第12話 遺跡の町アンフィサ
僕とジェミヤンは、当然のようにレナート駅のチケット売り場に並ぼうとしたが、どうやらそれは許されない事のようだ。僕たちは後ろから襟首をつかまれ、引っ張られた。「わかってんだろ?」とアンナは笑顔で言い、僕とジェミヤンは引きつった笑顔を返した。チケット代を代わりに出そうかとでも言ったら、確実に蹴飛ばされるだろう。僕と視線を合わせたジェミヤンは両手を広げてみせた。チケットを買うお金がない訳ではないが、僕たちはアンナの後について貨車に忍び込んだ。
僕たちが乗った貨車には円柱形に固められた干し草が山積みになっていた。その上に毛布を敷いて寝転がると、少し固めのベッドという感じだ。昼寝にはちょうどいい。しかもこの時期の干し草は、夏の日差しで乾燥させたばかりだから、蒸れた草いきれの匂いではなく、乾いた夏の太陽の匂いがする。
蒸気機関車がレナート駅を出ると、僕たちは急いで貨車の小窓を全部開けた。すると、貨車の中の暑い空気が押し流されて、清々しい風が入ってきた。
「アンフィサ中央駅までは二時間くらいだよ。そこから二十分くらい歩くと僕の家だよ」
ジェミヤンはそう言うと、眼鏡を外して目を閉じた。心地良さに眼気を我慢できないようだ。彼は大きなあくびをひとつして、寝返りを打った。
「着いたよ」
アンナの声がした。僕はいつの間にか眠っていたようだ。プシューツと蒸気が排出される音と共に、体が前に引っ張られる感覚がした。蒸気機関車がアンフィサ中央駅に着いたようだ。
駅に降り立った僕たちは雑踏の中に紛れ込み、うまく駅から抜け出した。駅舎の外はマーケットになっていた。買い物客が行き交い、物を売る商売人たちの声が喧騒を生んでいる。よく見ると土産物屋が多いようだ。客もほとんどが観光に来た人たちのようだ。
「ようこそ! 遺跡の町アンフィサへ!」
ジェミヤンは植え込みの縁に登り、僕たちに向かって両手を広げた。
「この町には王立クライン大学アンフィサ校をはじめ、幾つもの学校や研究機関がある。特に考古学や歴史学の研究が盛んなんだ。父さんも歴史学の研究者だ。歴史に関する文献や資料はこの町に集められるんだ。この町にはクライン王国ができるよりももっと大昔の遺跡がある。まあ、アンフィサ遺跡はすっかり観光地になっちゃったけどね」
ジェミヤンはそう言って肩をすぼめた。
マーケットを逸れて裏通りをしばらく歩き、路地をくねくね曲がり、坂道を登って下った所にこじんまりした石壁の建物があった。青々とした蔦に石壁の半分くらいが覆われている。ここがジェミヤンの家のようだ。
古惚けてはいるが重厚な佇まいの木の扉には、鉄製のライオンの顔を形取ったドアノッカーが取り付けられている。しかし、ジェミヤンはドアノッカーには目もくれず、扉を両手でドンドンと叩いた。
「ただいまー! 僕だよー! 開けてー!」
少しすると、ギイッと軋んだ音を立てて扉が開いた。中から出てきたのは、小柄で細いジェミヤンとは対照的に、大柄で丸々と太った女性だった。出てくるなり、ジェミヤンを力一杯抱き締めた。
「ジェミヤン! どうしたの、いきなり帰ってきて! あんた研究で忙しいから家には帰らないって手紙よこしたでしょ。だからお母さん淋しかったのよ。二、三時間もあれば帰ってこられるんだから帰ってきてくれたっていいでしょうに。お母さんがレナートまで会いに行こうかと思ってたのよ」
「く、苦しいから離してよ!」
ジェミヤンは母親の腕から抜け出し、僕の後ろに隠れた。
「学校の友達のルカとアンナだよ。お父さんの書庫の本を皆で見たいんだ」
「あら! あら! ジェミヤンのお友達? 初めまして!」
