第8話 オフェリアログハウス

 蒸気バスはエンジンルームの下からプシューッと水蒸気を吹き出し、大きなログハウスの前で停まった。中等部の生徒四十五人と、引率者十二人の合わせて五十七人がそこに降り立った。ここは、キャンプ場の中心にあるオフェリアログハウスだ。

 この大きなログハウスは丸太を積み重ねるようにしてできていて、三角形の屋根が青空にそびえている。ログハウスの前には、向こうの山々を鏡のように映すネラ湖が広がっている。静かな湖面でさざ波の波紋が揺れている。浜にはたくさんのカヌーが並べられている。

 ログハウスの後ろには森が広がっている。トポロフの森だ。森は僕たちを見つめるようにじっとして動かない。枝葉に隠されたそのずっと奥には、一体何があるのだろうか。木々の隙間から顔を覗かせている神秘的な闇に、僕はいつしか目を奪われていた。

 午後三時、僕たちはオフェリアログハウスの中にある食堂に集められた。これからの予定や注意事項についての説明があるらしい。皆の前に立ったのはコンドラート校長だった。

 僕はコンドラート校長がサマーキャンプに来ている事自体、意外だった。いつも蝶ネクタイを締めて、かっちりとしたジャケットを羽織った上品な佇まいは、立派な校舎にこそ似合っていて、キャンプで野外活動をするようには思えなかった。

 とは言え、ここにいるコンドラート校長は見事なサファリルックだ。両胸に蓋付きのポケットがあるベージュ色のジャケット、同じく両ももに蓋付きのポケットがあるカーキ色のカーゴパンツ、足には焦げ茶色の登山靴、頭には茶色いチェック柄のハンチング帽を被っている。どれも一流のテーラードで仕立てた良品のようだ。

 そして、コンドラート校長がさすっている長く白い髭の合間から、えんじ色の蝶ネクタイが見えていた。どこにいても蝶ネクタイは彼の必須アイテムのようだ。

 コンドラート校長の説明によると、この後はグループに分かれてキャンプの講習を受け、それから入浴して、夕食があり、夜はグループごとにミーティング、という感じらしい。

 キャンプでは三人ずつのグループで行動する。全部で十五グループあり、三グループ単位で五つに分かれ、様々なカリキュラムに参加する。渓流での川釣り、湖畔でのスケッチ、湖でのカヌー、そして森の中のハイキングなど、全部で十通りのカリキュラムがある。最後の夜にはキャンプファイヤーが行われる。

「ねえ、知ってる?」

 講習の最中、ジェミヤンは眼鏡をかけ直しながら、隣に座っている僕に囁いた。僕は、今後ろの席に座っているアンナを含め、レナート石炭ラボのメンバーでもあるこの三人でグループを組んでいる。

「ウンタモ寮長は森のハイキングの引率から外されてるんだよ」

「何で?」

 僕の問いかけにジェミヤンは答えた。

「森に帰っちゃうかもしれないから――じゃないかな」

 真偽の程はわからないが、ジャングルのように設えられている寮長室の事を思うと、あながち否定できるものでもない。

 アンナがどう思ったか知ろうと思って後ろを振り向くと、アンナは頭から外したゴーグルを分解していた。黙々と作業をしている彼女の耳には、おそらく引率の先生の講習の声はまったく届いていないだろう。

「何やってんの?」

 僕の問いかけに、アンナは僕を一瞥した。しかし何も答えずに、彼女はジェミヤンに目を向け、手のひらを差し出した。

「持ってきたか?」

 アンナがジェミヤンに何かを求めた。ジェミヤンは何の事か分からずにポカンとしたが、すぐに「あ!」っと言って、足元の鞄の中をまさぐり始めた。

「はい、これ」

 ジェミヤンがアンナに渡したのは、ノートくらいの大きさの薄いケースだった。アンナはケースを開け、中から灰色がかったフィルムを取り出した。そしてそれを目の前にかざしながら、フィルム越しにあちこちを見た。

「うん、いいだろう」

 アンナは満足そうにそう言い、手元に置いていた器具のケースからハサミを取り出した。

「この前、アンナがラボにポリビニルアルコールの粉末を持ってきたんだよ。大学の化学室からこっそり持ち出したんだと思うけど」

 ジェミヤンがひそひそ声で僕に話し始めた。

「僕にそれを渡すと、さっさと飛行機作りに行っちゃったんだ。しょうがないから僕が一人で作ったんだ。ポリビニルアルコールを水と混ぜて煮沸して、ガラス板の上に伸ばして乾燥させるんだ。そうするとポリビニルアルコールの透明なフィルムができる。次にヨウ素を水に溶かして、さらにホウ酸溶液も混ぜて染色液を作り、フィルムを浸す。濡れた状態のフィルムを引っ張って固定して乾かすと完成するんだ」

