第2話 炭鉱の町ニーナ
「ここまでありがとう」
僕は荷馬車を降り、マクシムじいさんに礼を言った。
ここは炭鉱の町ニーナだ。この町から鉄道が遥か北まで続いている。鉱山で採れた石炭を積んだ蒸気機関車が、王都ラビナを目指して旅に出る。この町はどこに行っても石炭と蒸気の匂いが立ち込めている。
「達者でな、ルカ」
マクシムじいさんは僕の事を気遣ってか、ここまでの道中、一度も魔法を使わなかった。のんびりガタゴトと荷馬車を走らせ、時折り陽気な歌を歌っていた。
「じいさんも元気でね」
僕は荷台から鞄を取り、たすき掛けにした。そして差し出されたマクシムじいさんの手を握った。マクシムじいさんは僕の手を握ったまま言った。
「わしの姉さんのジーナも、お前と同じように魔法の力を持たない子供じゃった。ジーナ姉さんは十歳の誕生日に森に置き去りにされた。その後どうなったかは知らないが、きっと森を彷徨い、飢えて死んでしまった事じゃろう」
悲しげな目をしたマクシムじいさんの首筋に星の形のアザが見えた。
「じゃが、今はそんなむごい風習はない。お前は幸せに生きるんじゃよ」
「ああ、わかってる」
僕はそう言うと、マクシムじいさんに笑いかけた。
「じゃあね!」
マクシムじいさんの手を振り解き、僕はニーナ駅に向かって走り出した。周りをよく見ずに通りを渡ろうとした僕に、走ってきた蒸気自動車がぶつかりそうになった。ギギギーッと車輪を軋ませた蒸気自動車の運転手が、ラッパをパフパフと鳴らしながら叫んだ。
「こらっ! 飛び出すな」
僕はその声に手を上げて応え、さっさと駅舎に向かった。プシューッという蒸気を発する音と共に、その車も走り出した。
ニーナ駅の駅舎は壮観な外見に違わず、その中も想像以上に大きなものだった。駅の中は人でごった返していた。その多くは出稼ぎの炭鉱夫のようだ。遠くの町からはるばるやってきた者、何か月も、あるいは何年も炭鉱で働いてようやく故郷に帰る者。ここに来たばかりの人の顔や手は綺麗だけど、帰っていく人の顔や手の皺には、真っ黒なススと油が染み込んでいる。ここではそんな無数の人生がすれ違っていく。
人混みを掻き分けながら、僕は切符売り場を探した。その時、ドンという衝撃と共に、僕は突き飛ばされた。
「いてえ!」
尻餅をついた僕に関心を示す人は誰もいなかった。僕にぶつかった人が誰かも皆目わからない。僕は床に座り込んだまま呆気に取られていた。宙を見上げた僕の視界にドーム型の天井が映っていた。駅舎の壁や天井にはいくつものパイプが這うように取り付けられていて、駅舎自体が蒸気機関で動いている事を物語っている。
「君さ、何ぼやっとしてんの。盗られたよ」
その言葉に僕は我に返った。言葉の主は大人たちの脇をすり抜けながら、僕に駆け寄ってきた。僕はたすき掛けにしていた鞄の中を慌ててまさぐった。
「違う。上着だよ」
僕はジャケットの内ポケットに手を入れた。
「ない! 財布がない!」
「だろうね。追いかけるよ」
腕をつかんで僕を助け起こしたのは、僕より少し背が低い少女だ。焦げ茶色の長い髪は、こめかみの生え際から編み込まれている。細い三つ編みの毛先にはカラフルなビーズが付けられている。
日に焼けた肌の少女は、赤茶けた金属製のゴーグルを頭に乗せ、布製の小さな鞄を腰に下げていた。そして少し擦り切れた黒い上着を羽織り、煤けたグリーンのカーゴパンツと山登りに使えそうな頑丈なグレーのショートブーツを履いていた。少女は深く澄んだブラウンの瞳で僕を見ていた。
「青っぽい上着の小柄な男だよ」
「わかった」
僕とその少女は、大人たちを掻き分けながら、犯人が行ったと思われる方に向かって走った。
駅の外に出た所で、僕たちは足を止めた。犯人らしき男の姿はどこにもなかった。少女は額からゴーグルを下げて目に当てがうと、レンズの横に付いている金属製の歯車を指で回した。すると、ゴーグルのレンズが前に伸びた。
「それは何?」
僕の問い掛けに、少女は顔を左右に向けながら答えた。
「双眼鏡だよ」
「双眼鏡?」
「そうだよ。見てみな」
少女はそう言うと、頭からゴーグルを外して僕に渡した。僕はそれを頭にはめ、レンズを目に当てた。驚いた事に、それは確かに双眼鏡だった。遠くの景色が目の前にあるかのように見えた。
