第11話 再び、ルジェナ飛行場

「いよいよ完成だよ」

 イラリオン飛行船商会に向かう道すがら、アンナが僕たちに言った。サマーキャンプから戻った僕たちは、再びアンナの飛行機を飛ばす目標に向かっていた。

 八月の暑い風が、自転車を漕ぐ僕たちの頬を撫でていく。真っ青な夏の空が果てしなく広がっている。高精製のガソリンの量産化に目処がついたジェミヤンも、今日は一緒に来ていた。

「ユーリはお父さんに相当怒られたかな?」

 少し息を切らせながら、ジェミヤンがそう言った。それは、サマーキャンプで僕たちが起こした行方不明事件の後始末の事だ。僕たち三人とユーリがトポロフの森を抜け出て、オフェリアログハウスに戻った時、そこは大変な騒ぎになっていた。何故なら、ユーリだけでなく、僕たち三人も突然姿を消したのだから。

 コンドラート校長にたっぷり絞られた僕たちは、サマーキャンプが終わるまで、カリキュラムには参加させてもらえず、ログハウスで自習させられ、皆が食事する時は配膳係をやらされた。

 学校に戻った三日後には、騎士団長イサークが学校に乗り込んできた。英雄として名高い人物が学校に現れたものだから、学校に残っていた生徒たちは色めき立った。

 騎士団長イサークは大きな幌馬車に乗っていた。そしてユーリの首根っこをつかみ、放り投げるように幌馬車に押し込んだ。幌馬車はモクモクとした砂煙を上げながら、ユーリを乗せて去っていった。あっという間の出来事に、僕たちは唖然としながら見送った。

「秘密の地図を勝手に持ち出した挙句、捜索隊が出動するような騒ぎを起こしたからね。ユーリは当分、家から出してもらえないだろうな」

 僕は自転車を漕ぎながら、そう答えた。北に続く草原のずっと向こうに王都ラビナがある。ユーリは夏休みが終わるまで、寄宿舎には戻ってこれないだろうなと思った。以前、家に帰る気になれないとユーリが言っていたのを思い出した。

 サマーキャンプから戻った次の日に、僕たちはトポロフの魔女に出会った事をネストルじいさんに伝えに言ったけど、じいさんは「ああ、そうかね」と言って微笑んだきり、じっと考え込んでしまって何も喋ろうとしなかった。僕たちは魔女や猫人間や煉瓦の家の事を話したかったけど、黙り込んだじいさんの目が悲しそうで、僕たちは何も言えなくなってしまった。それから毎日、僕たちはアンナの飛行機の仕上げと、飛行訓練に明け暮れていた。

 サマーキャンプの後、生徒たちの多くはそれぞれの家に帰っていった。寄宿舎に残っている者は少ない。夏休みはまだ一ヶ月以上ある。


「見て! リーディア号が外に出てるよ!」

 先頭を行くアンナが指を差す方向に目をやると、飛行船ドックから空母リーディア号が外に出ているのが見えた。

「改造が終わったんだ!」

 ジェミヤンが興奮した声を上げた。リーディア号は半年以上、飛行船ドックの中に係留されていた。それはただの整備ではなく、最新の装備の搭載と性能の向上を目的とした改造だった。ジェミヤンが嬉々として僕たちに説明してくれたけど、彼の説明はあまりに詳しく専門的過ぎて、僕の頭には残らなかった。だから、どう凄くなったのかよくわからないけど、とにかくとんでもない怪物のような飛行船になったらしい。姿を見せたリーディア号に向かって、僕たちは自転車を漕ぐ足を早めた。

 イラリオン飛行船商会で止まらずに、僕たちは隣接するルジェナ飛行場に向かった。ルジェナ飛行場では、ドックから出たリーディア号が青空の下でその巨体を晒していた。僕たちは自転車を停め、リーディア号の元へと駆けていった。

 威風堂々としたその飛行船を何人もの人が見上げていた。その中に、イラリオン飛行船商会のネストルじいさんがいた。駆け寄ってきた僕たちに、ネストルじいさんは皺だらけの顔をほころばせた。

