第6話 ルジェナ飛行場

 僕はあれから毎日、イラリオン飛行船商会に通った。今日で一週間になる。

 レナート校の終業のチャイムが鳴るのは午後二時だ。その後は皆、自分がやりたい活動をする。

 研究に没頭するジェミヤンのように学問を追究する者、設計や工作に精を出すアンナのように創作に打ち込む者、剣術のクラブで鍛錬を続けるユーリのようにスポーツに夢中になる者、皆それぞれだ。

 僕は何をしたらいいかわからなかったけど、やってみたい事ができた。それは、イラリオン飛行船商会の隣のルジェナ飛行場にあった。

 チャイムが鳴った。先生がまだ黒板の前で喋っているが、僕はそそくさと教科書を閉じ、滑るように教室を抜け出した。校舎の階段を駆け下り、校庭を走り、寄宿舎を通り過ぎ、レナート石炭ラボに駆け込んで、テーブルの上に教科書の束をドサッと置いた。その時、扉がガタンと乱暴に開けられた。それは息を切らしたアンナだった。彼女は自分の教科書の束を僕に向かって投げた。僕はそれをキャッチして、テーブルの上に置いた。そしてラボの前に停めてある自転車に股がった。アンナはすでに自転車を漕ぎ出していた。

 僕とアンナは二台の自転車を並走させながら、レナート校の正門を目指した。正門までの道は欅並木になっている。暖かくなってきた太陽の光が木漏れ日になって僕たちの行く道を彩っている。

 風が吹き、欅の無数の若葉がざわめく。心地良い大気に木々の匂いが溢れている。アンナの髪が風になびく。アンナの制服のジャケットが風をまとい、スカートがはためく。日に焼けたアンナの肌が光を浴びて輝いている。アンナが僕を見た。僕と目が合ったアンナはニコリと笑った。

 欅並木の途中でジェミヤンを見つけた。ジェミヤンは主に化学系の授業を受けているから、僕たちとは違う校舎にいる事が多い。ジェミヤンが僕たちを見つけて手を振った。僕たちも手を振って応えた。ジェミヤンのクルクルした髪が風に吹かれている。ジェミヤンは今日もラボに籠るのだろう。アンナの願いに応えて、液化石炭から高精製のガソリンを量産するためのテストを繰り返している。

 イラリオン飛行船商会に着き、アンナが自転車を停めた。停めずにルジェナ飛行場に向かおうとした僕をアンナが呼び止めた。

「ルカ、サマーキャンプ行く?」

 今朝、食堂パンチェレイモン・ホールの前で生徒たちにサマーキャンプの案内が配られていた。魔法使いの町アクサナの学校でも、夏休みにはサマーキャンプがあった。

「うん、行くよ」

 サマーキャンプに行くのは楽しみだが、この夏のレナート校のキャンプ地に僕は興味があった。

「私も」

 アンナは笑顔でそう言った。

 僕とアンナは、そこから別行動をする。アンナはネストルじいさんと共にガレージに行って、飛行機の製造に励んでいる。エンジンを仕上げ、飛行機の骨格を組み始めていた事をネストルじいさんはアンナに秘密にしていたが、知ってしまった以上、アンナはここに入り浸りだ。僕はと言うと、イラリオン飛行船商会の隣にあるルジェナ飛行場に通っている。

 格納庫には、四機の黒い機体の複葉機と、一機の赤い機体の複葉機が停められていた。いずれの機体にも王国騎士団のマークがある。白い円の中に翼を広げたワシミミズクが描かれている。ワシミミズクはクライン王国のシンボルだ。

「練習機のマニュアルは頭に入ったか?」

 複葉機の後ろから出てきたでっぷりと太った中年のおじさんが僕に声をかけた。彼は、ネストルじいさんの甥っ子のミロンおじさんだ。ネストルじいさんと違って、このおじさんは丸々としている。今も手にシュークリームを持って、それを食べながら僕に話しかけている。ミロンおじさんはベテランの整備士だ。

