第3話 王立クライン大学レナート校

 僕は眠ってしまっていたらしい。鉄の車輪にブレーキがかかって軋む音と、すすけた煙の匂いで目が覚めた。僕は今どこにいるのか、寝起きの頭で把握するまで少しの時間が必要だった。辺りを見回すと、アンナの姿があった。

「よく寝てたな。着いたよ。レナートに」

 僕は毛布を畳んで脇に抱えた。アンナは駅のホームとは反対側の通気孔の小窓を開けて外の様子を伺っていた。

「大丈夫だ」

 アンナはそう言うと、車両の右側の扉を慎重に開けた。扉の向こうには線路が一本敷かれている。僕たちは線路に降り、その上を小走りに進んで、貨物車両と旅客車両の間の連結器に飛び乗った。ここは車両同士の通路になっていないから、連結器の上を通れば反対側に出られる。僕たちはそうやって駅のホームに降り立った。

「線路をそのまま走っていって外に出ちゃえばいいんじゃないのか?」

 ホームの人混みの中を歩きながらアンナに尋ねた。

「それは素人の考える事だよ。そんな事したら逆に見つかりやすいんだよ。さあ、こっちだ」

 アンナは改札口には向かわず、駅の構内の片隅にある立入禁止と書かれた扉の前に行った。辺りを窺い、ダイヤルの付いた棒の形の金属の機械を鍵穴に差し込んだ。その後はニーナ駅の時と同じ作業だ。アンナがダイヤルを回すと鍵穴の中でカチカチと音がした。ダイヤルをロックして金属の棒を回すと、扉の鍵が解除された。

 扉を開け、その先の通路を進むと、そこは改札口の外に繋がっていた。港町レナートの中心部にあるレナート駅は、ニーナ駅に負けず劣らず大きな駅だった。そしてここも、駅自体が蒸気機関で動いているようで、浮き出た血管のように、蒸気を通すパイプが至る所に張り巡らされている。

 無事にレナートに着いた事を実感して、僕は大きく背伸びをした。そんな僕を見ながら、アンナが外を指差して言った。

「レナート校は、ここから歩いて二十分くらいだよ」

 駅の外の広場はマーケットになっていて、どの店も店じまいを始めていた。春の太陽は少し西の空に傾いてきていた。海から吹く風が潮の匂いを運んでくる。深呼吸をすると、魚と海藻の匂いが体に入ってきた。港町レナートは、まさしく海の町だった。僕はアンナと一緒に学校に続く道を歩き始めた。

「アンナ、今学校は休みじゃないよな? 何で家に帰ってたんだ?」

「じいちゃんから手紙が来たんだ」

 アンナはそう言うと、腰の鞄から一枚の手紙を取り出し、僕に渡した。僕はそれを広げた。手紙にはただ一言「ばあさん病気」と書かれていた。

「ばあちゃんはピンピンしてやがった。じいちゃんは嘘つきなんだ」

 アンナはクスッと笑った。

「さあ、見えてきたよ」

 アンナのブラウンの瞳が見つめる先に、大きな建物が見えた。


 * * *


 その人は僕をじっと見ていた。僕を観察しているようだ。静かな部屋の中で、チッ、チッという壁掛け時計の音だけが聞こえる。

「ルカ・ガヴリーロヴィチ・ゼレノヴァ」

 しばらくして僕の名前を呼んだその声は、床を這うように低く響いた。僕のおじいさんに近いくらいの歳だろうか、整えられた白い髪、そして長く白い髭をした厳格そうな人物だ。皺ひとつなさそうな仕立てのいい黒いジャケットを羽織り、上品なえんじ色の蝶ネクタイをしている。立派な装飾が施された机を挟んで、僕はその人の前に立っていた。

「私は若い頃、君のおじいさんであるゲラーシー様の元で働いていた。彼が研究していた太古の魔法に関する膨大な論文の編纂が私の役目だった。彼は実に偉大な魔法使いだった。ゲラーシー様は息災かね?」

「ソクサイって何ですか?」

「元気か、という意味だ」

「なるほど。おじいさんは毎日ぼんやりしています」

「ぼ、ぼんやり……」

 おじいさんの知り合いというその人は、ゴホンと咳払いをして高級そうな椅子から立ち上がった。椅子の背もたれは彼の蝶ネクタイのようなえんじ色の生地が張られていて、ふっくらとしている。彼は大きな机の横を通って僕の前に立ち、右手を差し伸べて言った。