ジェミヤンのお母さんは優しそうで穏やかな顔をしているが、蒸気機関車のように勢いよく喋る。僕たちはその圧力に思わす後ずさりした。お母さんはそんな僕とアンナの手をつかみ、家の中へと引きずり込んだ。
「いいから! いいから! 僕たちは書庫に用があるんだ」
ジェミヤンも僕とアンナの手をつかみ、引っ張った。しかし、お母さんの力は強く、僕たちはジェミヤンもろとも台所へと連れていかれた。
「その椅子に座って待ってて。おいしいモルスを飲ませてあげるから!」
お母さんはそう言うと、古びた棚からガラスの瓶を取った。瓶の中には赤いジャムが入っていた。
「去年の秋に収穫したクランベリーを私がジャムにしたのよ」
クランベリーはクライン王国の名産品だ。クランベリーを使った料理は山程あるが、クランベリーで作るモルスというジュースはどの家庭でも広く飲まれている。
穫れたての秋から冬にかけて飲むモルスは格別だ。凍える冬になると、大人たちはウォッカで割って飲んでいる。春から夏にかけては、保存用に作ったジャムで冷たいモルスを作る。冷たいモルスは子供なら誰でも好きだ。
お母さんは陶器のカップを三つ並べ、木のスプーンで瓶の中からクランベリージャムをすくい、カップに二杯ずつ入れた。それだけで、台所一杯に甘酸っぱい匂いが広がった。それは僕たちの嗅覚をくすぐり、自然と笑みがこぼれてしまう。
ジャムにはすでに甘みが付いているが、そこに一すくいの蜂蜜を入れた。そして龜から柄杓で水をすくい、カップの六分目くらいまで注いだ。それをスプーンでよくかき混ぜると、今度は台所の片隅に置いてある保冷庫の木製の扉を開けた。その中から氷の塊を取り出し、手のひらの上でアイスピックで氷を砕き、カップに入れ、僕たちの前に差し出した。
カップを手に取ると、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。開け放たれた窓から吹き込む暑い空気と裏腹な冷たさに、額の汗がすっと乾いていくような気がした。
カップに口をつけると、カランと音を立てて冷たい氷が唇に触れた。モルスを一口含んだ瞬間、クランベリーの瑞々しい酸っぱさが口の中に広がった。そして蜂蜜の柔らかな甘みが舌を包み込む。僕たちは誰からともなく顔を見合わせ、微笑んだ。
「私にも一杯くれないか」
声がしたほうに目を向けると、ジェミヤンによく似た細身の男性がいた。ジェミヤンと同じような眼鏡をかけている。彼は開いた扉に片手をかけ、僕たちを見てニコリと笑った。
「あっ、父さん。ルカとアンナだよ。レナート校の友達なんだ」
「おお、そうか。私はシモンだ」
「初めまして」
僕とアンナは声がぴったり合ってしまって思わず苦笑いした。
「ねえ、父さんの書庫の本を見ていい?」
「ああ、いいとも。何に興味があるんだ?」
「エルモライ伝について調べたいんだ」
「ほう、エルモライ伝か。それなら文献が山のようにあるぞ。夏休みの宿題か?」
「そんな簡単なものじゃないよ」
「進級試験で論文でも書くのか?」
「違うよ! エルモライが予言したように、空が落ちてくる日が本当に来るかもしれないんだ! だから僕たちは、これから何が起きようとしているのかを調べるんだ」
シモンおじさんは目を丸くして、細く尖った顎をさすった。そして、真剣な目をして、僕たちを見た。
「何かあったのか?」
僕たちは顔を見合わせた。二人が頷いたのを見て、僕が答えた。
「俺たち、トポロフの魔女に会ったんです。アドリアンの魔剣も見ました」
「何だと」
ジェミヤンのお父さん――シモンおじさんは驚きの色を隠さなかった。しばらくの間、顎に手を当てて考え込んでいたが、やがて言葉を発した。