「完成したの!?」

 ジェミヤンはリーディア号を指差しながら言った。

「ああ、完成したよ。こいつはとんでもない化け物に生まれ変わったんじゃ」

「いつ飛ぶの?」

「最終調整はこれからだから、数日先じゃな」

「楽しみだね!」

 そう言ったジェミヤンに笑顔を向けた後、ネストルじいさんはアンナに振り向いた。

「お前さんの飛行機のテストフライトの方が先じゃな」

 その言葉にアンナの目が輝いた。

「うん、すぐにでも飛ばしたい!」

「テストフライトはルカがやるの?」

 ジェミヤンが僕の方を向いて問いかけた。僕が答えようとした時、頭上から風が吹き下りてきた。その風は僕の頭を鷲掴みにして止まり、僕の代わりに低く響く声で答えた。

「訓練生にテストフライトなど、できるわけなかろう」

 僕の頭に止まったのは大きな翼を広げたワシミミズクだった。飛行機部隊ブラックイーグルのエドアルト隊長だ。大きな足の爪が食い込まないように僕の頭を軽くつかんでいるようだが、はっきり言って十分に痛い。僕は隊長を振り落とそうとして頭を揺らしたが、隊長は大きな翼でバランスを取って落ちないようにしている。ブラウンのグラデーションで彩られた翼は、僕の身長よりもずっと大きい。

「テストフライトは私の弟が引き受けよう」

 オレンジ色に光る鋭い目が向けられた先から、王国騎士団の濃紺の制服を着た背の高い男が歩いてくるのが見えた。ヴァジム副長だ。

「お前の飛行機には私も興味がある。ネストルじいさんが言うには、王国騎士団随一のブラックイーグルを凌ぐ性能を持っているらしいからな」

 エドアルト隊長の言葉に、アンナが気を良くして答えた。

「うん、そうだよ。私の飛行機はブラックイーグルよりも速く飛べるんだ」

「それに最高の燃料を使うからね!」

 アンナの横からジェミヤンが一歩前に出て、胸を張って言った。

「ほう。それは楽しみだな」

 エドアルト隊長はアンナを一瞥して言った。

「飛行機に名前を付けたか?」

「レオナ号。私の母さんの名前」

 アンナは誇らしげに答えた。

「隊長!」

 僕はしばらく考え込んでいたけど、思い切って言う事にした。

「レオナ号のテストフライト、俺にやらせてください」

 エドアルト隊長は小首をかしげて、鋭い瞳で真下にいる僕を見た。

「駄目だ。テストフライトは予期せぬ事が起きるかもしれんからな」

 エドアルト隊長は即答した。僕は頭の上に乗っている彼の両足をつかんだ。

「やらせてください!」

 両足をつかまれた隊長はバランスを崩して大きな翼をバタつかせた。

「やめんか! 離せ!」

「やりたいんです!」

 暴れる隊長の翼から羽毛が飛び散り、強い羽ばたきでつむじ風が幾重にも巻き起こった。僕は地面に倒れたが、隊長の両足を離さなかった。隊長が僕をその強い鉤爪でつかんでいたなら、易々と大空に引っ張り上げられていただろうけど、両足をつかんだ僕が地面でのたうち回っているものだから、隊長はうまく羽ばたけないでいる。

「いいんじゃないですか」

 その声に振り向くと、それはヴァジム副長だった。副長は飛び散る羽毛を手で払いのけながら言った。

「ルカはいい腕をしています」

 ヴァジム副長の低く通る声に、地面に転がっていた僕と隊長はピタリと動きを止めた。

「やった!」

 力を緩めた僕の手を振りほどき、隊長は飛び立った。そしてヴァジム副長の肩に止まった。

「ふん、まあいいだろう。レナート校の生徒たちよ、エンジンと機体の設計、燃料の開発、どれもお前たちがやった事だ。ならば、それを飛ばすのも自分たちでやるべきかもしれんな」

 エドアルト隊長のその言葉に、アンナとジェミヤンの目が輝いた。僕はブルッと身震いをした。そして隊長はヴァジム副長に視線を向けた。

「ヴァジム、お前はレオナ号の後部座席に乗れ。私はその周りを飛ばう」

 そして僕たち皆に向かって言った。

「テストフライトは三日後だ」


 * * *


 ついにレオナ号のテストフライトの日がやってきた。真夏の空は突き抜けるように青い。ルジェナ飛行場の周囲の草原が緩く波を打っている。

 初めてレオナ号を見た時は、パーツがゴロゴロと転がっていただけだったが、今のレオナ号は見違えるほどの勇姿を僕たちに見せていた。機体は黄色に塗られていて、機首では銀色のプロペラが輝いている。機体の下部から伸びる主翼の根元には、車輪が付いた脚がある。それは逞しいワシミミズクの脚に似ている。その脚にロープをかけ、皆で引っ張った。レオナ号はゆっくりと動き出し、白い格納庫の外にその姿を現した。

