それはまるで魔法のような 〜ジュブナイル・スチームパンク・ファンタジー〜
月生
第1話 魔法使いの町アクサナ
その昔、羊飼いエルモライは言った。
剣の力が満ちる時、空が大地に落ちてくる――と。
それがいつの事なのか、空が落ちるとはどういう事なのか、誰にもわからなかった。
だから僕は空を目指した。空が落ちてしまう、その前に。
* * *
ほんのりと暖かくなってきた春のはじめの朝日の下で、ヒバリのさえずりが耳のそばで聞こえた。
「何だよ。馬鹿にしてるのか?」
草むらに寝転がっている僕は、傍らで佇むヒバリをちらりと見て、悪態をついた。僕に睨まれたヒバリはパタパタッと軽く羽ばたいて飛び上がった。
「ちぇっ」
僕は起き上がり、服についた砂埃を両手ではたいた。土と草の匂いが巻き上がる。砂埃が風に乗って空を舞う。僕は砂埃にまで馬鹿にされているような気がした。ヒバリも砂埃も空を飛べるのに、僕は空を飛べないんだ。
僕の名はルカ。魔法使いの町アクサナで生まれた。今日で十四歳になった。ウェーブのかかった焦げ茶色の短い髪と、深い海を映したようなコバルトブルーの瞳、そして両目の下のそばかすがトレードマークだ。いや、もうひとつ特徴がある。左手の甲には爪くらいの大きさの星の形のアザがある。魔法使いの一族であれば、生まれつき、体のどこかにそのアザがある。
僕は魔法使いの中でも最も由緒あるゼレノヴァ家の長男だ。ゼレノヴァ家は代々、クライン王国の王家に仕えてきた。僕も大人になったら王都ラビナに行き、魔法の力を使ってこの国の人々のために働く――はずだった。
僕は小さくため息をつき、投げ捨てられたように転がっているナナカマドの杖を拾い上げた。この杖は僕の背丈ほどもある。ゼレノヴァ家の蔵に大切にしまわれていた古ぼけた杖だ。七十年前に起きた大嵐でクライン王国のたくさんの人びとが亡くなり、住む家を無くした。その時、ゼレノヴァ家の当主がこの杖を使って雲を断ち切り、大嵐を鎮めたという伝説の杖だ。僕は明け方にこの杖をこっそり持ち出して、海が見渡せるこの丘にやってきた。
杖にまたがったまま丘の頂上から駆け下りて、勢いよくジャンプしてみたけど、見るも無残に転んでしまった。浮き上がる気配さえなかった。
実際のところ、魔法使いが空を飛ぶのに道具はいらない。それでも空を飛ぶ時は、たいてい杖や箒に乗る。それは自転車や波乗り板のようなもので、体を何かに乗せると安定するかららしい。空を飛べない僕にとって、それはただの推測だけど。
伝説のナナカマドの杖でさえも僕に魔法の力を与えてはくれなかった。僕の体の中の遺伝子に、魔法の力は受け継がれていなかった。
魔法使いの町の子供達は、物心がつく頃には自由自在に魔法を使いこなす。噴水広場のパン屋の路地を右に曲がって三軒めの家に住む小さな女の子アリーサは、指先一つでつむじ風を巻き起こす。石造りの眼鏡橋を渡った先の果樹園を左に曲がった突き当たりの家に住む同い年の少年エゴールは、丸めたパンの生地を睨みつけるだけでこんがりと焼き上げてしまう。
それにひきかえ、僕は指先で何をしようとも、どんなにじっと睨んでも、何も動かないし、何も変わらない。
ヒバリは空の彼方に飛んでいった。砂埃は風に巻かれて消えていった。丘から見える森と海と山が朝の光を浴びて目を覚まそうとしている。そろそろ家に帰らないといけない。朝ごはんを食べたら出発だ。
町の至る所に生えているナナカマドの木も、まだその花を咲かせてはいない。もっと暖かくなった頃、小さな白い花を枝一杯に咲かせ、魔法使いの町アクサナはまるで雪に包まれたかのように白く染まる。夏から晩秋には小さな赤い実がたわわに実り、町は赤く色づく。でも、その姿を僕はもう見る事はない。
魔法の力を持たない僕は、今日、この町を出て行く。
* * *
「ルカ、あんたどこに行ってたんだい」
家に戻った僕を見つけて、母さんが言った。
「うん、ちょっとね」
杖を持ち出した事がバレたら怒られるだろうから、それは黙っていた。杖はさっき蔵に戻してきた。
魔法使いだから、その気になれば指をパチンと鳴らすだけで、目の前にある材料を一瞬でおいしい料理に化けさせる事もできる。でも実際にはそんなに魔法は使わない。指を差して竃の薪に火をつけたり、手のひらで撫でてジャガイモの皮をつるりと剥いたりというように、効率的に作業を進めるのに使う程度だ。