「アーニャ、私の分は不要になった」
「あら、そう」
ジェミヤンのお母さんは仕度していた手を止めた。
「三人とも、ついてきなさい」
そう言うと、扉の向こうに姿を消した。僕たちは慌ててモルスを飲み干し、席を立った。
ジェミヤンの家の庭に、朽ちかけた石壁の小屋があった。壁には苔がびっしりと生えていて、そのまま時が止まってしまったような佇まいだった。どこかで見た事がある建物だなと思った時、アンナが言った。
「何これ。レナート石炭ラボそっくりだ。板の壁が石の壁になってるだけ立派だけど」
つまり、子が子なら親も親で、血は争えないという事だ。
シモンおじさんは僕たちを小屋の中に招き入れた。その中は思ったよりも広かった。そこには本棚がぎっしりと立ち並んでいた。この石造りの小屋がシモンおじさんの書庫のようだ。
日光を防ぐためか、窓は主に北側にしかないようだ。その窓から光が差し込んでいるものの部屋の中は薄暗い。足元が暗いせいで、置いてあった木の箱に僕は蹴つまずいた。ジェミヤンが僕のほうを振り向いて言った。
「その箱には塩化カルシウムが入ってるんだ。部屋を乾燥させる効果がある。本たちを守るためにね」
部屋の奥でシモンおじさんが手招きをした。本棚の間をすり抜けて奥に行くと、その一角には一番古そうだけど一番頑丈そうな本棚があった。分厚い板が、黒光りする大きな金具で留められている。その本棚に並んでいる本はどれも古惚けている。背表紙がめくれかかっている物もある。
本棚の前には小さな机があり、真鍮製のランプが置いてあった。シモンおじさんがランプのスイッチを入れると、バチバチッと軽く痺れるような音がして、明かりが灯った。火力発電の出力が不安定なせいで、明かりはちらついている。
シモンおじさんは辺りに散らばっていたスツールを机の周りに並べ、僕たちに座るよう促した。そして、その本棚の中から一冊の本を手に取った。
「これが建国記エルモライ伝だ」
ジェミヤンはそれを受け取り、表紙をめくった。その冒頭の言葉をジェミヤンが読み上げた。
「――剣の力が満ちる時、空が大地に落ちてくる。故に、かの者を止めねばならぬ。蘇りし宙の船に乗せてはならぬ。さもなくば、剣が空を貫くだろう」
「この前君が言ってた通りね」
アンナが本を覗き込みながら言った。
「この後のページには、クライン人がこの土地にやってきて、王国を造るまでの記録が書かれてるんだ」
「どんな事が書いてあるの?」
「知らないの?」
「知らないから聞いてるんだ」
アンナが少しむっとした口調で言った。ジェミヤンは少し得意気な顔をしてみせた。
「僕も知らない。最初の部分しか読んだ事ないから」
アンナが手を上げて殴る素振りをしてみせた。ジェミヤンは頭の上にさっと本を持ち上げた。
「父さん、どんな事が書いてあるの?」
「うむ。五百年前、この土地には魔法使いの一族だけが住んでいた。魔法使いたちは国を持たず、王もなく、静かに暮らしていた。そこに、聖地サンドラの領有を巡るシャマーラ人との戦争に負けて、クライン人が逃げのびてきた。大きな川があり、緑豊かなこの土地に目を付けたクライン人はラビナを王都として、クライン王国を再興した。そして、先住の民だった魔法使いたちはこの土地を追われ、トポロフの森に逃げた」
「魔法使いたちは戦わなかったの?」
アンナが僕に聞いた。
「巨大な魔法の力は、敵だけでなく、この世界も滅ぼしてしまうと言い伝えられているんだ。だから、魔法使いは戦争をしない。王に仕える身となった今でも、武力としての魔法は使わない。魔法は傷ついた人や町や自然を救うために使うんだ」