「今日はあくまでもテスト飛行だ。持てる能力を引き出すのではなく、設計通りに制御できるかどうかを確認する事が目的だ」

 アンナにそう告げたエドアルド隊長は僕の頭の上に乗っている。最近はいつもそうだ。僕の頭よりもヴァジム副長の広い肩のほうが止まりやすいだろうに。この前、疑問に思った僕が「どうして?」と聞いたら、エドアルド隊長は低く響く美しい声で「エクササイズだ」と答えた。

 その体を支えるには僕の頭では不安定だから、大きな翼を巧みに動かしながらバランスを取っている。プルプルとした脚の震えが僕の頭に伝わってくる。常に鍛練するその姿に僕は感心したが、単に楽しんでいるだけじゃないかとも疑っている。

「絶対、成功します」

 アンナはキリッとした表情でエドアルド隊長に答えた。モスグリーンの飛行服を着たヴァジム副長が、僕に飛行帽とゴーグルを手渡した。僕も同じ飛行服を着ている。大人用だが一番小さいサイズなので丁度いい。ワシミミズクの姿を象った王国騎士団の紋章が胸に縫いつけられている。パラシュートを付けるためのベルトも付いている。上空の寒さに耐えるため、綿がたくさん詰め込まれている。

 革製の飛行帽の左右の側面には、翼を広げて滑空する黒いワシの絵が描かれている。これは精鋭の飛行機部隊、ブラックイーグルのマークだ。

 滑走路の端に、四機の黒い機体の複葉機と、一機の赤い機体の複葉機が整然と並んでいる。その前で、四人の男たちがニヤニヤしながらこちらを見ている。四人は僕と同じモスグリーンの飛行服を着ている。彼らの胸にも王国騎士団の紋章が付けられている。

「俺が代わりに飛ばしてやろうか?」

 大声でそう声をかけてきたのはミハイロだ。ミハイロは太っていてお腹が突き出ているから、飛行服がいつもはち切れそうだ。飛行機のコックピットに座るとぎゅうぎゅうになる。でも彼に言わせると、どんなに激しい飛行をしても体が動かないから安定しているらしい。真ん丸い顔にギラリとした鋭い目、豊かに生やした髭で少し強面に見える。

「俺が代わりに飛ばしてやるよ。そのスマートな飛行機にミハイロが乗ったら、重量オーバーで飛はないんじゃないのか?」

 ミハイロを押しのけてキリルが前に出てきた。キリルは細身で背が高い。顔も細長い。彼が飛行帽を被ると妙にしっくりこない。飛行帽の側面は顎まで覆うはずなのに、耳の辺りまでしか届いていなくて、顔の下半分が出てしまっているからだ。特注でキリル用の飛行帽を作ろうという話もあったそうだが、何故かキリルは頑として断ったらしい。彼のこだわりの理由は不明だ。彼がコックピットに座ると、頭が飛び出ている。乗り込む時に、複葉機の上の翼にいつも頭をぶつけている。彼はどんな時もニヒルな笑みを浮かべている。

「何だと、キリル。てめえ、子供が作った飛行機には怖くて乗れねえってほざいてただろが」

 ミハイロがキリルを押し返した。キリルも負けずに押し返した。押し合う二人の足元をくぐって小柄な男が出てきた。チームの中で一番背が低いイリヤだ。

 童顔で僕と同じくらいの年の少年のようにも見えるが、十分にいい大人だ。純粋そうな可愛いらしい目をしているが、コックピットに座ると別人のような鋭い目つきになる。アクロバット飛行をさせたら、彼の右に出る者はいないという。

「それ、僕の飛行服だからね。汚したり破ったりしないでね」

 イリヤが言うように、僕が着ている飛行服は彼の物だ。彼は僕より少し大きいくらいだ。訓練の時は貸してもらえないが、今日はレオナ号の初飛行だからと、特別に貸してくれた。おかげで僕までブラックイーグルの一員になったような気分だ。

 そう、彼らこそ、エドアルト隊長が率いる誇り高きブラックイーグルの隊員たちだ。クライン王国で最も優秀で、誰よりも勇敢だと言われている飛行機乗りたちだ。

 そしてもう一人、黙って腕組みをして黒い機体の複葉機に寄りかかっている男がいた。その男の名はフォードルだ。浅黒い肌に黒い無精髭、黒くて長いドレッドへアーに黒いサングラス。袖をまくり上げた逞しい腕にはびっしりとタトゥーが刻み込まれている。フォードルの飛行服の胸元は少しはだけている。見るからに南国生まれの風体だが、実はこの港町レナートで生まれ育った生粋のクライン人らしい。サングラスに隠された目の表情は窺い知れないけど、片方の口角が上がったその口元を見る限り、ニヤニヤと笑っているようだ。

