第5話 イラリオン飛行船商会

 次の日の放課後、僕はアンナとジェミヤンの三人でイラリオン飛行船商会にやってきた。アンナは僕をテストパイロットにしようと目論んでいるが、僕はそれを受け入れたわけじゃない。ただ今日は、イラリオン飛行船商会のネストルじいさんに会いに行ってみようという事で、アンナたちについてきた。

 僕はここに来る前、ジェミヤンのアドバイスでウンタモ寮長に自転車を貨してほしいと頼みに言った。すると寮長は「うん、うん。あるよ、あるよ」と答え、僕を寄宿舎の横にある倉庫に連れて行った。そこにはたくさんの自転車の部品が積まれていて、何台ものピカピカの自転車が並べられていた。そこはまるで自転車のショールームのようだった。

 ウンタモ寮長は「自転車が必要な生徒たち皆の自転車を中古部品で組み立ててるよ。どれがいい? どれがいい?」と言いながら、一台の自転車を僕の前に引いてきた。「これが君にお勧め」と言うので、僕は遠慮なく使わせてもらう事にした。アンナもジェミヤンも、ウンタモ寮長が組み立てた自転車に乗っている。

  イラリオン飛行船商会に向かう道すがら、ジェミヤンは「ウンタモ寮長はただのオランウータンじゃない。きっととんでもない才能を隠しているに違いない」と言っていた。

 イラリオン飛行船商会は、港町レナートの外れにあった。僕たちは自転車を漕ぎ続けて小高い丘を目指した。辺り一面に広がる草原を、春の暖かい風が吹き抜けていく。深呼吸すると、草の匂いが胸一杯に広がった。

 制服のスカートが風になびくのもお構いなしに先頭で自転車を飛ばしていたアンナが、振り向いて僕たちに言った。

「見えてきたよ。飛行船のドックだ!」

 アンナが指差す方向に、白い壁の巨大な建物が見えた。


 やがてその前に着いた僕はただ唖然とするばかりだった。イラリオン飛行船商会の飛行船ドックは目が眩むほど大きかった。そのドックの扉は閉じられていた。ジェミヤンが興奮気味にアンナに言った。

「今このドックの中には何が入ってるのかな? 見せてもらおうよ」

 アンナはドックの横にある建物の前に自転車を停め、ジェミヤンを見てニコリと笑って右手の親指を立てた。

 その入口は大きく開放されていて、蒸気が吹き上がるプシューッという音が鳴り響いていた。中を覗くと、何基もの蒸気機関を作業員たちが組み立てたり整備したりしていた。

「おーい、じいさん! ネストルじいさんいるー? おーい、じじい、どこだー?」

 蒸気機関の騒々しい音に負けないように、アンナは大きな声で呼びかけた。すると、作業用の寝板に寝転がった老人が、すぐ目の前の蒸気自動車の下からゴロゴロと出てきた。

「お前さんはうるさいのう。スチームよりもけたたましいわい」

「飛行船見せて!」

 ネストルじいさんは「よっこらせ」と言いながら、寝板から立ち上がった。彼のダークグレーのツナギは石炭とオイルで真っ黒に汚れている。左胸の「イラリオン飛行船商会」という金色の刺繍が誇らし気だ。彼は汚れた軍手を外し、真っ白な髪を撫でつけた。手の皺には黒い油が深く染み込んでいる。顎には髪と同じだけ真っ白な髭を蓄えている。背が高く、しっかりした体格をしている。ジェミヤンが昨日言っていたようなヨボヨボのじいさんではないが、腰に手を当ててゆっくりと伸ばす姿は、年相応の老人かなと思えた。