母さんが作った料理を弟のレフが運んでいた。レフは八歳になったばかりで、運ぶ手つきが危なっかしいが、落としそうになってもレフが指を差せば、料理を乗せた皿が宙に浮き、ふわりふわりと浮きながらダイニングテーブルに向かっていく。
だったら始めから魔法を使えばいいじゃないかと思うところだが、魔法使いたちは必要以上に魔法に頼らず、普通に生活をしている。レフも僕と同じように左手の甲に星の形のアザがある。アザの位置を見れば、どこの家系かだいたいわかる。
ゼレノヴァ家の長男は僕だけど、魔法を使えない以上は当主になれない。ゼレノヴァ家はレフが継ぐ事になる。だから僕はこの家を出て、遠い港町レナートに行く。そこには全寮制の王立クライン大学レナート校があり、僕はその中等部に転校する。
魔法使いの一族の中に、時々、魔法を使えない子供が生まれる。十歳になるまでに魔法の力に目覚めなければ、魔法使いにはなれないと言われている。魔法使いの町アクサナには魔法使いしか住んではいけないし、この町を出たら、もう二度と帰ってきてはいけない。それが魔法使いの一族の掟なんだ。だから、魔法を使えない子供は魔法使いの町を捨て、知らない町で生きていくしかない。昔は十歳になる日までしか猶予は与えられなかったらしい。そういう子供たちは十歳の証生日に森の奥深くに置き去りにされたという。そんな残酷な風習は、二十年前くらいまで続いていた。今は僕のように十四歳の誕生日を迎える頃に遠い町の学校に入れられ、そこで独り立ちしていく。
おじいさん、おばあさん、母さん、レフ、そして僕の全員が食卓に揃ったのを確認すると、当主である父さんがお祈りを始めた。僕たちもそれに合わせてお祈りをする。お祈りが終わると食事が始まる。
ダイニングテーブルに並べられたのは、ヤギのミルクと、ヤギのミルクで作ったチーズ、そして細長く切り分けられたバゲットだ。ヤギのミルクは春先から搾れるようになる。ちょうど今が採り始めの時期だ。ヤギのミルクで作ったチーズは断面を火で炙って柔らかくなったところを削って食べる。これはラクレットと呼ばれるチーズで、あちこちでヤギを飼っている魔法使いの町ではごくありふれた食べ物だ。
僕とレフは手のひらサイズに切られたラクレットに金串を刺し、暖炉に行って、赤々と燃える薪の上にラクレットをかざした。やがてラクレットはとろとろに溶け始め、今にも薪の上に落ちそうになる。香ばしいチーズの匂いが僕の嗅覚を刺激して、まるで僕自身がチーズフォンデュの海の中にポトリと落ちてしまったように思える。
ラクレットが暖炉に零れ落ちる前に、僕とレフは左手に持っていたバゲットと呼ばれる固いパンの上に乗せた。バゲットは細長く切られていて、溶けて伸びたラクレットをうまく受け止める。僕たちは急いでダイニングテーブルに戻り、ラクレットが乗ったバケットを皿の上に置いた。
ヤギのミルクを口に含むと濃厚な乳の味が口いっぱいに広がる。鼻腔を草原の匂いがくすぐる。それでいて喉越しはすっきりしていて後味がいい。魔法使いの町のヤギたちは、この町で栽培されている質のいい牧草とトウモロコシと麦を食べて育つから、そのミルクは獣臭くないどころか、驚くほど爽やかな味がする。
ヤギのミルクで湿った口で、熱々のラクレットが乗ったバゲットにかぶりつく。びよーんと伸びたラクレットが前歯に絡みつく。バゲットがバリッと音を立てて奥歯ですり潰され、そして香ばしいラクレットの味と匂いが、僕の口の中から全身に広がる。魔法使いの町を取り囲む大自然に、僕はみるみるうちに包み込まれていく。
レフはそんな僕と全く同じように食べる。僕の真似をしながらいろんな事を覚えていく。口いっぱいに頬張って、レフはニコニコしながら僕を見ていた。
今日は僕が魔法使いの町を出て行く日、つまり、この家を出て行く日だからか、父さんが家に帰ってきている。父さんは魔法の番人ガヴリイルと呼ばれていて、太古に眠ってしまった魔法を蘇らせ、あらゆる魔法を使いこなす。いつも小難しい顔をしていて、機嫌がいいのか悪いのか判断ができない。普段は王都ラビナで暮らし、王の魔法使いとしてルスラーン王に仕えている。王都ラビナは、魔法使いの町から馬車で三時間、そして列車に乗り換えて四時間かかるくらい遠いけど、父さんは誰よりも早く空を飛べるから、一時間足らずで王都ラビナから魔法使いの町まで帰ってこられる。