「ゼレノヴァ家の子息を我がレナート校に迎える事を、たいへん嬉しく思っている。私は王立クライン大学レナート校、校長のコンドラート・インノケンチェヴィチ・アスタプチェンコだ」

 長過ぎてとてもじゃないけど覚えられないなと思いながら、僕は右手でその手を握り返した。そして左手を胸に当て、右足を半歩後ろに下げて軽く膝を曲げて会釈をした。

「ふむ。由緒あるゼレノヴァ家の一員だけあって、礼儀正しい。君の事情は、君の父である魔法の番人ガヴリイル殿から聞いている」

 コンドラート校長はそう言うと再び椅子に座り、手元の紙に何かを書きながら話を続けた。

「知っての通り、我が校にはクライン王国の貴族や騎士など、良家の子息が集まっている。さらに例外的にだが、非常に優れた才能を持つ者であれば、家柄に関わらず我が校は迎え入れている。様々な生徒がいるが、彼らと過ごす生活は君にとって有意義なものになるだろう」

 校長は紙を僕に差し出した。

「我が校は全寮制だ。生徒たちは皆この敷地内にある寄宿舎で暮らしている。今から寄宿舎に行き、寮長にこの紙を渡しなさい」

 僕はその紙を受け取り、会釈をして校長室を後にした。


 校長室から出てきた僕を、アンナは廊下の壁に寄りかかりながら待っていた。

「カタブツそうなオヤジだったろ」

 アンナはニヤニヤしながらそう言った。僕は彼女の擦り切れた黒い上着を見た。

「君は優れた才能があってこの学校に入れたのか?」

 アンナは僕の問い掛けには答えずに言い返した。

「君は見るからにいいとこのお坊っちゃんだね」

 そしてキッとした目つきで僕を睨んだ。僕の何気ない言葉に彼女は気を悪くしたようだ。彼女は強い口調で続けた。

「私は炭鉱夫の家の子だからねえ。特待生としてこの学校に入ったんだ。さっさと飛び級して大学の機械工学部に行きたいね。で、私のじいちゃんが採った石炭で動くすごい機械を作るんだよ」

 アンナはビーズがついた長い髪を翻し、校舎の玄関に向かって歩き出した。そして彼女はチラリと僕に振り向いた。

「君が何者か知らないけどさ、私たちは無賃乗車の共犯だからね」

 アンナはフフッと笑って僕を手で促した。

 僕が何者なのか、それは僕にもわからない。魔法使いの一族なのに魔法の力を持たず、ゼレノヴァ家の子供なのに二度と家に帰る事は許されない。特技も家もない僕は、一体何者なのだろう。


 * * *


 寄宿舎の玄関に入ったところで「寮長室はあっち」と指を差して、アンナはさっさと自分の部屋に向かってしまった。

 玄関には大きな柱時計があった。時計の針は午後五時三十分を差していた。寄宿舎の建物は古くて年代物のようだが、広い床も階段の手すりも丁寧に磨かれていて、深い艶を放っている。

 廊下は静かで僕の足音が響く。少し歩いたところの右側に寮長室はあった。僕は寮長室の扉をノックし、声をかけた。

「ルカ・ゼレノヴァです」

 返事はすぐに返ってきた。

「どうぞ」

 扉を開けると、そこは予想とは全く違う部屋だった。部屋の中には大きな木が床から生えて天井を突き抜けていた。いや、生えているのではなく、設置されていると言った方が正しい。木の枝には極彩色のオウムが留まっている。至る所に葉が生い茂り、密林の様相を呈している。部屋の中を突っ切るように、壁から壁にかけてロープが張られている。そのロープには、黒いタキシードを着た大きなオランウータンのぬいぐるみが両手でぶら下がっている。それは赤いチェック模様の蝶ネクタイをしている。そのオランウータンが細部まであまりにリアルにできているものだから、僕は近寄って、まじまじとその顔を覗き込んだ。ふさふさの長い体毛に全身が覆われているが、前頭部は見事に禿げ上がっている。