「おや、初めて見る顔じゃのう」

 ネストルじいさんは僕を見てそう言った。

「初めまして、ルカです」

「フォッ?」

 僕が挨拶すると、彼は驚いたように変な声を上げた。

「アンナの友達なのに、ちゃんとした挨拶ができるのかい」

 彼は妙なところに感心していた。その言葉にジェミヤンがいち早く反応した。

「そうだよ! ルカは、魔法の番人ガヴリイルの息子なんだ。この国で王様の次に由緒正しい家柄なんだ!」

 僕が魔法使いの一族である事を知ったせいで盛り上がってしまったジェミヤンが、余計な事を言った。僕は肘でジェミヤンを小突いた。

「なんと。王の魔法使いの息子かね。という事は、お前さんは魔法を?」

「そうなんだけど、ルカは魔法を使えないんだ!」

 ジェミヤンがそう言うやいなや、アンナが彼のお尻を蹴飛ばした。見事な蹴りだった。この少女をむやみに刺激するのは危ないと思った。

「いてえ!」

 僕の代わりに僕の事をペラペラ喋るジェミヤンに、アンナは苛ついたようだ。お尻を抑えて辺りを飛び回るジェミヤンを、アンナは睨みつけた。

「このお喋り!」

「何だよー。ルカ、まずかった?」

 助けを求める視線を送ってきたジェミヤンに僕は言った。

「いや、構わないよ。隠してるわけじゃないし、本当の事だ」

 そんな僕にネストルじいさんは笑顔を見せた。

「そうか、そうか。それならわしも同じじゃ。わしも魔法は使えないんじゃ。たまにしかな」

「当たり前だろ。じいさんが魔法使えるわけない――たまにしか?」

 ジェミヤンはネストルじいさんの言葉に引っかかるものを感じたようだ。でも確かに、ネストルじいさんはたまにしかって言った。

 ジェミヤンはお尻を抑えながら、ずり落ちた眼鏡を左手で掛け直し、じいさんに問い掛けた。

「たまにしか使えないって事は、たまに使える?」

「そうじゃ。魔法は誰でもたまに使えるものじゃ」

 ネストルじいさんはそう言うと、意味深長な笑みを浮かべた。

「そしたら飛行船を見せてやろうかの」

「やった!」

 ジェミヤンは両手を握りしめて喜んだ。ネストルじいさんは腰に手を当てながら隣の巨大なドックに向かって歩き始めた。

「ドックには今何が入ってるの?」

 ジェミヤンは待ちきれないようで、ドックの大きな入口の横にある扉の鍵を開けようとしているネストルじいさんに聞いた。

「見てのお楽しみじゃ」

 僕たちは開けられた扉を通って中に入った。ドックの中はとんでもなく広く、月くらいならすっぽり入ってしまうんじゃないかと思えた。そしてそこには何本ものワイヤーで係留された大きな飛行船があった。

「こ、これは空母リーディア!」

 興奮したジェミヤンは上ずった声で叫び、駆け出した。飛行船を見渡せる場所まで行くと、僕たちに振り向き、両手を広げて大声で言った。

「全長二百メートルのバルトン級飛行船、空母リーディア号だ! バルトン級はアルミニウム合金でできた硬式飛行船なんだ。船体の屋根に二本の煙突が見えるだろ。炭素含有量九十パーセント以上の無煙炭を使った蒸気機関で飛ぶんだ。硬い船体の中には幾つものガス嚢があって、一部のガス嚢が破損しても他が補って航行を続ける事ができるんだ。ガス嚢に充填される浮揚ガスには高純度のヘリウムを使ってる。プロペラは八基あって、最高速度は五十ノットも出る。船体の中には滑走路と格納庫があって、十機の小型飛行機を艦載する事ができる。空母リーディア号は王国騎士団の旗艦で、最大の船なんだ! 冬休みで僕が家に帰ってた時に、大きな飛行船がレナート上空を飛んでたって噂を聞いたけど、それってリーディア号だったんだね!」

「あの子は詳しいのう」

 ネストルじいさんは目を丸くして呟いた。


 興奮冷めやらぬジェミヤンをなだめて、僕たちは飛行船ドックを出た。

「いいカカオが手に入ったんじゃ。お前たちが来たらホットチョコレートを飲ませてやろうと思って準備しといたんじゃ。焙煎と殻剥きをした後、すり潰して、練って練って練り続けるんじゃが、とんでもなく大変じゃったわい。飲んでみるかね」