「すごいな、これ」
「私が作ったんだ」
少女は僕からゴーグルを受け取り、歯車を回してレンズを元の形に戻しながら言った。
「犯人のヤツ、逃げ足早かったな。こうなると探し出すのは無理だね」
「参ったな。警察に行くしかないか」
「警察? スリくらいじゃ、ここの警察は何もしないよ」
「え?」
呆然とした僕に少女が問い掛けた。
「君、列車に乗るとこだったの?」
「ああ」
「どこに行くんだ?」
「レナート」
「レナー卜? へえ、何であそこに?」
「寄宿舎に入るんだよ。レナート校の」
「……へえ」
少女はそのブラウンの瞳で僕を見つめた。
「でも、財布を盗られたから切符を買えない」
僕の嘆きに、少女は驚く言葉を発した。
「切符を買わずに乗ればいいんだよ。ちょうど私はそうするところ」
「え? それって無賃乗車じゃないのか?」
「それがどうした」
あっけらかんと言ってのけた少女に僕は返す言葉を失った。
「レナート校は、いいとこの子供ばかりじゃないんだよ」
「え? じゃあ君も?」
「私の名前はアンナ」
アンナと名乗ったその少女は、乱暴な言葉遣いとは裏腹に、人なつっこい笑顔を僕に見せた。
「俺はルカ。よろしく」
僕はアンナに右手を差し出した。アンナは僕の手を握り返して言った。
「じゃ、行こうか!」
アンナは僕を連れて駅の雑踏の中に戻った。歩きながら、アンナは自分の話をした。彼女はこの炭鉱の町ニーナで育ったと言った。このクライン王国は石炭の需要が多く、炭鉱は未曾有の好景気らしい。でも両親がおらず、年老いた祖父母に育てられているアンナは、家計に負担をかけないように、家に帰る時は無賃乗車をしていると僕に話した。
人混みを掻き分けて向かった先は、駅のホームから少し離れた人気のない場所だった。人目を気にしながら、僕たちは薄暗い通路に入り込んだ。この通路にも蒸気のパイプが通っている。蒸気が抜けるプシューッという音が通路に響いている。ニーナで採れる石炭は火力発電にも使われているが、電力の供給は不安定で、通路を照らす灯りは時折り消えかかっている。
やがてアンナは朽ちかけた扉の前で足を止めた。彼女はドアノブを回してみたが、鍵がかかっていて開かない。しかし、僕を見てニヤリと笑った。
アンナは腰に下げている小さな鞄の中から指の長さほどの細い金属の棒を取り出した。その棒は片側にダイヤルのようなツマミがついていた。それをドアノブの鍵穴に差し込み、ダイヤルを回し始めた。すると金属の棒が小さくカチカチという音を発し始め、やがて止まった。
音が止まったのを確認したアンナは、ダイヤルをロックし、右に回した。するとドアノブの中でカチャッという音がした。
「よし」
アンナはそう言うと、金属の棒を抜き取った。棒は鍵の形に変形していた。そしてダイヤルのロックを外して、さっきとは反対側にダイヤルを回した。すると金属の棒はカチカチという音を立てながら元の棒の形に戻っていった。金属の棒を腰の鞄にしまい、アンナは僕に目配せをした。僕がノブを回すと扉は何事もなく開いた。僕は驚いた目でアンナを見た。
「そんなに驚くなよ」
アンナは少し得意げな表情をしてみせた。僕たちは扉の中に入っていった。
少し進むと階段があり、それを登ったところにもうひとつ扉があったが、それに鍵はかかっていなかった。扉を開くと、そこは部屋になっていて、壁にたくさんの紙が貼られていた。
アンナはそれらの紙をしばらく見ていたが、やがて言った。
「午後一時発、王都ラビナ行き、ラビナ五号」
アンナが指し示した紙には貨客列車の図が書いてあり、どの車両が旅客用で、どの車両が貨物用か記してあった。さらに貨物車両ごとに積荷の分類も書いてあった。
「貨車に乗るのか?」
「ああ、そうだ。でもコンテナはだめだ。閉じ込められて死んじまうからな」
しばらく図面を指でなぞった後、アンナが言った。
「えーと、そうだな。ここがいいかな」
そう言ってアンナが示したのは、羊毛を積む貨物車両だった。
「十四号車に行くよ」
「わかった」