 そんな彼らの言葉に耳を貸さず、僕は飛行帽を被ろうとした。その時になって初めて気がついたが、頭の上にエドアルト隊長が乗っていると、飛行帽を被る事ができない。僕は頭を振って隊長を追い払おうとしたが、隊長はうまくバランスを取って耐えている。しかも、だんだんと足の爪が僕の頭に食い込んでくる。我慢比べになってきたが、それはあえなく決着がつく事になる。

「いい加減にしてください」

 ヴァジム副長はそう言って、エドアルト隊長の足をつかんで持ち上げた。

「何をする!」

 エドアルト隊長はバサバサと翼をバタつかせ、嘴を開いて威嚇した。しかし、副長はその精悍な顔つきを歪める事もなく、――そう、眉ひとつ動かす事もなく、エドアルト隊長を後ろに放り投げた。放り投げられた隊長はひらりと身を翻し、緩やかな弧を描いて空中を滑り、ブラックイーグルの翼に止まった。

「飛行帽を被ってコックピットに入れ」

 離れた場所からエドアルト隊長がまだ何か言っているが、僕はヴァジム副長の指示に従う事にした。僕は機体の下部から伸びている主翼に足を掛け、コックピットによじ昇った。レオナ号は単葉機で翼が下にあるから、視界一杯に空が広がっている。

 コックピットに座った僕はぞっとするほどの緊張感に襲われた。実際に乗り込んでみると、レオナ号はとても大きい。ブラックイーグルよりも一回り小さくてスマートだけど、僕にはすごく大きく感じる。でもその緊張感を吹き飛ばすくらいの高揚感も感じていた。僕の中から湧き上がる空への憧れが、ますます大きくなってくる。

 ヴァジム副長が腕くらいの大きさのクランクを持って、レオナ号の機首に近づいた。副長はレオナ号のプロペラを手でぐっと押した。プロペラは滑るように軽く回転した。これはキャブレターにガスを吸わせたり、シャフトのオイルを万遍なく行き渡らせるためだ。そして、エンジンルームの斜め下にあるカウフラップを開け、僕に声をかけた。

「ルカ、パイロットはお前だ。指示を出せ」

「はい! エナーシャ回せ!」

 ヴェジム副長に促されて、僕は大きな声でそう告げた。副長は手に持っているクランクを、エンジンにあるエナーシャという装置に差し込んだ。そして両手でクランクを回し始めた。エナーシャが一定の回転に達したところで、副長は機首から離れ、大きな声を出した。

「コンタクト!」

 僕はその指示を受けて、コックピットでエナーシャとプロペラの軸を直結した。エナーシャの回転の力がプロペラに伝わったところで、僕はエンジンのスイッチを入れた。

 エンジンが唸り、排気口から黒ずんだ排気ガスが出た。プロペラは除々に回転速度を上げていった。それと共に排気ガスは白くなり、やがて薄くなった。エンジンを温めるため、今から十分ほどアイドリング状態にしておく必要がある。その間、僕は様々な計器のチェックをする。

 練習機ラドミラ号は蒸気機関でプロペラを回しているが、レオナ号は液化石炭から精製したガソリンを内燃機関で小刻みに爆発させ、その力でプロペラを回す。

 ブラックイーグルと同じ仕組みだが、排気ガスの排出口を数本分まとめていたブラックイーグルに対し、レオナ号は気管ごとに排出口を分けて、後方に勢いよく噴出させる。それによってプロペラの推進力だけでなく、ジェット効果が加わる事になる。

 このエンジンと機体は、理論上、ブラックイーグルを凌ぎ、百ノットの巡航速度で空を飛べるはずだ。

 アンナとジェミヤンがコックピットによじ登ってきた。思い思いに手を突っ込み、計器をいじりだした。

「私が操縦できたらなあ」

 アンナはいよいよレオナ号が飛ぶ時になって、自分の高度恐怖症が口惜しいと見える。

「でもさあ、レオナ号くらいのスピードになると、高度恐怖症だけじゃなくて、スピートへの恐怖とか、体にかかる重力への恐怖にも耐えられないと無理だよ。想像以上に過酷だよ」