「やった!」

 アンナが何故か野太い声を出して、拳を握った。力んでしまうほど嬉しかったようだ。

「ついてきなさい」

 ネストルじいさんは僕たちにそう言い、今度はドックとは反対の方に向かって歩き始めた。やがて、敷地の端にある白い建物に入った。そこは元々は納屋か車庫だったようだ。前面のシャッターは開いたままになっている。二、三台の蒸気自動車を置いたら一杯になる程度の広さだ。壁一面に作り付けられた棚に整然と物が並んでいて、真ん中にはケーブルを巻くための大きな木製のドラムがテーブル代わりに置かれていた。僕たちはドラムの周りに置かれた椅子に腰を下ろした。

 壁際には細いスチームパイプが張り巡らされたテーブルがあった。テーブルの上には三角フラスコやビーカーが並び、その端にはコンロが置かれていた。

 ネストルじいさんが台に取り付けられているバルブを捻ると、シュッと音がしてパイプの中に蒸気が通った。次にネストルじいさんは、テーブルの横にある大きな冷蔵庫の扉を開けた。その様子を見ながら、ジェミヤンが僕に言った。

「ネストルじいさんの冷蔵庫はスチーム式のコンプレッサーで冷やしてるんだ。ここの火力発電は不安定だから、じいさんは電気を信用してないんだ」

 ネストルじいさんは、皿に乗ったチョコレートのブロックとミルクが入った瓶を冷蔵庫から取り出した。壁に掛けられている三つのミルクパンを見て、少し「うーん」と唸った後、「これじゃな」と言ってそのうちの一つを取り、テーブルのコンロの上に乗せた。

 そのミルクパンにミルクを注ぎ、高さのある台の上に乗せられたグラインダーの中に、幾つかのチョコレートブロックを入れた。そして、テーブルに取り付けられている小さなレバーをカチッと倒した。

 すると、ボッと音がしてコンロに火が付き、ミルクが入ったミルクパンを熱し姶めた。それと同時にバーに付いた泡立て器が倒れてきて、ミルクの中に差し込まれた。泡立て器は、ゆっくりと優しく回転し始めた。

 少しの時間を置いて、今度はグラインターが動き出した。グラインダーはガッ、ガッ、ガッと一定のリズムで、チョコレートブロックを少しずつ削り始めた。細く削られたチョコレートは滑り台をつるつるっと滑り、温められたミルクの中に落ちていった。

 チョコレートを削る速度は完璧に計算されているようで、速過ぎず遅過ぎず、絶妙な分量ずつミルクの中に溶かされていった。ネストルじいさんは「うむ」と言いながら頷き、四つのカップを僕たちの前に並べ、僕の隣の椅子に座った。

 数分後、ウインと音を立てて泡立て器が持ち上がった。ネストルじいさんは「よっこらせ」と言って立ち上がり、再び実験台のようなテーブルの前に立った。

 布巾を手に取ってミルクパンの取っ手をつかみ、僕たちの前に並べたカップにホットチョコレートを注いだ。甘い香りがふんわりと広がった。炒められたカカオ豆の少し焦げたような香ばしさが、大人の雰囲気を感じさせた。

「焙煎と殻剥きが大変だったって言ってたけどさ、それもきっと全自動なんだよ」

 ジェミヤンが小声で僕に囁いた。それならそれで、機械仕掛けの全貌を見てみたいと思った。

「ホットチョコレートを作るのは骨が折れるわい」

 ネストルじいさんはそう言うと、再び僕の隣の椅子に腰掛けた。ホットチョコレートを作るのに骨が折れたのではなく、ホットチョコレートを作る機械を作るのに骨が折れたのだろう。