「はい、もちろん」

 僕は肩掛けカバンからヨレた本を取り出して、ミロンおじさんに見せた。

「今日はお前にすごい人を紹介してやろう。この飛行機部隊の隊長だ。飛行機の操縦を覚えようとしているレナート校の生徒がいると話したら、一度会ってみたいと言っておる」

「え? ブラックイーグルの?」

「もうすぐここに来るはずだ」

 ミロンおじさんはそう言うやいなや、大きく開放された格納庫の入口に目を向けた。

「噂をすれば影だ」

 ミロンおじさんの視線の先に、右肩に大きな鳥を乗せた体格のいい男が歩いて来るのが見えた。男の黒いブーツが鳴らすカツカツという音が格納庫に響いている。

 精悍な顔つきのその男は、王国騎士団の濃紺の制服に身を包んでいた。肩に乗せている大きな鳥は、この国で最も気性の荒い猛禽類と言われているワシミミズクだ。

 ワシミミズクの体はブラウンの濃淡のグラデーションになっていて、オレンジ色に光る鋭い目で僕を見据えている。目の上の羽毛が立ち上がっていて、角のようにも見える。鷲の強さとフクロウの賢さを兼ね備えた風貌の鳥だ。

 この騎士の年は三十代くらいだろうか。若々しさを残した肌と、刺すようなギラリとした目をしている。彼は僕の目の前に来ると、低い声で僕に語りかけた。――しかも口を全く動かさずに。

「パイロットになりたいというのはお前か」

 いかつい騎士の声が僕の頭を押さえつけるように響いた。その声はまるでテレパシーのようだった。騎士は声を発する事なく、僕の心に直接呼びかけてきたのか。

「はい、そうです」

 僕は騎士の目を見て答えた。騎士は僕をじっと見つめていた。

「お前――、どこかで見たような顔だな」

 目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものだ。騎士は鋭い目で睨みつけるだけで、口を真一文字に結んだまま、僕にそう語りかけてきた。

「名は何という」

「ルカです。ルカ・ガヴリーロヴィチ・ゼレノヴァ」

「ゼレノヴァだと? 魔法使いのゼレノヴァ家の者か? しかも、ガヴリーロヴィチという事はガヴリイル様の息子か?」

「はい。会った事ありましたっけ?」

「うむ。空の上で会った事がある。完成したばかりの最新鋭の複葉機ジャンナ号の試験飛行をしている時に、まな板に乗ったガヴリイル様が通りがかり、ジャンナ号の横を通り過ぎていった。その時、彼がニヤリと笑ったものだから、私たちは追いかけて抜き返した。すると彼は再びジャンナ号を抜き返した。そしてそのまま光のようなスピードで行ってしまった。その時、まな板の上で爆睡していた子供がいた。それがお前だ」

 僕は全く覚えがないが、父さんは真面目な堅物のくせに、空を飛んでいる時は人格が変わる。スピードは出すし、アクロバット飛行もする。この騎士もそんな父さんにからかわれたんだろう。騎士はテレパシーで話し続けた。

「あんなスピードで飛ぶむき出しのまな板の上で寝るとは、ふてぶてしい神経の持ち主のようだな。パイロットに向いているかもしれん。私は、空母リーディア号の飛行機部隊ブラックイーグルの隊長、エドアルト・スヴャトスラーヴォヴィチ・コゼラツキーだ。そしてこれが弟の――」

「ヴァジム・スヴャトスラーヴォヴィチ・コゼラツキー。ブラックイーグルの副長だ」

 騎士はその時だけ口を動かして喋った。「あれ?」と思って怪訝な表情を見せた僕に、再び低い声が上から聞こえた。

「馬鹿者、いい加減に気づけ。私はこっちだ」

 僕はようやく気がついた。今まで喋っていたのはこの大きな体の騎士ではなく、その右肩に乗っている大きなワシミミズクだった。

「ええっ!?」

「いちいち驚くな、面倒臭い。やんごとなき事情によりワシミミズクの姿をしているが、元は人間だ」

 ワシミミズク、いや、エドアルト隊長はそう言うと、翼を大きく広げた。広げた翼は騎士の身長ほどもあった。その翼を振り下ろすと、エドアルト隊長は軽々と飛び上がった。そのまま滑空して複葉機の翼の上に止まった。

「液化石炭からのガソリン精製は、従来の方法では量産が難しかった。しかし、ジェミヤン超臨界流体理論が応用される事で、量産が可能になった。レナート校では高精製のガソリンの量産化研究にも取り組んでいると聞く。それが実現すれば、まな板で空を飛ぶガヴリイル様を我々飛行機部隊が追い抜く事ができるようになるかもしれぬ」