 突然、ぬいぐるみの大きな右手がロープから離れ、自分の額にピタッと当てがわれた。

「見てたよね? 今、僕のおでこ見てたよね? なになに、何か気になった?」

 僕は唖然とした。ぬいぐるみだと思ったオランウータンの黒い目がギョロギョロ動き、丸く突き出た大きな口がビロンビロンと動いて、畳み掛けるように僕に向かって喋った。

 大きな右手は、どうやら禿げて広がった前頭部を隠したようだ。オランウータンは左手一本でロープにぶら下がったまま、体を大きく揺らした。

「み、見てないです」

「ううん、見てた、見てた。僕のおでこ見てた。なになに、何か気になった?」

「いやべつに。立派なタキシードですね」

「タキシードなんて見てなかったよ。おでこ見てたよね? なになに、何か気になった?」

 僕はこのやり取りが少し面倒になってきた。

「もしかして寮長ですか? はい、これ」

 僕は、コンドラート・インノケントルヴィチ?、いや、インノリンチェヴィチ?、アスチェンコヴィチ?――つまり、コンドラート校長から預かった紙を差し出した。急に目の前に差し出されたものだから、オランウータンはおでこを隠していた右手で思わず紙を受け取った。

「あ」

 オランウータンは慌てて紙を大きな唇で狭み、右手を再びおでこに当てた。下唇をグイッと前に突き出すと、紙はオランウータンの顔の前で立ち上がった。黒いつぶらな瞳で書面にさっと目を通すと、下唇だけで紙を器用に挟み、僕に言った。

「ルカ・ガヴリーロヴィチ・ゼレノヴァ。転入生だね、聞いてるよ。君の制服も届いてるよ」

 オランウータンはロープから左手を離し、床に降りた。部屋の端にある机に行くと、机の上の黒いシルクハットを取り、頭に被った。タキシードの襟を両手でスッ、スッと撫でると、少し胸を張った。

「僕の名前は、ウンタモ・アウノ・ヴァリス。この寄宿舎の寮長だよ。オランウータンに見えないかもしれないけど、オランウータンだよ」

「そうとしか見えないです」

「そこの木の枝に掛けておいたよ、君の制服」

 ウンタモ寮長が指差した方を見ると、白いシャツ、緋色のネクタイ、紺色と緑色のチェック模様が入ったグレーのズボン、そして、深い紺色のジャケットが木の枝にずらりと並べて掛けてあった。

「制服を持ってついてきて」


 僕はウンタモ寮長の後について、玄関ホールにある階段を上った。階段には、装飾が施された木製の手すりが付けられている。建物は三階建てのようだ。ウンタモ寮長は三階の廊下を歩き始めた。廊下の片側に部屋が並んでいる。

「このフロアでは、君と同じ中等部の生徒たちが暮らしているよ。だいたいが三人部屋だよ」

 ウンタモ寮長は歩きながらそう言った。それにしても彼は歩くのが遅い。短い足でもたもたと歩く。この廊下にロープが張ってあれば、彼はその長くて大きい手を使って素早く移動する事ができるだろうに、と思った。

「転入生だよー」

 ウンタモ寮長が歩きながら大きな声でそう言うものだから、部屋の扉が次々に開いて、生徒たちが顔を覗かせた。

 開けた扉に寄りかかりながら、背の高い男子生徒が爽やかな笑顔で僕に声を掛けた。

「ようこそ、レナート校へ」

 その隣りの部屋からは、扉の隙間から顔を半分だけ出した男子生徒が小さな声でボソッと言った。

「ようこそ」

 廊下を奥まで進んだ突き当たりに、その部屋はあった。

「君の部屋ここ」

 ウンタモ寮長は僕にそう言い、扉をノックした。

「ユーリ、ジェミヤン、転入生だよー」

 ウンタモ寮長の呼びかけに応えるように、ドアノブが回った。ギギッと音を立てて扉が開いた。扉を開けたのは、僕と同じくらいの背丈の目つきの鋭い男子生徒だった。

「ユーリ、君たちの部屋に新しい友達が入るよ」

 ユーリと呼ばれたその生徒は、紫がかった青い瞳でじっと僕を見つめた。短い金髪がツンツンと立ち上がっている。肌の色は薄く、右の頬に擦り切れたような傷跡がある。僕は右手を差し出した。