「ルカと言ったかの。お前さんは魔法は何も使えんのかね?」

「はい、何も」

「魔法使いの一族では、魔法を使えない子は十歳になると町を出なければならないというのは本当かね?」

「昔は、魔法を使えない子供は十歳の誕生日に森に捨てられたらしいです。でも、今はそんな事なくて、十四歳の誕生日に魔法使いの町を出て、知らない町で暮らしていくんです」

「そうじゃったか」

 ネストルじいさんは少しの沈黙の後に言葉を続けた。

「魔法を使えない魔法使いに出会ったのは、お前さんで二人目だ」

「え?」

 僕はその言葉に驚いた。

「もう、六十年近く前の事じゃがの」

「どこで? それは誰ですか?」

「トポロフの森じゃ。ここよりずっと東の山の向こうにある深い森じゃ。わしが二十歳の頃にな」

 ネストルじいさんは視線を上げ、昔を懐かしむように遠くを見つめた。そんなじいさんの横顔にアンナが問いかけた。

「どんな人だったの?」

「この世のものとは思えないような美しい女性じゃった。トポロフの森の奥深くにポツンとある煉瓦の家で、たった一人で暮らしておった。わしは初めて自分で造った小型蒸気飛行船オルガ号で森の上を飛んでおったんじゃが、なにぶん欠陥だらけでの、プスプスと音を立てて、森の中に落ちてしまったんじゃ。森から抜け出そうと歩いてるうちに迷ってしまっての。歩いても歩いても森の中なんじゃ。やがてわしは煉瓦の家を見つけた。助かった、ここに住んでる人に里への道を教えてもらおう、と思って、わしは扉を叩いたんじゃ」

「そこに、魔法を使えない魔法使いが住んでたんだね?」

 そう尋ねたジェミャンに、ネストルじいさんはゆっくりと頷いた。

「扉を開けてくれたのは、透き通るような白い肌をした若い女性じゃった。わしは今も昔もあんなに美しい女性を見た事がない。じゃがの、彼女は里への道を知らんと言うのじゃ。途方に暮れたわしを哀れに思ったのか、しばらくこの家に住むといい、と言ってくれたんじゃ。ただし――」

「ただし?」

 僕の言葉に、ネストルじいさんは一呼吸ついてから続けた。

「鏡の布を取ってはいけない。決して鏡を覗いてはいけない、と彼女は言ったんじゃ」

 ネストルじいさんは両手を広げてみせた。

「このくらい大きな鏡があった。それには布がかけられておった。鏡は立派な装飾の額縁に入っておった。もちろんわしは、彼女に約束をした。鏡など見ぬ、とな。わしはその日から、彼女の煉瓦の家で暮らし始めた。深い森の中とはいえ、煉瓦の家の周りだけポッカリと空いていて、小さな畑には作物が豊かに実っておった。明るい日差しの中で、風に揺れる森の音だけが聞こえるんじゃ。この静寂の中で、美しい女性と二人で暮らしていけるのなら、死ぬまでここにいたいと思ったもんじゃ。彼女の作る料理はどれもおいしく、立ち居振る舞いは清楚で可憐での、力仕事を手伝ってヘトヘトになったわしの前に、温かい飲み物が入ったカップをそっと置いてくれたもんじゃ」

 ネストルじいさんは、温かいホットチョコレートが入ったカップを両手で包み、昔を懐しむようにそれを見つめた。その様子を見てクスッと笑ったアンナが言った。

「いつまでその家にいたの?」

「まあ、そうじゃな。一ヶ月くらいじゃ」

「なんでその家を出たの?」

「お前さんは好奇心旺盛じゃの」

 ネストルじいさんはそう言うと、小さく溜め息をついた。

「満ち足りた毎日じゃった。じゃが、日に日に鏡が気になってしまっての。何故鏡を見てはいかんのか、彼女に聞いたが、黙ってうつむくだけで教えてくれん。そしてある日、彼女が留守にしている時に、わしは鏡に掛けられている布を捲ってしまったんじゃ」