「ほう。君はよく知っているね」
「ルカは魔法の番人ガヴリイルの息子なんだ」
「魔法の番人ガヴリイル! 王の魔法使いか!」
「でもルカは魔法を使えないんだ」
「そ、そうか。うむ、なるほど。ルカ君と出会ったのは何かの導きかもしれんな」
シモンおじさんは合点がいったようで、一人で頷いた。
「その続きだがな、トポロフの森に潜んだ魔法使いたちにクライン人は共存を呼びかけた。だがそれは結果として、魔法使いの一族を分裂させてしまう事になった。クライン王国への併合を受け入れる者と、それを拒む者とだ。魔法使いの多くは森を出て、クライン王国の外れに魔法使いの町アクサナを造り、王国の一員として暮らし始めた。拒んだ者たちはトポロフの森の奥深くにタマラ神殿を造り、外部との関わりを断ってしまった。やがて、トポロフの森の魔法使いたちは姿を消し、タマラ神殿も忽然と消えてしまったという」
「タマラ神殿! ユーリが閉じ込められたのはタマラ神殿だ!」
ジェミヤンが興奮気味に言った。
「ユーリというのもお前の友達か?」
「うん、そうだよ。騎士イサークの息子だ」
「騎士イサーク! 騎士団長か!」
「ユーリは剣術のチャンピオンなんだ」
「そ、そうか。うむ、なるほど。ユーリ君と出会ったのも何かの導きかもしれんな」
シモンおじさんはさっきと同じような事を言い、噛み締めるように言葉を続けた。
「騎士たちは魔法使いたちと相容れなかった。武力で戦争をする者と、強大な力を放棄して戦争をしない者。騎士たちは魔法の力を怖れ、クライン王国に従わないトポロフの森の魔法使いたちを滅ぼすためにタマラ神殿を幾度も襲ったが、はとんどの騎士は森の奥で消息を断ってしまったそうだ」
「そういえば、魔剣が騎士の魂を食らい、魔法使いに強大な力を与えるんだって魔女が言ってた。行方不明になった騎士たちは、みんな魔剣に食べられたのかな? でも、魔剣は太古の騎士アドリアンが竜を退治した時の剣なんだよね。その剣は騎士の味方じゃないの?」
シモンおじさんはジェミヤンの手からエルモライ伝を取り、パラパラとページをめくりながら言った。
「トポロフの魔法使いたちの元に通い続け、最期の時まで彼らと共に過ごしたクライン人の老人がいた。その老人こそ、羊飼いエルモライだ。エルモライ伝にはトポロフの魔法使いたちが姿を消したところまでしか書かれていない。王国政府はエルモライが書いた記録に手を加えた上で建国記として残した」
「じゃあ、王国に都合のいい内容になってるんだ」
そう言ったアンナにシモンおじさんは頷いた。
「うむ、その通りだ。ここに、エルモライの死後数十年経ってから、彼の息子リューリフによって書かれた本がある」
シモンおじさんはエルモライ伝の隣に並べてあった一冊の本を手に取った。
「王国政府の目に触れぬよう、エルモライとリューリフ親子の流れを汲むコルネーエフ家に隠され、代々受け継がれてきた物だ。私たちはコルネーエフ文書と呼んでいる」
「コ、コルネーエフ?」
ジェミヤンが驚きの声を上げた。僕とアンナも驚いて、お互いに顔を見合わせた。
「そうだ、ジェミヤン。我々一族は羊飼いエルモライの末裔だ」
ガタンと音を立てて、ジェミヤンがスツールから滑り落ちた。座り直して、ずり落ちた眼鏡をかけ直してから、ジェミヤンは言った。
「エ、エルモライは、ぼ、僕の先祖?」
「そうだ。我がコルネーエフ家こそ、王の羊飼いだったのだ」
驚いて言葉を無くしたジェミヤンを押しのけてアンナが聞いた。
「羊、飼ってるの?」
アンナの問い掛けにシモンおじさんは笑いながら答えた。