「一体何に使うフィルム?」

 ジェミヤンは後ろを振り向き、アンナがハサミで切り落としたフィルムの切れ端を手に取り僕に渡した。僕はさっきアンナがしたように、目の前にフィルムをかざしてあちこちを見た。すると、光の反射がなくなって、視界がスッキリとしている事に気がついた。

「偏光フィルムだよ。偏光フィルム越しに水面を見ると、どうなると思う?」

「どうなるんだ?」

 ジェミヤンが片手で眼鏡を持ち上げながら、得意げな表情で僕に答えた。

「光の反射が消されて、水中が丸見えになるんだ。水面がキラキラ反射している川だって、魚の姿がバッチリ見える」

「なるほど。それをゴーグルのレンズにつけるのか。そういえば、俺たちの明日のカリキュラムは――」

「そう、川釣り」

 僕はハッとなってアンナに振り向いた。

「本気だ」

 僕の視線に気づいたアンナがニヤリと笑った。


 * * *


 サマーキャンプの朝は早い。六時には全員がオフェリアログハウスの前に集合し、湖畔のウォーキングに出かけた。朝が苦手なジェミヤンは眠そうにあくびをしながら歩いている。アンナも眠そうだ。どうやらアンナは遅くまで何かを工作していたようだ。

 湖畔に吹く朝の風は心地よく、夏草の匂いで満ちていた。朝露で少し湿った空気は靄になり、歩く僕たちを静かに包み込んでいた。

 ユーリの姿を見つけた。気高い騎士の息子らしく、姿勢のいい歩き方が様になっている。彼のそばで歩いているのは、いつもの取り巻きのイグナートとヴェロニカだ。

 イグナートは王都ラビナで手広く商売をしている商家ドブロホトフ家の長男で、国一番の金持ちだという噂だ。かなりの巨漢で、でっぷりと太っていて、同じ十四歳に思えないくらい貫禄がある。ギョロリとした丸い目で人を見下ろすように視線を向けるので、あいつ感じ悪い、とジェミヤンは言っている。

 ヴェロニカはこの国の司祭長の孫娘だ。司祭長はクライン国教会を取り仕切る要職だ。司祭長はレドフスカヤ家が代々受い継いでいる。ヴェロニカはレナート校で一番の美人だともっぱらの噂だ。その青い瞳と金色の髪は、僕たちと同い年とは思えない艶やかさがある。レナート校の男たちは誰もヴェロニカに逆らわない、とジェミヤンは言っている。

 かく言うジェミヤンは貧乏歴史学者の一人息子という事だが、それに間違いはない。彼の父親は教師で、歴史学者としてはとても優秀らしいが、自分のやりたい研究に没頭するあまり、教師としての仕事がいつも疎かになってしまうようだ。そのために収入はあまり多くなく、ジェミヤンが特待生として選ばれなければ、学費が高いレナート校への入学は諦めるしかなかったらしい。


 朝ごはんが済み、いよいよ最初のカリキュラムの時間になった。僕たちレナート石炭ラボの三人は、他の二グループと合わせた九人で川釣りに向かった。川釣りの副リーダーはウンタモ寮長で、リーダーはなんとコンドラート校長だ。

 川釣りの方法はフライフィッシングだが、コンドラート校長によると、フライフィッシングは紳士のスポーツらしい。

 全員、ウェーダーという胴付長靴を履いている。胴付長靴とは、胸元まであるゴム製の防水ブーツの事だ。フライフィッシングでは、川の中に入って釣りをするから、胴付長靴が必要だ。

 ライフジャケットにはたくさんのポケットが付いていて、ルアーなどのタックル一式を入れてある。そしてロッドを持って渓流に向かった。ルアーは疑似餌、タックルは釣り道具、ロッドは釣竿の事だ。目的地の渓流までは歩いて五分程度だった。そこは少し開けた場所で、釣り小屋があった。川の流れは穏やかで、夏の陽を浴びて、水面がキラキラと輝いている。

「さあ、みんな。まずはキャスティングの練習からだ」

 コンドラート校長はそう言うと、全員を一列に並ばせ、ロッドの振り方を教え始めた。

「フライフィッシングはキャスティングが重要だ」

 フライフィッシングはラインという釣り糸に重りがついていない。ルアーは羽虫をかたどった物で、とても軽い。なので、ロッドを前後に振って、ラインの重さでルアーを飛ばす。水面にポトリと落ちたルアーを、虫が水面に落ちてきたと勘違いした魚がパクリと食いつく。それを釣り上げるのだ。狙いはブラウントラウトという川魚だ。

 キャスティングの練習が終わり、いよいよ川に入った。コンドラート校長は皆に目を配りながら自身もロッドを振っている。ウンタモ寮長は釣りはしないで川下に待機し、皆の様子を見ている。