「そこには何が映ってたの?」

「部屋じゃ。わしがいる部屋が映っておった」

「そんなの当たり前じゃない」

「じゃがな、肝心なもんが映っておらんかった。――覗き込んでいるわしの姿がな!」

 「ひっ!」という声と共にガタンと音がしたのでそちらを見ると、ジェミヤンが椅子から滑り落ちていた。ジェミヤンが持っているカップからホットチョコレートが飛び散って、彼の顔に付いていた。ネストルじいさんは話を続けた。

「わしは不思議に思って、鏡をじっと見続けたんじゃ。するとな、おかしな事に鏡の中の暗がりにたくさんの骨が見えたんじゃ。そしてその傍らに、痩せ細った男の子がうずくまっていたんじゃ。わしは驚いて後ろを振り返った。じゃが、部屋のどこにもそんな子はいない。再び鏡を見ると、確かに男の子がいる。わしは何度も振り返ったが、わしの後ろには男の子などおらんのじゃ。おかしい、おかしい、と思っていた時、わしの耳のすぐ側で、彼女の声がした。いつの間にか、彼女はわしの真後ろに立っていたんじゃ。彼女はわしに言った。その子は鏡の中にいるの、とな。わしは驚いた。鏡に彼女が映っていた。わしは鏡に映っておらんのに、彼女は鏡に映っておった」

「なんで? なんでその人だけ鏡に映ってたの?」

 アンナの問いかけに、ネストルじいさんは続けた。

「わしもそう思って聞いたんじゃ。すると彼女は教えてくれた。――私は魔法を使えぬ魔法使い。十歳の時にこの深い森に捨てられた。でも、トポロフの魔法の鏡は私を守護者として選び、強大な力を私に与えた。選ばれぬ者は鏡の中に閉じ込められ、飢えて死んでいく。その子はあなたが来る前の日に鏡に閉じ込められた。もうすぐ死んでしまうでしょう――とな。魔法の鏡は選ばれし者だけを映す。ただの人間であるわしが映るはずがない。だから彼女は鏡の布を捲るなと言っていたんじゃ。あなたは約束を破ったと彼女は言い、一粒の涙を流した。その涙が床に落ちた時、眩しく光り輝いたんじゃ。光はわしも彼女もその部屋も、すべてを包んでしまった。そして気がついた時、わしは森の外のフェオドラの町にいた。広場の石畳の上で寝転がっていたんじゃ」

「その人は、じいさんが鏡に閉じ込められないように逃がしてくれたんだね」

 アンナは両手を頬に当て、目を伏せてそう言った。

「わしは彼女の事を忘れられんでの。結婚もせんまま、気がついたらヨボヨボのじいさんになっておったわい。彼女は今もあの深い森の奥にいるんじゃろうか」

 ネストルじいさんは静かに目を閉じた。その瞼の裏には、きっと深い森にある煉瓦の家と彼女の姿が映っているのだろう。


「さあ、ここじゃ」

 僕たちは一番外れにある建物の前で立ち止まった。そこは白い外壁の小振りな格納庫だった。小振りと言ってもウンタモ寮長の自転車倉庫よりずっと大きい。格納庫の前面は大きな扉になっている。ネストルじいさんは腰をかがめ、扉の下につけられている鍵を外した。そして扉を下から持ち上げた。扉は重しに引っ張られて上がっていった。

「うわあ!」

 大きな声を上げたのはアンナだった。格納庫の中央にある木製の台座の上に、銀色に光るエンジンが置かれていた。窓から差し込む太陽の光が反射して、それは目が眩むほどの輝きを放っていた。アンナは飛びつくようにエンジンに駆け寄った。

「これって、これって、もしかして!」

 エンジンはアンナの身長よりも高さがある。正面から見ると、五つのシリンダーが星の形に組まれている。これは星型レシプロエンジンだ。正面に立ったアンナが両手を広げたが、エンジンの直経は抱えきれないほど大きい。

