第7話 山あいの町フェオドラ

 学校の授業と、飛行機の訓練に明け暮れているうちに、季節は夏へと変わっていた。レナート校は七月のはじめから九月の半ばまでの二ヶ月半間、夏休みになる。

 寄宿舎の生徒たちは次々に自宅に帰りだした。終業の日から三日も経つと、残っているのは四分の一程度になっていた。いつもはガヤガヤしている食堂パンチェレイモン・ホールも静かなものだ。喋る声が妙に響く。フォークが皿に当たる音もやたらと大きく聞こえる。ひそひそ話をしたって、食堂の隅っこにいる者にまで聞こえてしまいそうだ。

 僕とジェミヤンは夕食を終えて部屋に戻ってきた。部屋にはユーリがいた。寝る時くらいしか部屋に寄り付かないユーリがこんな時間にいるなんて珍しいなと思ったけど、彼がいつも一緒にいる取り巻きたちはみんな自宅に帰ってしまったようだ。そうすると彼も行くところがないから部屋に帰ってくるのだろう。

 ユーリは窓際の椅子に座り、両足を投げ出した姿勢で本を読んでいた。紫がかった青い瞳が文字を追っている。僕たちが部屋に戻ってきた時にチラリと目を向けたが、その視線はすぐに本に戻された。彼はこの部屋にいる時、いつも本を読んでいる。

「ユーリは家に帰らないのか?」

 僕はユーリに声をかけた。初対面の時に喧嘩をしたけど、それでも毎日同じ部屋にいるから普通に話をするようになった。そもそもユーリは僕と喧嘩をしたつもりはまったくないようだ。あれは喧嘩のうちに入らないらしく、誰に対してもからかうような態度を取る。僕はそれに慣れたけど、アンナはユーリを受け入れられない。ユーリと出くわすと、アンナはいつも睨むような目つきになる。

「明日帰るつもりだ。家に帰る気にはなれないんだけど、騎士団の修練場に行きたいんだ。剣の達人のばあさんがいるんでね」

 ユーリの父親は騎士団長イサークだ。ジェミヤンから聞いて初めて知ったが、この国の魔法使いと騎士は代々犬猿の仲らしい。つまり、僕とユーリの父親同士は仲が悪いという事だ。

「お前はどうするんだ。家には帰れないんだろう?」

 ユーリは本から視線を外す事なく、僕に問いかけた。魔法使いの町に帰る事が許されない僕に同情する事もないし、励ます事もない。

 開け放たれた窓から夏の夜風が部屋に吹き込んできた。窓際にいるユーリのグレーがかった短い金髪が微かに風に揺れた。

「ああ、俺は寄宿舎に残る。飛行場で雑用しながら操縦を教えてもらおうと思ってる」

 僕はそう答え、自分のベッドに腰を下ろした。

「ふん、パイロットか」

 ユーリはそう言うと、本のページを捲った。すると、ジェミヤンが一枚の紙をユーリに向けてヒラヒラさせながら言った。

「ユーリはこれ参加する?」

 ユーリは顔を上げ、怪訝な表情を見せた。

「何だ、それ」

「サマーキャンプだよ。読んでないの? だいぶ前に配られたよ」

 ジェミヤンは自分の前に差し出されたユーリの手にその紙を渡した。

「サマーキャンプには興味ないから読んでない」

 ユーリは紙を受け取ると、眉間に皺を寄せた。

「トポロフの森だと?」

「うん。トポロフの森ってさ、東の山の向こうにある深い森だよ。今年のサマーキャンプはそこでやるん――」

「俺は行くぜ」

 ジェミヤンの言葉を遮るようにユーリが言った。

「うわ、反応いいね。だけど、去年もおととしもサマーキャンプ来なかったよね?」

「サマーキャンプには興味ないって言ったろ」

「じゃあ、トポロフの森に興味あんの?」

 ユーリがニヤリと笑った。

「騎士団で語り継がれてる伝説があるんだ。トポロフの森の何処かに神殿があって、そこに太古の騎士アドリアンが竜を退治した時の魔剣が眠っているらしい」

「へえ、そうなんだ」

「いつかその魔剣を探しに行きたいと思ってたんだけど、ちょうどいい機会だ。サマーキャンプのついでに行ってみるか」

「剣術のチャンピオンである君が魔剣を手にしたら大変な事になるかもね」

 ジェミヤンが興味津々な目でユーリに言った。

「騎士アドリアンの魔剣は使う人を選ぶそうだ。俺が魔剣に選んでもらえるかどうかはわからねえな」

 サマーキャンプの案内は、十日ほど前に食堂パンチェレイモン・ホールの前で生徒たちに配られていた。僕もユーリのようにキャンプ地に興味があった。トポロフの森、それはイラリオン飛行船のネストルじいさんの話で聞いていた。

