらが汗でびっしょりになっている事に気がついた。服で汗を拭い、扉の取っ手に手をかけた。

 扉を開けたアリフィヤが見たのは、錆びついた甲冑を着た騎士の亡霊と、色とりどりの小さな花々を身にまとった羊が戦う姿だった。羊は黒い顔を膨らませ、真っ赤な口をパックリと開けていた。その口からは真っ赤な血がボタボタと流れ出ていた。

 騎士の亡霊は剣を持っていなかったが、その大きな手で羊を薙ぎ払った。羊は吹き飛ばされ、アリフィヤの真横の壁に打ちつけられた。突然の事にアリフィヤの体は硬直した。剣を持つ手がガタガタと震えていた。アリフィヤは気がついた。この塔は、建国記エルモライ伝に記された太古の騎士アドリアンが祀られた場所。

「あ、あなたはもしや、騎士アドリアンか?」

 騎士の亡霊はゆっくりとアリフィヤを見た。

「いかにも」

 その声はアリフィヤの体を押し潰すように響いた。アリフィヤは呼吸する事さえままならない感覚に陥った。それは騎士の一族の英雄に対する畏敬なのか、それとも目の前にいる亡霊に対する恐怖なのか、アリフィヤにはわからなかった。

 騎士アドリアンは、アリフィヤの傍らでぐったりとうずくまる花の羊を指差した。

「騎士の娘よ。貴様の剣でそやつの息の根を止めろ」

 アリフィヤは恐る恐る花の羊を見た。虫の息の花の羊は、気力を振り絞ってアリフィヤを睨み返した。騎士アドリアンが、震えるアリフィヤに命じた。

「殺せ!」

 その声にアリフィヤの体が反射的に動いた。剣を振り上げ、花の羊に狙いを定めた。

 その時だった。首から下げていた涙の形の木のペンダントが光り始め、ふわりと空中に浮いた。光は突然、強い輝きを放った。驚いたアリフィヤは振り翳していた剣を下ろした。

 アリフィヤは木のペンダントを握った。指の間から眩しい光が溢れてくる。我に返ったアリフィヤは、花の羊を抱き上げた。羊の口から流れ出る血がアリフィヤの服にべったりと付いた。アリフィヤは一目散に部屋から出た。下へと続く壁沿いの螺旋階段を駆け下り始めた。

 ドンという大きな音にアリフィヤは上を見上げた。アドリアンが扉を突き破り、塔の中に飛び出していた。その顔は怒りに満ちていた。

 花の羊を抱えたまま、アリフィヤは必死に階段を駆け下りた。アドリアンは塔の中に突き出ている梁を力任せに壊しながら、アリフィヤを追いかけてきた。

 一番下まで下りたアリフィヤは塔の外に出た。慌てて扉を閉め、鍵をかけようとした。しかし、ポケットの中に入れておいたはずの鍵がどこにもなかった。服のポケットを全てまさぐったが見つからない。真っ暗な夜空の下で、塔の壁で明々と燃えている松明の光を頼りに辺りの地面を探したが、どこにも落ちていない。塔の中から亡霊アドリアンが迫ってくる音がすぐそこに聞こえた。アリフィヤはみるみるうちに顔から血の気が引いていくのを感じた。

 その時、木のペンダントが一段と強い輝きを放った。ペンダントは宙に浮き、繋がれた革紐を引きちぎった。そして鍵の形に姿を変えると、塔の扉の鍵穴に刺さった。鍵が回り、ガチャッと音がした。その直後、巨大な力が塔の中から扉にぶつかってきた。扉はミシッと音を立てて、はち切れんばかりに膨らんだが、決して壊れる事はなかった。

 鍵は再び涙の形に姿を変え、コツンという音と共に石畳の上に落ちた。アリフィヤは涙の形の木のペンダントを拾い上げた。アリフィヤの腕の中で、花の羊が静かに目を開いた。

「ナナカマドの木か。何という強い力だ」

 花の羊はそう言うと、三日月の瞳をアリフィヤに向けた。

「お前は誰だ」

「私はアリフィヤ。騎士ヴィクトールの娘です」

「そうか――」

 花の羊はその言葉を最後に力尽き、目を閉じた。そして絵の具が水に溶けていくように、色とりどりの小さな花々が空気に滲み出し、やがて花の羊は姿を消した。


 * * *


 僕たちは、アリフィヤの話を固唾を飲んで聞き入っていた。話し終わったアリフィヤは少し疲れたのか、背もたれに寄り掛かった。

 この時、僕たちの誰もが気づいていた。僕たちは皆、ユーリに目を向けた。ユーリは首から下げているペンダントを握り締めていた。

「もしかして、これがその――ペンダント?」

 ユーリの問い掛けにアリフィヤは頷いた。

「そんな大切な物を、何で俺に?」

「父ヴィクトールが私に言ったの。ユーリにペンダントを託せと。あなたがいつか仲間たちを連れてくる。この世界を救うために、仲間たちを連れてくる。ペンダントはきっとあなたたちの力になってくれると」

「この世界を救う? 俺たちが?」

 ペンダントを握り締めたまま、ユーリが僕たちを見回した。ユーリは露骨に怪訝な顔をしてみせた。

「俺はともかく――」

 ユーリは僕たちを順に見ながら言った。

「食ってばかりで無駄に図体がでかい奴。自惚れた我が儘な女。実験に失敗ばかりしている化学バカ。得体の知れない機械を作る乱暴な女。それに、魔法を使えない魔法使い」

 軽く溜め息をついてから、同じ事をもう一度言った。

「俺はともかく――、こいつらが?」

 ユーリがそう言った直後、アンナとヴェロニカが同時に叫んだ。

「何だと!」

 声がぴったり合ってしまった二人はお互いに顔を見合わせた。アンナがこういう反応をするのはいつもの事だが、上品なレディを気取っているヴェロニカも、実は気の強い女の子なのかもしれない。ヴェロニカは、咄嗟に出てしまった自分の態度をごまかすようにコホンと軽く咳払いをして、何事もなかったかのように腰を下ろした。

 揺れる車内で腰を浮かして身構えていたアンナは、ヴェロニカの態度に意表を突かれたようだが、すぐに気を取り直してユーリに凄んだ。

「もう一遍言ってみろ!」

 アンナの手には見た事がない小さな金属の棒が握られていた。僕たちが知らない新しいアイテムのようだ。

 ヴェロニカはまるで自分は何も言っていないかのように視線を逸らせ、金色の長い髪をいじっていた。

 ユーリは涼し気な顔で両手を上げてみせた。

「おー、こわ」

 アンナはこめかみをピクッと引き攣らせたが、手にしていた道具を腰のバッグにしまうと、不機嫌そうな顔のまま、座席にドスンと座った。その時、車のスピードが急に落ちて、体勢を崩したアンナが僕にもたれかかった。

「さあ、みんな」

 アリフィヤが言った。

「着いたわ。王都ラビナに」

 いつの間にか、車窓の外には大きな町の風景が広がっていた。ロトキナ街道は土の道から石畳に変わっていた。街道の両脇に石造りの建物が立ち並び、人々が行き交っている。僕たちを乗せた蒸気自動車はガタガタと揺れながら、石畳の上を走り続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る