この部屋にあるもう一つの扉はガラス窓がついている。そのガラスの向こうを見ると、そこは列車の倉庫だった。ドアノブには部屋の中から鍵がかかっていた。アンナはそれをガチャッと外した。窓から外を眺め、慎重にドアノブを回した。扉を薄く開き、アンナは素早く外に出た。僕も後に続いた。
列車の倉庫には列車が何本か停まっていた。僕たちはラビナ五号を見つけた。蒸気機関車がある先頭の方は旅客用の車両で、後ろ半分は貨物用の車両になっていた。蒸気機関車では作業員が出発の準備をしていた。
アンナは倉庫の片隅の棚から綺麗そうな毛布をくすねた。それを一枚僕に渡した。僕たちは十四号車を見つけ、あたりに目を配りながら慎重に歩いた。貨物車両は両側に扉がついている。僕たちは車両の右側の扉に近寄った。扉には鍵がかかっていたが、アンナはさっき使った棒の形の金属の器具で、いとも簡単に鍵を開けた。
貨物車両の扉を開けると、そこには羊毛が詰められた袋が大量に積んであった。僕たちは袋を掻き分けて車両の中に入り、扉を閉め、中から鍵をかけた。
僕たちは羊毛の袋をよじ登り、さっき持ってきた毛布を敷いた。
「君に特等席をあげるよ」
アンナは笑いながらそう言い、僕を左側の壁際に呼んだ。その壁には、外から中を覗くための四角い小ぶりの窓がついている。頭も通らないような小さな窓だ。それを開くと車内から外が見える。
「寝っ転がりながら外の景色が見れるんだよ。ただし、この倉庫の中にいる間は開けちゃダメだよ。駅を出発するまでは閉めておいて」
「君はいいのか?」
「ああ、私はもう見飽きてる。ここから王都ラビナまで四時間、私たちが目指す港町レナートまでは三時間だ。ひと眠りするにはちょうどいい」
僕たちは羊毛の袋の上に敷いた毛布の上に寝っ転がった。車内の三分の二くらいの高さまで袋が積まれている。天井には明かり取りの天窓がついている。僕はうまい具合に忍び込んだ事に妙な高揚感を覚えていた。しかもこのベッドはふかふかで、驚くほど寝心地がいい。
「羊毛最高だろ。羊臭いなんて言うなよな。間違えて石炭の貨車に忍び込んだら苦しくて死んじゃうよ」
アンナは悪戯っぽく笑った。
「春は羊の毛刈りのシーズンだからな。この時期の貨車はリッチな気分になれる」
アンナはそう言うと、腰に下げている鞄から小さな水筒と銅色の懐中時計を取り出した。
「これ、飲んでいいよ。十二時半か、そろそろ倉庫を出る頃だな」
しばらくして、ガタンという振動と共に列車が動き出した。
列車はニーナ駅のホームに入った。ガヤガヤとした人々の声と足音が響いてくる。それが収まった頃、ブザーが鳴った。列車が出発するらしい。列車の先頭の機関車から汽笛が聞こえた。プシューッという音が聞こえる。石炭の油っぽい匂いが通気孔から入り込んできた。
「さあ、出発だ」
アンナの言葉と同時に、繋がれた車両がガタンガタンと順に引っ張られ始めた。黒い煙が一瞬通気孔から入ってきたが、すぐに消えて無くなった。重たい音がやがてシュッシュッという軽快な音に変わり、列車はどんどんスピードを上げていった。
「もう窓を開けても大丈夫だ」
アンナに促され、僕は壁の小さな窓を開けた。窓の外に鉱山が見える。炭鉱の町ニーナの街並みがみるみるうちに遠ざかっていく。海岸沿いにある火力発電所の高い煙突が、最後まで見えていた。
晴れ渡った空で鷹が舞っている。天窓から日が差し込み、羊毛の特等室はぽかぽかと暖かい。アンナの髪に付けられたカラフルな小さなビーズが、日差しを浴びてキラキラと輝いている。
「綺麗なビーズだね」
「そう?」
アンナはそう言うと、少し嬉しそうにはにかんだ。そして僕に視線を向けて言った。
「それはアザ?」
彼女は僕の左手の甲のアザを見ていた。
「ああ」
僕は右手でそのアザをさすりながら答えた。
「星の形のアザなんて珍しいな」
アンナは星の形のアザの意味を知らないようだ。そもそもほとんどの人は魔法使いと出会う機会はないだろうから、知らなくても当然だ。ましてや、魔法使いである事を意味するアザを持っているのに魔法を使えないなんて、人には知られたくない。
列車がガタンガタンと規則的な音を奏でている。小窓の外の風景は、いつしか果てしない草原に変わっていた。
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