 ネストルじいさんは二十歳の頃、トポロフの森で魔法を使えない魔法使いに出会ったと言っていた。この世のものとは思えないような美しい女性だったと言っていた。

 魔法を使えない魔法使いの子が捨てられたのは七十年前が最後だ。その頃は十歳の誕生日に捨てられていたから、自力で生き抜いていたなら、今は八十歳くらいになっているのだろう。その人は、今もトポロフの森にいるのだろうか。そこに行ったら、僕はその人に会う事ができるだろうか。サマーキャンプの案内を受け取った日から、僕はずっとその事を考えていた。


 * * *


 やがて日は過ぎ、七月最後の週になった。ユーリは七月の間、騎士団の修練場で剣術の腕を磨いていたが、一昨日学校に帰ってきた。いつもユーリと一緒にいる取り巻きたちも学校に帰ってきていた。ジェミヤンとアンナはずっと学校にいて、液化石炭の研究と飛行機造りを続けていた。今日から五日間のサマーキャンプが始まる。帰省していた者も含め、中等部の生徒のうち四十五人が参加するようだ。

 朝、寄宿舎の前に大きな蒸気バスが二台停まっていた。エンジンが掛かり、先頭の右側から突き出ている煙突から煤けた煙が上がっていた。幌馬車を巨大にしたような風貌で、馬の代わりに蒸気機関が付いている代物だ。見ようによっては、巨大な頭をした亀のようだ。

 燃料は石炭で、大量の水も積んでいる。外燃機関から発生する力を車輪の回転に直接使う構造だ。たくさんの人間を乗せても驚異的なパワーで道を走る事ができる。運転席と客席は分かれている。車体は赤く塗られていて、横には王立クライン大学レナート校の文字が描かれている。窓枠はくすんだ金色をした真鍮製た。

「バスが出るよ、バスが出るよ」

 普段、タキシードとシルクハットに身を包んでいるウンタモ寮長の今日の服は違っていた。硬めのフェルトでできた中折れ帽を被っている。茶色い艶を放つ使い古された帽子だ。この帽子は、シックな中にもサバイバルの雰囲気を醸し出すのにちょうどいい。そしてベージュのサファリシャツと茶色いズボンを履いている。足元は登山靴だ。帆布製のバッグを肩からたすき掛けにしている。

 こんなオランウータンを僕は見た事がない。ウンタモ寮長の様子を見ていた僕の横にアンナが近寄ってきて言った。

「何だあれは。冒険家か?」

 しかし、そういうアンナも負けてはいない。そもそも制服を脱いだアンナは上品さの欠片もない。休日のアンナは炭鉱の町ニーナで初めて会った時のような出で立ちになる。

 今日も赤茶けた金属製のゴーグルを頭に乗せている。ニーナで知ったように、これはただのゴーグルではなく双眼鏡だ。焦げ茶色の長い髪は、根本から細かく後頭部に向けて頭皮に密着するように編み込まれ、日に焼けた彼女の顔を精悍なものにしている。髪の先にはカラフルなビーズが付いている。モスグリーンのタンクトップを着て、黒っぽいキュロットパンツを履いている。そして頑丈そうなグレーのブーツを履いている。腰に下げた布製の小さな鞄には、今日もまた何か癖のある道具が入っているのだろう。躍動感に満ちた姿のアンナは腕組みをして、ニヤリとした笑みを浮かべた。

「ただのオランウータンじゃないな」

 アンナはいつかのジェミヤンと同じ事を言った。

 僕たちが蒸気バスに乗り込んだ後、バスのボイラーの下から白い水蒸気がプシューッと吹き上がった。車体がガクンと揺れ、バスは動き始めた。


 僕たちを乗せたバスは快調に走り続けた。港町レナートの東の山を迂回して、山あいの町フェオドラに着いたのは昼になる頃だった。ここを過ぎると、いよいよトポロフの森に向かう。