 ジェミヤンのその言葉は、アンナをなだめるよりも、飛行前の僕にプレッシャーを与えるのに十分だった。

「さあ、お前たち、時間だ」

 エドアルト隊長が音もなく飛んできて、僕の頭の上に降り立った。


 真っ青な八月の空を雲がゆっくりと流れていく。アンナとジェミヤンがレオナ号から離れるまでの間、僕は空をじっと見ていた。

 一瞬、唸るエンジン音が消えて、静寂の中にトポンと落ちたような気がした。この世界で聞こえるのは、草原を揺らす風の音だけだ。

 エドアルト隊長は僕の邪魔をよくするけど、やっぱりそれは僕をからかっているだけで、分別はちゃんとあるようだ。いよいよ飛び立とうという時に、隊長は僕の頭から離れ、先に空へと舞い上がっていった。

 レオナ号はゆっくりと走り出し、格納庫の前から滑走路の中に進入し、位置についた。

「出力上げ!」

 後ろからヴァジム副長の声が聞こえた。

「出力上げ!」

 僕は復唱し、エンジンの出力を上げていった。プロペラは回転速度をどんどん増し、レオナ号は前へと進み始めた。僕の前には、真っすぐな滑走路が続いている。

 レオナ号はみるみるうちにスピードを上げた。数回、車輪が浮くような感覚がした後、真後ろに引っ張られていた僕の体が下に引っ張られた。練習機のラドミラ号とは比べものにならないほどの重力だ。その直後、僕の体はふわりとした浮遊感に包まれた。レオナ号は滑るように空へと飛び立った。

 まるで時間が止まってしまったような気がした。安定飛行に入ったレオナ号はエンジンの出力を下げ、静かに飛行を続けた。

 この滑らかな飛行はこれまでの飛行機にはなかったものだ。これで出力を最大にしたら、どれほどの速度が出るのだろう。ワシミミズクは百ノットで飛べるというが、レオナ号ならエドアルト隊長に引けを取らないだろう。父さんのまな板が相手だったらどうだろうかと考えていたら、いつの間にか、エドアルト隊長が隣に並んで飛んでいた。


 その時、僕は妙な違和感を覚えた。それは右の空にあった。黒い影のような物が雲の中に見えた気がした。僕がそれを伝えようと思って二人を見たら、二人とも気づいていたようで、僕と視線を合わすと、大きく頷いた。

 今度は見逃さないように目を擬らして見ていたら、それはスッと雲から姿を現した。それは小型蒸気飛行船だった。

 ヴァジム副長はエドアルト隊長と目を合わせた後、大きな声で僕に告げた。

「近づいてみるぞ。右に旋回しろ」

 僕は副長の指示に従い、レオナ号を右に旋回させた。小型蒸気飛行船の姿がはっきりと僕たちの目に映った。

 小型とはいえ、その蒸気飛行船の船体はレオナ号の四、五倍くらいはありそうだ。船体の下にゴンドラが付いている。ゴンドラ自体はレオナ号と同じくらいだ。蒸気機関は船体内部に組み込まれているようだ。船体の上には尖った背びれのような煙突が付いている。煙突は斜め後ろを向いていて、黒い煙が吐き出されている。煙の中で火花が弾け飛んでいる。それはどす黒い雨雲の中で光を放つ稲妻のようだ。船体の後ろには大きなプロペラが付いている。プロペラはガタつきながらも、勢いよく回転している。

 内部に竜骨構造を持った硬式飛行船のようだが、その外皮はひどく破れ、どう見ても浮揚ガスは抜けているとしか思えない。じゃあ、なんで空に浮いてるんだ? しかもそいつはレオナ号と同じ速度で飛んでいる。レオナ号は今、八十ノット出ている。小型蒸気飛行船がこんなスピードで飛べるはずがない。いや、だから、そもそも外皮が破れた飛行船が空を飛ぶはずが――。