 王国騎士団屈指の飛行機部隊の隊長が、まな板で空を飛ぶ父さんをライバル視している事に、僕は思わずクスッと笑ってしまった。

「おい、小僧。私の言葉を聞いて笑ったな。猛禽類の視力を侮るな」

「い、いえ。あ、そうですね。すみません」

「まあ、いいだろう。しかし、魔法使いであるゼレノヴァ家の者なら自由に空を飛べるはずだ。何も飛行機のパイロットになる必要はなかろう」

「俺は生まれつき魔法を使えないんです。空を飛べないんです」

 僕の言葉を聞いてエドアルト隊長の目が一瞬見開いたが、すぐに元の鋭い目に戻った。

「そうだったか。配慮の足りぬ事を言ったようだ。詫びよう」

「いえ、いいんです。魔法は使えないけど、俺は空を飛びたいんです」

 エドアルト隊長のオレンジの目がキラリと光った。

「よかろう。私が操縦を教えよう」


 僕はエドアルト隊長に連れられて、二棟先の格納庫の中に入った。そこには青い機体の複葉機があった。しかしその機体は妙に大きかった。全体的に古ぼけていて、至る所が黒ずんでいる。それでも綺麗に磨かれていて、開け放たれた格納庫の入口から差し込む日差しに、深い青が静かに光っている。この複葉機にも王国騎士団のマークが描かれている。鼻先には大きなプロペラが付いている。エドアルト隊長は、弟のヴァジム副長の肩からバサッという羽音を立てて飛び立つと、青い複葉機の翼に止まった。

「こいつはラドミラ号という蒸気エンジンの飛行機だ。最新の飛行機は液化石炭から精製したガソリンを燃料にしているが、これは石炭を燃やして発生させた水蒸気を利用している。水を大量に積むために機体が重いが、V型二気筒の蒸気レシプロエンジンは化物のようなパワーを生み出す事ができる。だが、今は現役を引退し、練習用の機体として後部座席でも操縦ができるように改造されている」

 威風堂々としたラドミラ号の機体に見とれていた僕に向かって、エドアルト隊長は言葉を続けた。

「ラドミラ号で飛行機の操縦を教える。まずはエンジン始動前の点検からだ」

 エドアルト隊長の言葉を受けて、ヴァジム副長が僕を手招きし、機体の外回りの点検を始めた。一通り終わると、彼は壁際に置いてある脚立を指差した。僕は脚立を取り、ラドミラ号の横に立つヴァジム副長の隣に行った。ラドミラ号の鼻先にある蒸気エンジンは、ヴァジム副長の顔の高さにあるが、僕には高過ぎる。だから僕に脚立を持ってこさせたのだ。ヴァジム副長がエンジンカバーを開けた。僕は脚立に登り、彼の隣でエンジンルームを覗き込んだ。

 ヴァジム副長は手際よくエンジンルームの点検を始めた。ガソリンを使った星型レシプロエンジンはその真ん中にプロペラが付いているが、ラドミラ号のV型レシプロエンジンはVの字の要の部分にプロペラが付いている。エンジンの後ろには大きなボイラーが搭載されている。使用済みの水蒸気はエンジンルームの下から排出される。

 ヴァジム副長はエンジンカバーを閉め、今度はコックピットに向かった。僕も彼に続いた。彼はコックピットに乗り込み、計器のチェックを始めた。僕は脚立の上からコックピットの中を覗き込みながら、彼の一つ一つの動きを目で追った。

「始動前の点検は以上だ」

 ヴァジム副長は僕にそう言うと、翼の上のエドアルト隊長に向かって親指を立ててみせた。エドアルト隊長は頷いた。

 ヴァジム副長は壁際の棚に行き、飛行帽とゴーグル、そして綿がぎっしり入った厚手の飛行服を取ると、一組を僕に渡した。僕は副長に倣い、飛行服を着て、飛行帽を被ってその上にゴーグルをはめた。飛行帽は革製で、裏側には羊毛が余すところなく付けられている。飛行帽がないと頭が凍えてしまう。

 父さんのまな板で空を飛ぶ時もそうだけど、上空は夏であろうとも寒い。ましてや高速で飛行したら極寒だ。副長は前のコックピットに乗り込んだ。

「後ろに乗れ」

 その言葉に僕は慌てて後部座席によじ登った。

 そこにミロンおじさんがやってきた。彼はラドミラ号のプロペラを手で軽く回した。エンジンルームの下のカウルを開けると、ヴァジム副長と視線を合わせた。

「エナーシャ回せ!」

 ヴァジム副長の声に、ミロンおじさんは手に持っていたクランクをエンジンに差し込み、ぐるぐると回し始めた。クランクを抜いて少し様子を見た後、おじさんは大きな声で副長に告げた。