「ハハ、司祭は昔、羊飼いと呼ばれていたんだよ。当時、羊は神の化身と呼ばれ、とても大切にされていた。我々一族は多くの羊を飼い、牧童は人々の信仰の拠り所となった」
「でも、クライン国教会の司祭って、レドフスカヤ家だよね」
ジェミヤンが僕を見て言った。僕は頷いて答えた。
「うん。ユーリの取り巻きのヴェロニカのおじいさんが今の司祭長だ」
シモンおじさんは大きく頷いた。
「エルモライの死後、我々一族は騎士アドリアンの行いを糾弾しようとしたが、この国は騎士団が実権を握っていたために逆に弾圧を受け、多くの者が処刑された。生き残った者がコルネーエフ家と名を変えて真実を受け継いできた。我々一族の遠縁に当たるレドフスカヤ家が、当時力を持ってきた商人ドブロホトフ家と手を結んで王国政府に働きかけ、クライン国教会を作り、この国の正当な宗教となった」
「商人ドブロホトフ家ってイグナートの家だ! てことは、ユーリとヴェロニカとイグナートの家が、この国を牛耳ってるって事?」
ジェミヤンの問いかけにシモンおじさんが答えた。
「騎士団、教会、商人がこの国の中心だが、クライン王は魔法使いも重用している。魔法使いが重しとなって、どこの国とも戦争をせずにこれたのだが、今この国は軍事力を増大させている。その昔、クライン人が追われた聖地サンドラを、シャマーラ人から奪い返そうという動きがある」
「空母リーディア号を生まれ変わらせたのは、そういう事だったのか」
ジェミヤンは腕組みをして、顔をしかめた。シモンおじさんは手にしていた一冊の本――コルネーエフ文書のページをめくった。
「さて、話を戻そう。この本には、エルモライ伝に書かれていない事実や、エルモライが死んだ後の事が書かれている。王国政府が隠し続けた真実の歴史だ」
そして、本の中程のページを開き、指し示した。
「ここを見てみなさい。騎士アドリアンの事が書いてある。アドリアンはトポロフの森に隠れた魔法使いたちを追い詰め、その剣で何人も殺した。アドリアンが竜を倒した時の剣だというのは、後から付けた作り話だ。羊飼いエルモライは同じクライン人であるアドリアンの行為を嘆き、魔法使いたちを庇ってアドリアンに剣でその身を貫かれた。魔法使いたちは魔法を使って、エルモライの体に突き立てられた剣を彼の体の中に封印した。剣を奪われたアドリアンはその場から逃げ出した。エルモライの肉体は剣と同化し、やがて魔力を持った一太刀の剣となった」
そう言うと、シモンおじさんは机の上にコルネーエフ文書を置いた。
「しかし、問題なのはそこから先だ。トポロフの魔法使いたちは騎士たちを恨み、一人、また一人と騎士を森に誘い込んではアドリアンの魔剣に食わせた。羊飼いエルモライは、自らを犠牲にして争いを止めようとしたにも関わらず、逆に自らが魔剣の宿主になってしまったのだ」
その時、聞き覚えのある声が書庫の中に響いた。
「ここにあったのか。お前たちを見張っていればきっと辿り着くと思っていた」
僕たちはハッとして辺りを見回した。その声は、書庫の入口のほうから聞こえた。小さな窓から差し込む光の中に、虹色の淡い輝きが見えた。それは色とりどりの小さな花の固まりで、小刻みに揺れながら宙に浮いていた。猫ほどの大きさのその丸い固まりには黒くて短かい四本の足が付いている。背中の小さな白い翼でパタパタと羽ばたいている。のっぺりとした黒い顔の上で、白い目に浮いた三日月の瞳が僕たちをじっと見ていた。
「うわっ!」
僕たちは三人揃ってスツールから滑り落ちた。
「あ、あの時の羊だ!」
花の羊は真っ赤な口の中を見せつけるように、口をパックリと開けた。口角が僅かに上がり、ニヤッと笑っているように見えた。そして、不意に花の羊は幽かな光を残して姿を消した。