 蒸気バスのメンテナンスと休憩のためにフェオドラに一時間ほど滞在する、と、ウンタモ寮長が皆に告げた。そして生徒たちに念を押した。

「迷子になるといけないから、広場の外に出ちゃだめだよ。出ちゃだめだよ」

 二台の蒸気バスは、山あいの町フェオドラの広場の隅に停められた。運転席から運転手が降りてきて、車両前部にある蒸気機関のカバーを開け、点検を始めた。広場には多くの屋台が出ていて、生徒たちは思い思いに食事に出かけた。

 フェオドラは、石畳の道に古い石造りの建物が立ち並ぶ美しい町だ。青い空と白い石壁が見せる鮮やかな対比が、僕のコバルトブルーの瞳に映り込む。

 僕はジェミヤンとアンナと共に、いろいろな屋台を覗きながら歩いた。どの屋台からもおいしそうな匂いが漂ってくる。僕のお腹がグウッと鳴った。早く決めろと僕を急かしているようだった。

「トゥルデルニークだ!」

 ジェミヤンが指差した方に一台の屋台があった。その屋台には生徒たちが何人も集まってきていた。僕たちも駆け寄り、生徒たちの隙間から屋台を覗き込んだ。

 店頭では、白い生地を巻きつけた金属の棒が炭火の上で焼かれ、狐色に焼き上げられていた。甘く香ばしい匂いが僕の鼻をくすぐった。金属の棒から外されたトゥルデルニークは、真ん中がポッカリと空いた円柱の形をしている。手のひらいっぱいの大きさに輪切りにした物を、生徒たちが次々に買っていく。

 やがて僕たちの順番がやってきた。こんがりと焼かれたトゥルデルニークは、粉砂糖の上で転がされ、シナモンやナッツをまぶされた。僕はマーマレード、ジェミヤンはチョコレート、アンナはホイップのトッピングを選んだ。

 僕はトゥルデルニークにがぶりとかぶりついた。前歯にサクッとした軽い食感が伝わった後、とろりとした柔らかい生地が舌の上に乗ってきた。生地が焦げた香ばしさと、しっとりとした甘みと、マーマレードの爽やかな酸味が口の中で混じり合い、僕は得も言われぬ幸福感を感じた。

 ジェミヤンとアンナを見ると、僕と同じように恍惚とした表情をしている。周りを見渡すと、どの生徒も同じ状態である事がすぐにわかった。おいしい食べ物はすべての人に幸せをもたらすのだ。

 出発までの残された時間、僕たちはフェオドラを見て回る事にした。広場から続く石畳の道には何軒もの店が並んでいた。ウンタモ寮長が広場の外に出ちゃだめだよと言っていたが、多少ならいいだろうと僕は高をくくっていた。

 店ごとのショーウィンドウには様々な物が並べられている。流れるような青い紋様が描かれた白い陶磁器を並べた店や、艶やかで妖しげな目つきをした人形たちを並べた店、そして、キラキラとした輝きを放つ細かな意匠を凝らしたガラス細工を並べた店があった。

 僕の目が釘付けになったのは、その先にある工芸品の店のショーウィンドウだった。

「あれ?」

 僕は思わず口に出した。ショーウインドウの中に、猫ほどの大きさの羊の置物があった。見た目は羊だ。とは言え果たして羊だろうか。黒い顔と黒い足、黒い尻尾をしている。体を覆う羊毛は色とりどりの小さな花でできている。そしてその背中には、小さな翼が付いていた。