「結構難しいね」

 僕は右隣でロッドを振るジェミヤンに話しかけた。僕はフライフィッシングは初めてだ。

「すぐに慣れるよ」

 そう言って笑ったジェミヤンは意外に上手だ。毎年サマーキャンプに参加しているから、だいぶ慣れているようだ。

 左隣にいるアンナの様子を見てみた。アンナが振ったロッドは皆の物よりも少し太い。そしてラインも少し太い。そして何より、振られたラインの先に付いているはずのルアーがない。ルアーの代わりに、浮子と丸い輪っかが付いていた。ピシャンと音を立てて輪っかは川に落ちた。

「ちっ、逃げやがった」

 そう呟いたアンナは、目に当てているゴーグルに指をかけ、ダイヤルをカチカチと回した。そしてじっと身構えた。ロッドの手元には、他の皆のロッドには付いていないレバーが付いている。プカプカと浮く浮子にゴーグルの照準を合わせたアンナは、右手をそのレバーに添えた。

 ただならぬ雰囲気に皆が気づき、自分たちの釣りを忘れてアンナの動きを注視した。アンナがやっているのはどう見てもフライフィッシングではないが、そんな事はどうでもいいと思えた。

 アンナはまだ動かない。妙な緊張感と静寂が渓流を包み込んだ。

「来たっ!」

 アンナはそう言うや否や、ロッドの手元に付いているレバーを引いた。ロッドが軽くしなり、ラインが震えた。浮子が水しぶきをあげて水中に沈んだ。

 次の瞬間、大きなブラウントラウトが川から飛び上がって宙を舞った。いや、飛び上がったんじゃない。尾の付け根をすぼまった輪がしっかりとつかんでいる。アンナがロッドを振り上げ、引っ張られたブラウントラウトが後ろ向きに宙に舞い上がった。

 アンナのロッドとラインは二重構造になっていた。レバーを引く事で、チューブ状のラインの内側に仕込まれたもう一つのラインが引かれ、浮子の先についている輪っかを締め上げる。アンナは偏光フィルムを付けた双眼鏡のゴーグルでブラウントラウトの姿を凝視して、まるで手づかみで獲るようにブラウントラウトを釣り上げたんだ。

 午後三時頃まで釣りをして、僕が釣り上げたのは一匹だけだった。ジェミヤンも一匹だけだ。ちなみに、コンドラード校長は一匹も釣れていない。

「普通、こんなもんだよ」

 そう言ったジェミヤンの目は、皆が釣ったブラウントラウトを入れているクーラーボックスの中身に釘付けだった。クーラーボックスはブラウントラウトで溢れていた。そのほとんどを釣ったのはアンナだった。

「今日の夕食は豪勢だね」

 僕の言葉にアンナがニヤリと笑った。


 僕たちが帰り支度をしている時だった。ハイキングのリーダーを務めているポリーナ先生が自転車を飛ばしてやってきた。ポリーナ先生は少し年配で白髪交じりだが、登山歴が長く、健脚を誇る女性だ。ポリーナ先生が被っていた登山用のハットが風で飛ばされて、長い顎紐で彼女の首に引っかかっていた。彼女は自転車を停めると慌てた表情で辺りを見回した。

「校長先生!」

 ポリーナ先生はコンドラート校長を見つけると、急いで駆け寄った。そして、校長に何やら必死で話していた。話の内容は聞こえなかったが、コンドラート校長の眉間の皺が事態の深刻さを表していた。

 コンドラート校長はウンタモ寮長を呼び、三人で相談を始めた。やがて校長はポリーナ先生が乗ってきた自転車に乗って、ログハウスがある方向に走り去っていった。

「さあ、帰るよ。忘れ物ないね。忘れ物ないね」

 ウンタモ寮長が大きな手をパンパンと叩いて、僕たちに声をかけた。その隣ではポリーナ先生が心配そうな表情をしたまま、そわそわしている。ウンタモ寮長は皆が釣り上げたブラウントラウトを入れたクーラーボックスを軽々と担ぐと、皆の先頭に立って歩き始めた。


 オフェリアログハウスに着くと、そこは少し騒然とした雰囲気になっていた。カリキュラムを終えて帰ってきたグループの引率の先生たちが血相を変えて出たり入ったりしている。

 僕とジェミヤンとアンナはログハウスの端にある棚の前で道具の片付けを初めた。そこに、ハイキングに参加していた生徒たちが道具を置きに来た。

「ハイキングで何かあったの?」

 ジェミヤンがそのグループの生徒に聞いた。

「帰ってこないんだよ」

「え、誰が?」

「ユーリだよ」

「ユーリが?」

 僕たち三人はお互いに顔を見合わせた。

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