次の瞬間、花の羊の黒い顔は、腰を抜かして床にへたり込んだ僕たち三人の目の前にあった。
「うわわっ!」
僕たちは他に出す声が見つからなかった。しかし、振り返って目にしたシモンおじさんの表情は意外なものだった。それは明らかに、喜びで興奮した顔だった。
「お前は、――エルモライの羊!」
「エ、エルモライの羊? な、何それ、父さん」
シモンおじさんはコルネーエフ文書を掲げた。
「この本に書き遣されている! エルモライが魔剣と同化する時に、エルモライの体の中から一匹の羊が飛び出した。それがエルモライの羊だ! 小さな花々を纏ったその羊は、宙を舞いながら、虹のような光を残して森の中に消えていったと書かれている。この羊に間違いない!」
羊はパタパタと小さな翼を羽ばたかせながら、三日月の瞳を少し上に向けた。その視線は、シモンおじさんが掲げている本に向けられていた。
「羊よ。お前はエルモライなのか?」
そう問い掛けたシモンおじさんの手の中で、本が強く光り始めた。そして手から離れ、宙に浮き、ふわりふわりと花の羊の目の前にやってきた。光る本は風に煽られるように、パラパラとページをめくった。
「私がエルモライなのかどうか、もう私自身にもわからぬ。ただ、私は私の血を見つけた。それがお前だ」
三日月の瞳がジェミヤンを一瞥した。
「お前を追えば、リューリフが書いた本に辿り着くと考えた。私はここに書かれた真実を、皆に伝えなければならぬ。そして、終焉の時がもうそこまで来ている事もな」
「終焉の時だって!?」
驚きの声を上げた僕を、花の羊の三日月の瞳が見つめた。
「そうだ。そして、この世に終わりをもたらすのは、お前のはずだったのだ。魔法使いの子よ」
「お、俺が!?」
「トポロフの魔女はお前を逃してしまった。だが、魔女はお前を諦めないだろう。五百年もの間、トポロフの魔法使いたちが積み重ねてきた恨みを晴らすのは、お前なのだ。最後の魔法使いよ」
そう僕に語りかけた花の羊に、アンナが真剣な眼差しで聞いた。
「どうすれば、――どうすれば終焉の時を防げるの?」
「騎士アドリアンを殺すのだ」
「アドリアンを殺す!?」
「王宮の一番高い塔の天辺に、アドリアンが封印されている。トポロフの魔女は剣に最大の力を与えるために、アドリアンを呼び覚まそうとするはずだ。そして、アドリアンの魂を魔剣に食らわせる。そうなってしまえば、お前は自らの意思など関係なく魔剣に操られてしまうだろう。だから私はその前に、アドリアンを殺す」
「アドリアンは生きてるの?」
「五百年前、トポロフの森から帰ったアドリアンは、クライン王によって塔に閉じ込められた。トポロフの森で魔法使いたちを殺し続けたアドリアンは、すでに狂気の中にあったのだ。肉体が朽ち果てた後も、その魂が塔に封印されている。その怨念はますます強大なものになっている。奴をこの世に蘇らせてはならぬのだ」
花の羊は僕たち三人を見渡して言った。
「アドリアンの塔に入るには鍵が必要だ。鍵を探すのだ」
「鍵?」
「騎士の娘アリフィヤに会うのだ。アリフィヤが鍵を持っているはずだ」
「えっと、その人はどこにいるの?」
ジェミヤンがそう聞くのと同時に、花の羊は光る本の中につるんと吸い込まれてしまった。ジェミヤンは宙に浮いていたその本を手に取り、花の羊を中から出そうとしてブンブンと振ってみたり、パンパンと叩いてみたりしたが、花の羊が出てくる事はなかった。
やがて本は光を無くし、何の変哲もないただの古びた本に戻ってしまった。
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