 ネストルじいさんが腰に両手を当てて背中を伸ばした。

「お前さんの設計通りに作ったんじゃよ」

「信じられない! 私が描いたやつが本物になるなんて!」

 アンナは興奮して何度も飛び上がった。クールを気取っているアンナとは思えないほどのはしゃぎっぷりだ。彼女の澄んだブラウンの瞳がキラキラと輝いている。

「頑丈にできとるよ」

 ネストルじいさんはそう言うとエンジンに近寄り、腰に巻いている作業用のベルトからスパナを取り、エンジンに埋め込まれているボルトをコンコンと叩き、その幾つかを増し締めした。

「こいつはこれまでのエンジンよりもパワーが出るが、それを生かすには高精製のガソリンがいる。ジェミヤンがそれを量産できるかにかかっとる」

「大丈夫だよ! 任せといて」

 ジェミヤンはそう言って胸を張った。

 格納庫の中には、飛行機の機体を作るための様々な材料が積まれていた。それを組み立て、エンジンを積んで、アンナの飛行機ができあがるのだろう。

 アンナは大きなエンジンの周りをぐるぐると走ると、ネストルじいさんの元に走り寄り、抱きついた。

「じいさんすごいね! 私の願いを叶えてくれるなんて!」

「フォ、フォ、これこそ、わしがたまにできる魔法じゃよ」

 アンナに抱きつかれたネストルじいさんは少しよろけながらそう言って笑った。そして僕に視線を向けた。

「誰でも魔法使いになれる時がある。それはお前さんもな」

 ネストルじいさんは片目をつぶってみせた。僕は自分の中に何かが湧き上がってくるのを感じていた。それは希望なのか勇気なのか、僕にはわからなかった。ただ、ネストルじいさんの言葉が、僕の心に深く染み込んでいった。

「じいさん、後どのくらいで完成する?」

 アンナがネストルじいさんに問いかけた。じいさんは白い豊かな顎髭をさすりながら答えた。

「そうじゃのう。後一ヶ月くらいかのう。それまでにテストパイロットになってくれる者を探さんといかん」

「いるよ、そこに」

 アンナはニヤリと笑って僕を指差した。

「ほう、お前さんが」

「え?」

 アンナはそう言うけど、テストパイロットなんて、そんな簡単にできるものじゃない。

「これまでに飛行船や飛行機に乗った事はあるかの?」

「何回か飛行船に乗った事はあります。でも、まな板になら数え切れないくらい乗せられたけど」

「まな板? それって料理に使うあれ?」

 予想外の僕の言葉にアンナが目を丸くして言った。すると僕のその言葉を聞きつけたジェミヤンが走り寄ってきた。

「それって、魔法の番人ガヴリイルの音速まな板の事だよね!」

 目を輝かせてジェミヤンがそう言ったけど、音速まな板なんて言葉、僕は初めて聞いた。

「ガヴリイル様のまな板は、普通に飛んでも百ノットだって聞いた事がある。その気になれば六百ノットを軽く超えて、音速で飛べるらしいよ。でもそんなスピードを出したら生身の体じゃ乗ってられないから出さないだけなんだよね」

 父さんのまな板には速度を測る計器なんて付いてるわけないから、どのくらいの速度で飛んでいるかはわからない。

「僕が空を飛ぶ事に慣れるように、小さな頃から父さんと一緒にまな板で空を飛んでたんだ。空を飛ぶのは大好きだったけど、結局自力では飛べなかったけどね」

「フォ、フォ。それなら話は早いのう。パイロットが最初に克服しなくてはならない恐怖心など、微塵もなさそうじゃの」

 するとアンナが得意気に言った。

「ほらね、私が見込んだとおりだ。君が持つ星の形のアザは、空を目指すためにあるんだよ」

 僕は不思議な気持ちになった。空を飛ぶ事を諦めた僕の前に、チャンスの欠片が姿を見せているのか。

「興味があるなら、明日から隣の飛行場に来るといい」

 ネストルじいさんが僕にそう言った。僕を見つめる皆の眼差しが、思い悩んでいた不甲斐ない僕の背中を押してくれていた。

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