「どうした?」

 羊の置物をじっと見ている僕にアンナが聞いてきた。

「うん、この羊の目が動いたような気がしたんだ」

「え? どれどれ」

 僕たちは三人で羊の顔を覗き込んだ。ショーウインドウのガラスにへばりつくようにして見つめたが、羊の目はピクリとも動かなかった。

「うーん、勘違いかなあ」

 そう呟いた時、僕はある事に気がついた。見つめていた羊がいつの間にか、ガラス越しのジェミヤンの顔のすぐそばに近寄っていた事に。

「うわわ!」

 僕たち三人は思わず腰を抜かし、ショーウインドウの前で尻餅をついた。すると、ショーウインドウのガラスに羊の黒い顔がペタリと張り付いた。

 その顔はぐにゅーっと潰れた後、スポンと抜けるようにガラスの外に飛び出した。そして黒い前足、小さな花々でできた体が、ガラスをつるつると抜け出してきた。やがて羊の全身がガラスから出てきたが、羊は地面に落ちる事もなく、背中に生えた小さな翼をパタパタと羽ばたかせながら宙に浮いていた。

「な、何だコイツ!」

 ジェミヤンがずり落ちた眼鏡を掛け直しながら言った。

「コイツとは何だ」

 腰を抜かしている僕たちを上から見下ろしながら、空飛ぶ羊がジェミヤンに言い返した。

「しゃ、喋った!」

 うろたえたジェミヤンは這ってアンナの後ろに隠れた。

「ちょっと! 私に隠れんなよ!」

 アンナが口をへの字に曲げ、ジェミヤンを押しのけようとするが、腰が抜けてるから力が入らない。

 空飛ぶ羊はパタパタと羽ばたきながら、僕たちの事を舐めるように見ていた。いや、僕たちの事を見ていたんじゃない。羊はジェミヤンを見ていた。黒い顔にはめ込まれた白い目に、青い三日月の瞳がくっきりと浮かんでいた。

「はて、お前は――。お前はもしや」

 羊はジェミヤンに向かってそう言った直後、くるりと向きを変えて僕を見た。

「匂う、匂うぞ。お前、魔法使いだな」

 そう言った瞬間、羊はびゅんと僕の顔のすぐ前に移動した。羊の黒い顔に不気味な笑みが浮かんでいた。その口が少しずつ開いていった。

 口の中は血が溢れているかのように真っ赤だった。その口から目が離せないままでいたら、いつの間にか羊の顔は牛の顔くらいの大きさに膨れ上がっていた。そして真っ赤な口がパックリと割れて、僕の頭にかぶりつこうとした。

「ルカ!」

 アンナが僕の名を呼び、腕をつかんで強引に引っ張った。羊に見入ってしまっていた僕は我に返った。すぐさま立ち上がろうとしたけど、腰に力が入らなくて立ち上がれない。それはアンナとジェミヤンも同じだった。僕たちは四つん這いで身を翻し、何とか立ち上がった。

「逃げよう!」

 アンナの言葉に僕とジェミヤンは頷いた。僕たちは一斉に石畳の道を走り出した。

「追いかけてくるよ!」

 ジェミヤンが叫んだ。後ろを振り返った僕の目に、小さな翼を羽ばたかせながら猛スピードで飛ぶ羊が映った。羊の黒い顔はさっきよりも大きくなっているように見える。真っ赤な口から涎が滴り落ちている。うまく方向転換ができないのか、立ち並ぶ店のショーウィンドウにぶつかって、ガラスが粉々に砕け散っている。ガラスが割れる音と共に、羊は僕たちに向かって突進してきた。

「まくぞ!」

 僕はそう言って、細い道に入った。僕たちは何本もの路地の角を曲がりながら、走り続けた。

「ま、待ってよ!」

 足が一番遅いジェミヤンが、息も絶え絶えに訴えた。僕もアンナも息を切らしていた。後ろを振り返ると、羊の姿はどこにもなかった。どうやら僕たちは、あの妙な羊から逃げ切る事ができたようだ。僕たちは三人で顔を見合わせ、大きく息をついた。

「何だったんだ、あれ」

 僕の言葉にジェミヤンが答えた。

「ルカが魔法使いの一族だって気づいた途端に襲ってきてたよね。魔法使いに恨みがあんのかな。でもあの羊、俺の事を知ってるみたいだった」

 息が切れている僕たちは、考えながら少しの間沈黙した。するとアンナが口を開いた。

「それよりさ、ここ、どこ?」

「え?」

 僕は慌てて辺りを見渡した。初めて来たこの町でめちゃくちゃに走り回ったから、僕たちは自分たちの居場所がまったくわからなくなっていた。顔面蒼白のジェミヤンが言った。

「まずいよ。バスに戻らなきゃ」

 僕たちは、なんとなくこっちの方だろうかという方向に向かって歩き始めた。それが正しい方向なのかは誰もわからなかった。広場の外に出る時に、せめて東西南北のどちらに進んでいるか考えておけばよかったけど、今となってはそれもわからないから、空で僕たちを見下ろしている太陽が広場の方向を教えてくれる事もなかった。