ちなみに父さんが空を飛ぶ時に乗るのは杖でも箒でもなく、大きなまな板だ。大きな魚を捌くための業務用のまな板だ。いろいろ試してみたようだけど、大きなまな板が一番しっくりきたらしい。しかめっ面で厳格そうな父さんが、風除けのゴーグルをして、まな板に乗って空をビュンと飛んでいる姿は、カッコいいのか悪いのか、僕には判断できない。でも、縦に細長い臼に乗って、地面すれすれを飛ぶという伝説の魔女バーバ・ヤーガよりはいいかな、と思う。
空を飛ぶ事に慣れるように、僕は小さな頃から父さんのまな板に乗せられて、一緒にこの大空を飛び回っていた。父さんはいつか僕が自分の力で飛ぶ日が来る事を願っていたのだと思う。
「支度はできているのか?」
しかめっ面の父さんが僕に聞いた。
「まだだけど、もう少しでできるよ」
「もうすぐマクシムさんが着く頃だ。朝ごはんが済んだら急いで支度しなさい」
「うん、わかったよ」
僕は口をモグモグさせながら答えた。そこにおじいさんが口を挟んだ。
「ルカ、この町を出て行っても、ゼレノヴァ家の誇りを忘れないようにの」
おじいさんは魔法の賢者ゲラーシーと呼ばれていて、魔法の事なら何でも知ってる物知りじいさんだ。父さんに家督を譲った後は、魔法使いの町に戻ってのんびりと毎日を過ごしている。のんびりと、と言えば聞こえはいいが、ぼんやりとしているように僕には思える。
「うん、わかったよ」
僕は相変わらずモグモグしながら答えた。おじいさんはぼんやりした表情のまま続けた。
「お前は行儀が良くて利口な子じゃが、これからはもっと自由に生きていくんじゃよ」
おじいさんはそう言うと、椅子に座ったまま目を閉じた。どうやら眠ってしまったらしい。
* * *
カランカランと鐘を鳴らす音が聞こえた。
窓の外を見ると、カエル池よりもっと先の町外れに整然と立つ杉並木を過ぎて左に曲がったところにある牧場の老主人マクシムじいさんが、荷馬車に付けられている鐘を鳴らしていた。ハンチング帽を被ったマクシムじいさんの荷馬車が家の前に来ていた。荷馬車は大きな幌がかけられ、荷台には羊毛が詰められた袋がぎっしりと積まれている。炭鉱の町ニーナに羊毛を運ぶついでに、僕は乗せていってもらうんだ。僕はニーナから列車に乗って、海沿いをずっと北に行き、港町レナートを目指す。
「今行くから待ってて!」
僕は窓から身を乗り出して、マクシムじいさんに声をかけた。マクシムじいさんは深い皺が刻まれた顔をほころばせた。
僕は少しばかりの荷物を入れた鞄を羊毛が入った袋の隙間に突っ込んだ。寄宿舎に入るので、身の回りの物くらいしか持って行く必要はない。そして荷馬車の荷台によじ登り、後ろ向きに座った。
僕は母さんがこの日のために仕立ててくれた真新しいジャケットとズボンを着ていた。灰色の生地のジャケットには、深緑の糸で紡がれたチェック模様が入っている。
「兄さん、いつ帰ってくるの?」
レフが馬車に駆け寄って僕に尋ねた。
「さあ、わかんないな」
僕はそう言ったが、二度とこの町に帰る事はない。
「えー。僕も一緒に行きたいなー」
事情を全く分かっていないレフは無邪気に言った。
「母さんたちの事頼んだぞ」
僕はレフにそう言うと、マクシムじいさんに声をかけた。
「マクシムじいさん、もういいよ。出発して」
「じゃあ、行こうかね」
マクシムじいさんは頭の上のハンチング帽を取って、父さんたちに向かって振った。父さんたちは手を挙げて応えた。いつの間にか、この町に住む僕の友達が何人も見送りに来ていた。皆、僕の名前を呼んでいる。
馬車はガタガタと揺れながら、道を進み始めた。皆が僕を見ながら手を振っている。僕も手を振ろうと思ったけど、何故だか手が動かなかった。遠ざかっていく皆の姿をただ見つめていた。僕はこの町にはいられない。だって僕は魔法使いじゃないから。僕だけ魔法使いじゃないから。
今日は僕の十四歳の誕生日だ。僕は自分が何者なのかわからないけど、魔法の力を授からなかった事だけは確かだ。だから未練なんかない。この町の友達も大人たちも、噴水広場も眼鏡橋も杉並木も牧場も、そして丘から見える森も海も山も、きっと僕は二度と会わないだろう。
僕はもう十四歳だから、全然悲しくなんかない。悲しくないのに涙が溢れてしまうんだ。僕の両目から涙がぼろぼろ流れ落ちる。皆の姿も風景も、涙で霞んで見えなくなってきた。荷馬車がガタガタと揺れる。何もかもが揺れて、いつしか霞のように消えていった。
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