「コンタクト!」

 ミロンおじさんの号令を受けて、ヴァジム副長はエナーシャとプロペラの軸を直結した。そしてエンジンを始動した。ドッ、ドッ、ドッと大きな音を立てて、蒸気機関が動き出し、その力がプロペラを回し始めた。

「今から十分ほど暖気運転をする。ラドミラ号は後部座席にも同じ計器が付いているから、それをすべてチェックしておけ」

 僕はヴァジム副長の言葉に従って、計器のチェックを始めた。

「私がこの機を操縦する。お前は自分の席の操縦桿を握って操縦を体で覚えろ」

 僕はその言葉に身震いした。やがて、暖気運転を終えたラドミラ号が前に進み始めた。

 僕は何度も読んで頭に叩き込んだマニュアルの手順を思い起こしながら、自分が操縦しているつもりで一つ一つの行動を取った。ラダーペダルを踏んで垂直尾翼を動かして、ラドミラ号の進行方向を調整した。僕が操縦しているわけではないが、ラドミラ号は僕の操縦にシンクロするように格納庫を出た。

 格納庫の外は眩しい光に溢れていた。ルジェナ飛行場を囲う草原は春の風を受けて波打ち、石炭の油っぽい匂いと水蒸気の湿った匂いに紛れて、草の匂いが吹き抜けていく。明るい日差しが開放型のコックピットにいる僕を照らしている。ゴーグルのレンズ越しに滑走路が光って見えた。

 滑走路脇には三隻の蒸気飛行船が止まっていた。飛行船ドックで整備を受けている空母リーディア号に比べるとずいぶん小さく見える。それらはいずれも硬い船体を持った民間の貨物用の蒸気飛行船だった。格納庫前には数機の小型飛行機が止まっていた。ラドミラ号は小型飛行機の横を通り過ぎ、滑走路に出た。

 ワシミミズクのエドアルト隊長は、ラドミラ号の上の翼の真ん中に止まっている。滑走路にはミロンおじさんが立っていた。彼は青い旗を持っていて、僕たちに向かってそれを大きく振っていた。

 前のコックピットにいるヴァジム副長が彼に向かって敬礼をした。僕も真似をして敬礼をした。ラドミラ号の蒸気エンジンの出力が上がり始め、水蒸気がプシューッという音と共に、エンジンルームの下から激しく吹き出し始めた。僕を乗せたラドミラ号はスピードを上げて、滑走路を走り出した。

 僕の席から、上の翼に止まっているエドアルト隊長の後ろ姿が見える。走り始めたラドミラ号にしっかりと爪を立ててつかまっている。翼にへばりつくように姿勢を低くしている。ラドミラ号はますますスピードを上げていった。

 強い力で背もたれに押し付けられた後、今度は上から押さえつけるような力が僕の体にかかった。その直後、体がすうっと軽くなった。ラドミラ号が滑走路から離れ出した。そして、あっという間に空に浮かび上がっていった。

 父さんと一緒にまな板で飛ぶ時も、飛行船で飛ぶ時も助走はいらないから、滑走路を走って飛ぶのは初めての事だった。ラドミラ号はみるみるうちに高度を上げていった。

 エドアルト隊長はまるで機体の一部になったかのように、ラドミラ号の翼の上でじっとしていたが、少しずつ翼を広げ始めた。次の瞬間、薄皮が剥がれるように、エドアルト隊長の体がラドミラ号から離れた。エドアルト隊長は風に乗り、上空に舞い上がった。滑らかな糸を引くように滑空していく。真っ青な空にエドアルト隊長の姿が溶け込んでいく。

 気がつくと、港町レナートは遥か下に遠ざかっていた。紺碧の海が光り輝いている。草原が波打ち、山々が地平線にそびえている。いつしかラドミラ号の蒸気エンジンの音が小さくなっていた。安定飛行に入ったラドミラ号の横に、エドアルト隊長が音もなく近寄ってきた。

「飛行機に乗れ。お前はいずれ、誰よりも速く、この空を飛ぶようになるだろう」

 エドアルト隊長のオレンジ色の目が僕を見つめ、そう語りかけてきた。

 そうだ。僕は小さな頃からずっと空を目指していた。できないからこそ、誰よりも願ってきたんだ。魔法を使えない魔法使いだからって諦める事はないんだ。僕はこの空の上で、自分の思いに気がついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る