 それにも増して、僕たちに不安を与えたのは、町に人の姿がない事だ。誰か人がいれば広場の方向を聞けばいい。なのに誰もいないんだ。店の中に入ってみても誰もいない。町はゴーストタウンのように、人っ子一人いなかった。僕たちは言い知れぬ怖さに震えが止まらなくなっていた。アンナもジェミヤンも引きつった表情で歩いていた。

 途方に暮れながら、僕たちは花屋の前に差し掛かった。僕は花屋の中に誰かいないかと思って入ってみたが、やはり誰もいなかった。

 諦めて店の外に出た僕は、店の軒先に吊られている花のオブジェを見つけた。それは吊られているというよりも、浮いているように見えた。色とりどりの小さな花々で飾ったボールのようなオブジェだった。店の外でアンナとジェミヤンがそれを見つめていた。店から出てきた僕にジェミヤンが言った。

「それ――」

 すると花のオブジェがゆっくりと回り始めた。案の定、振り向いた花のオブジェに黒い頭がついていた。白い眼球にへばりついた青い三日月の瞳がピクピク痙攣している。羊は言った。

「お前、魔法使いだな。トポロフの魔女の仲間か?」

「ト、トポロフの魔女って?」

 羊が僕の質問に答える事はなかった。真っ赤な口をぱっくりと開け、僕に向かって飛びかかってきた。僕たちは慌てて逃げ出した。

 全速力で走り、路地を曲がっては、さらに路地を曲がり、必死に逃げた。しかし、最後に僕たちが曲がった路地は行き止まりだった。僕たちは慌てて後ろを振り返った。羊は僕たちが最後に曲がった路地に気づかなかったようで、路地の入口をびゅんと通り過ぎた。僕たちは大きく息をついて安堵した。

 しかし、それは束の間の事だった。路地の入口を通り過ぎたはずの羊が、そのまま後ろ向きに戻ってきて、路地の入口で僕たちの方を向いた。大きく開けられた羊の真っ赤な口から涎が滴り落ちた。

「見つかった!」

 ジェミヤンが叫んだ。でも僕たちの背後は行き止まりの壁で、もう逃げ場がなかった。羊は猛スピードで僕たちに向かって突っ込んできた。僕たちは手に手を取り合ったが、もはや運命を受け入れるしかなかった。

 その時、ふわっとした風が僕たちに吹いた。僕たちが背にしている壁を飛び越えて、男が僕たちの前に降り立った。男は仕立ての良さそうな帽子を右手で押さえていた。

 次の瞬間、鼓膜が潰されるほどの激しい音が路地に鳴り響いた。その衝撃で空気がビリビリと振動した。僕たちの前に立ちはだかった男が、突進してきた羊の顔を大きな手のひらで受け止めていた。手のひらからもうもうとした煙が湧き上がっている。男の腕がメキメキと音を立て、筋肉が盛り上がった。男はその大きな手に力を込め、羊の顔をぐしゃんと握り潰した。顔を潰された羊の体の小さな花々が、パラパラと路地に落ちていった。羊は煙のように消えてしまった。男はパンパンと手をはたき、サファリシャツの襟を軽く整えると、中折れ帽をきちんと被り直した。

「あ、ありがとうございました」

 僕はお礼を言った。すると彼は振り向いて言った。

「広場から出ちゃだめだって言ったよね? 迷子になってたよね? なってたよね?」

 僕たちは三人とも、ウンタモ寮長の大きな握り拳でコツンと頭を叩かれた。


 ウンタモ寮長の後について歩きながら、僕は羊の事を思い出していた。羊は僕に問いかけていた。トポロフの魔女の仲間かって。だけど、トポロフの魔女って誰だ? それは、七十年前にトポロフの森に捨てられた魔法使いの子に関係があるのだろうか。僕の頭の中で果てしない疑問がぐるぐると渦巻いていた。

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