 混乱する僕をよそにエドアルト隊長がヴァジム副長に言った。

「あれはいつの時代の蒸気機関だ?」

 亡霊のような飛行船を目の当たりにしながらも、この二人は冷静だった。

「排気管が水タンクに入る構造ではないようです。複水器がないとすると、五、六十年は昔の物じゃないでしょうか」

「うむ。それにしてもひどい有様だ。至る所が朽ちている。それに、乗組員がいるようには見えんな」

「幽霊船ですね」

「幽霊船だな」

「ゆ、幽霊船?」

 二人が普通にそう言うのを聞いて僕は驚いた。

「そんなの、よく見かけるんですか!?」

 僕の問い掛けに、エドアルト隊長は真面目な顔で答えた。

「馬鹿者。生まれて初めて見たに決まってるだろう。あんなのが空を飛んでるはずがなかろう」

「じゃあ、あれは一体――」

「私はあの飛行船の設計図を見た事がある」

 翼を軽く羽ばたかせ、エドアルト隊長が言った。

「え? だ、誰が作ったんですか?」

 驚く僕を嘲笑うように、幽霊船は雲の陰に隠れた。そしてそれきり姿を現わす事はなかった。

 エドアルト隊長は僕の問いかけには答えず、オレンジ色の鋭い目を光らせて言った。

「帰還するぞ」


 * * *


 ダン、と一度大きくバウンドをした後、レオナ号はルジェナ飛行場の滑走路に降り立った。フラップが風を力強く受け止め、レオナ号はスピードを落としていった。

 揚力をなくしたレオナ号はそのままプロペラの力で格納庫前に向かった。アンナやジェミヤンが駆け寄ってくるのが見えた。

「やったね! 大成功だ!」

 アンナはレオナ号から降りた僕の手を強く握り、勢いよく振り回しながら、喜びの声を上げた。

「見事なフライトだったよ! ルカ!」

 ジェミヤンは目に一杯の涙を浮かべている。

「アンナ、レオナ号は最高の飛行機だ。とんでもなくスピードが出そうだ。ジェミヤンが作ったガソリンで空を滑るように飛んだよ!」

 僕たち三人は肩を組んで円陣を作り、跳ね飛びながらぐるぐる回った。

 飛び立つ前は僕の事をからかっていたが、ブラックイーグルの隊員たちも実はレオナ号が気になっていたようで、レオナ号に集まってあちこち見始めた。

 僕は格納庫の前に目を向けた。エドアルト隊長とヴァジム副長が、ネストルじいさんと真剣な顔で話していた。僕たち三人は彼らの元に向かった。僕に気づいたネストルじいさんが、僕の事をじっと見つめた。

「ネストルじいさん――」

「なんじゃ、エンジンが変だったか? わしゃ手抜きなんかしとらんぞ」

 ネストルじいさんはとぼけた言い方をしたが、目は笑っていなかった。エドアルト隊長とヴァジム副長を見ると、二人とも僕に視線を合わせて頷いた。

「空で幽霊船を見たんだ」

「幽霊船!?」

 ジェミヤンが驚きの声を上げた。ネストルじいさんは一呼吸ついてから言葉を返した。

「エドアルトから聞いた通りの船じゃとすると、そいつはオルガ号に違いなかろう」

「オルガ号?」

「そうじゃ、オルガ号じゃ。六十年前にわしが初めて造った船じゃ。トポロフの森に墜落したわしの船じゃ」

 アンナがジェミヤンを押しのけて、ネストルじいさんに尋ねた。

「じゃあ、その船をトポロフの魔女が蘇らせて、空を飛ばしたっていうの?」

「ちょっと待って!」

 今度はジェミヤンがアンナを押しのけた。

「俺、その話、知ってる!」

「知ってるってどういう事よ」

 アンナが怪訝な顔をした。

「エルモライ伝だよ。建国記エルモライ伝。読んだ事ない?」

「何それ。読んだ事あるわけないでしょ」

 アンナの言葉を意に介さず、ジェミヤンは続けた。

「エルモライ伝の冒頭の言葉、――剣の力が満ちる時、空が大地に落ちてくる――。これは聞いた事あるよね?」

 僕とアンナは頷いた。

「その言葉には続きがある。――故に、かの者を止めねばならぬ。蘇りし宙の船に乗せてはならぬ。さもなくば、剣が空を貫くだろう――」

「蘇りし宙の船!?」

 僕は驚いてネストルじいさんを見た。

「わしの船の事かの」

「その続きは?」

 アンナがジェミヤンの肩をつかんで答を求めた。

「えっとー、それより先は覚えてないよ。家に帰れば文献や資料がたくさんあるよ。お父さんは歴史の専門家だからね」

「よし、じゃあ行こう!」

 躊躇う事なく、アンナはそう言った。僕も頷いた。ジェミヤンは一瞬ポカンとしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて言った。

「うん、行こう。僕の家はアンフィサにある」

 ジェミヤンが僕たちの前に手を差し出した。僕とアンナも手を重ねた。そして僕は言った。

「行こう、アンフィサに!」

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