「俺はルカ。今日から同じ部屋になるみたいだ。よろしく」

 ユーリは少し顔を傾け、見下すような目で僕を見た。僕が出した右手に気づいているだろうに、彼は僕の手を握り返さなかった。

「育ちの良さそうな奴だな。どっかの貴族の跡取りか?」

 初めて会うのに酷い言い草だ。僕はカチンときて言い返した。

「お前も育ちが良さそうだな。この国の王子様か?」

 僕の言葉に、ユーリの瞼がピクリと動いた。それと同時に彼の左手が僕の襟元をつかんだ。

「何だと、てめえ!」

「お前こそ何だ!」

 僕もユーリの襟をつかみ、力任せに突き飛ばした。ユーリは扉の横の壁に背中を打ちつけた。ユーリも負けずに僕を押し返した。僕たちはお互いに相手をつかんだまま睨み合った。僕の手から落ちた制服と鞄が床に散乱した。押し合っているうちにユーリの靴が真新しい僕の制服を踏みつけた。不穏な空気を察した生徒たちが集まってきた。

「喧嘩だ!」

「やれやれ!」

 生徒たちが口々に囃し立てた。挑発してきたユーリが何を考えているのか僕にはわからないが、僕は決して悪くない、こいつに謝らせてやると思った。

 その時、つかみ合っている僕とユーリの腕をウンタモ寮長がガシッとつかんだ。そしてヒョイと飛び上がった。僕たちの腕の上に乗っかったと思ったら、長く大きな手のひらで僕とユーリの顔をつかんだ。ウンタモ寮長の手は指が長く、僕たちの顔全部を覆ってしまった。

 驚いた僕たちは思わずお互いの襟から手を離し、ウンタモ寮長の手を顔から引き剥がそうとした。でもウンタモ寮長の手を顔から外せない。寮長の体重に引きずられるように僕たちはしゃがみ込んだ。

「何で喧嘩してんの? 何で何で? 仲良くしようよ」

 ウンタモ寮長は想像以上に力が強い。僕は顔が潰されるんじゃないかと思った。寮長はしゃがんだ僕たちを近づけ、パッと手を離したかと思ったら、今度は僕たちを抱えるようにギュッと抱き締めた。

「こうしたほうがいいよ。こうしたほうがいいよ」

「わかった。わかったから離せよ」

 ジタバタしながらユーリが言った。

「ほんとう?」

「ああ。ちょっとからかっただけなんだよ」

 その言葉にウンタモ寮長の力が緩んだ。ユーリはすかさず寮長の腕の中から抜け出した。そして寮長の頭の上のシルクハットを取り上げた。

「あ」

 ウンタモ寮長は慌てて広いおでこにパシッと手を当てた。

「見ちゃったよ」

 立ち上がったユーリは、シルクハットに手を突っ込んでくるくる回しながらそう言うと、悪戯っぽくニヤリと笑った。ユーリは腰をかがめて僕の制服のジャケットを拾い上げた。そして、しゃがんでいる僕に差し出した。

「血の気の多い奴だな。俺に突っかかってくるなんてよ」

 僕は立ち上がり、ジャケットを受け取った。

 その時だった。突然、廊下の窓の外で、ボンッという爆発音がした。僕は驚いて窓の外を見た。手をおでこに当てたままのウンタモ寮長や、集まってきていた生徒たちも一斉に窓に駆け寄った。ユーリだけは悠々とした表情で壁に寄りかかっていた。

 三階の窓から見下ろした場所に、古ぼけた木製の小屋があった。外壁の下のほうは苔が生えていて、時間から取り残された朽ちかけの遺構のようだ。見ていたら、小屋の扉が力なく開いた。そして、髪をチリチリに逆立てたススだらけの小柄な少年が出てきた。少年は呆然としていた。少年はずり落ちそうになっていた眼鏡をかけ直すと、窓から見ている僕たちの方に振り向き、苦笑いしながら軽く手を振った。

「お前と俺のルームメイトだ」

 背中越しにユーリが僕に言った。振り向くと、彼はウンタモ寮長のシルクハットを自分の頭に乗せていた。騒動を意に介さず、涼しげな目で笑っていた。

「あいつは化学の天才、ジェミヤンだ。ただのいかれた奴かもしれねえけどな」

 僕の新たな生活の最初の一日は、こんな風に始まった。

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