第4話 月下の嘆き

「星彩、あいつとは二人きりになるな。楊佳か、他に誰でもいいから人を呼べ。近くに誰もいなきゃ蘭蘭に乗って逃げろ」

 李俊が去った後、宗麟は懇々と星彩に言い聞かせた。

「どうして?」

「あいつは星彩くらいの年の人間を攫うのが趣味なんだ」

「・・・人攫いって、趣味なの?」

「くれぐれも油断はするな」

「う、うーん、李舜はちょっと変わった人なんだね」

「ちょっと、と言えるものかどうか・・・」

 考え込んでしまった宗麟の袖を、星彩は引く。

「今日はお仕事終わり?」

「・・・そうだな、終わりにするか。急ぐ用件もないし」

 そうして星彩の隣、蘭蘭の体を背もたれにして腰を降ろした。ちょうどそこには天祥がいたため、宗麟は抱き上げて膝に乗せる。獣たちは彼にもよく懐いていた。

「ねえ、宗麟、聞いて聞いて!」

「なんだ?」

「さっき、わたしまた幽霊に会ったんだよ」

「って、昨夜の女の幽霊か?」

「ううん、別の人。慧㕮っ」

「ケイフ・・・て」

「恭を建てた最初の王さま。びっくりだよねっ。死んだ日からずっとお城に憑いてるんだって」

「微妙に怖いな、それ。何か恨みでもあるのか?」

「国の行く末を見届けたいんだって。恨みはないと思うけど、でもなんか、宗麟のこと怒ってたよ?」

「えー・・・」

「どうしてって聞いても教えてくれなかったよ」

「何かヘマしたっけか? 高祖に見られてるとは、やりにくいな」

 宗麟はやや困ったように苦笑していた。

「宗麟は、やっぱり幽霊見えないの?」

「見たことはないな。星彩はそんなにしょっちゅう見るのか?」

「ううん、わたしも昨日が初めてだったよ。玄じいに聞いたら、今は幽霊がよく見える時期なんだって。慧㕮はわたしに頼み事があるんだって言ってた。でも今日はもういいって言って、結局、一緒に空を飛び回っただけで何も話してくれなかったよ」

「・・・空、飛んだのか?」

「うん。ちょっと怖かったけど、楽しかったよ!」

「すごいなあ、星彩は」

 宗麟は本気で感心しているようだ。

「昨日の幽霊にも、もしまた会ったらちゃんとお話聞いてあげようかなって思う。あ、今度は叫ばないようにするね」

「怖かったら無理するな?」

「平気! あれは、いきなり頭が消えてびっくりしちゃっただけだから」

「・・・確かに、それはびっくりだ」

「消えるってわかったからもう大丈夫っ」

「そうか」

 意気込みを表明する星彩の頭を、宗麟は笑いながらなでた。

「星彩は死人の相手もしなきゃならなくて大変だな」

「そんなことないよっ」

 星彩の脳裏に浮かぶのは、とめどなく涙を流す女と、悲しげな慧㕮の横顔。

 生きている時は、泣いていれば誰かが慰めてくれるかもしれない。しかし、誰にでも見える存在ではなくなってしまって、誰にも気付いてもらえない悲しみを抱えているのかと思うと、胸が締め付けられる。

「死んでいても、見えるし触れるんだもの。泣いてたら慰めてあげたいし、頼み事があるなら聞いてあげたいよ。・・・でも不思議。どうしてみんなは見えないんだろう?」

 うーん、と星彩は首を捻る。

「バンショウノミコって、なんなのかな?」

「・・・星彩?」

 宗麟が切れ長の目を見開いた。

「それ、どこで聞いた?」

「慧㕮に言われたの。そーいえば周迂も言ってたっけ。どうしてみんなに聞こえないものが聞こえるのって訊いたら、わたしはバンショウノミコだからだって、教えてくれたの。でも、なんなのかよくわかんない」

「・・・」

「まあ、とにかくわたしは見えるんだから、話してみるよっ」

 なぜ自分だけ聞こえるのか、見えるのかという疑問は今更と言えば今更だ。そういう自分を受け入れてくれる人があって、求めてくれるモノが存在しているのなら、不思議な力の由来などどうでもいい。

 それからしばらく他愛ない会話をして、日が暮れる前に後宮へ戻った。

 李舜から聞いた宗麟の母の話には、ついに触れなかった。口止めをされていたのはもとより、何と言葉をかけたらいいのか、わからなかったのだ。

 普段、思ったことは何でも宗麟に話してしまう星彩だから、口を噤んでいると心の内にもやもやしたものが残っているようで、気分が晴れない。

 そのせいか、夜、寝所に潜って目を閉じていても、なかなか寝付けなかった。

 いつもは星彩のほうが寝入るのは早いのだが、今日は隣から規則的な寝息が聞こえてくる。

(・・・宗麟の母さまが、人を殺したかもしれない、かあ)

 暗闇の中、宗麟の胸に顔を埋めて、考えていることは先程から同じだ。

 宗麟は、激しい感情を表に出すということがない。星彩が危ないことをした時だって、怒るというより諭すようであり、家臣たちに怒鳴ったりという話も聞かない。

 いつも余裕があって、優しくて寛大で、どんなことも笑って受け入れてくれる。

 よって、実の母を憎み、死んだ後も墓に参ることもせず少しも赦していないのだということが、俄かには信じられなかった。

(・・・母さま、かあ)

 同時に、己の母のことも想った。

 とても優しく、綺麗だった母。星彩と同じ力を持っていて、何を言っても全部理解してくれた。

 頭をなでてくれた温かい手も、抱きしめてくれた時の香りも、やわらかな微笑みも、浮かぶ光景はすべて星彩を幸福な気持ちにしてくれる。

(宗麟は、そうじゃないのかな)

 それはとても、悲しいことのように思えた。


 その時、啜り泣く声がした。


「―――」

 宗麟を起こさないよう、星彩はそっと寝所を出る。

 蘭蘭も天祥も眠っていたため、今夜は星彩一人だ。月明かりの下、女が泣いている。

 昨夜は声を掛けたら消えてしまったので、欄干に座り、泣き止むのを待ってみた。しかし涙は少しも止む気配がない。

 じっと星彩が見つめているのさえ気付いていないように、女はただただ泣いている。

「・・・そんなに、悲しいことがあったの?」

 尋ねるというより、ほとんど独り言のように呟いていた。

『―――あの女は、そなたの夫の母なのだ』

 いつの間にか慧㕮が横に浮いている。

 夜闇の中でもはっきりと姿のわかる彼は、悲しげに女を見つめていた。

「宗麟の、母さま?」

 目を丸くしている星彩に、慧㕮は静かに頷く。

『そうだ。しかしあの男は幽鬼に気づけない。・・・いくら泣こうが、伝わらぬ』

「・・・」

『余は、それが悔しい』

 不意に、慧㕮は宙を滑り、女の側へ寄った。そうして、その手が触れるか触れぬかというところまで来たとき、女の姿が掻き消える。

 慧㕮は何も掴めなかった手を拳の形にして、下げた。

『・・・幽鬼の力は、その魂により、すでに決まっておる。この哀れな女は力弱く、存在が安定しておらぬ。余のような気を乱すモノが近づいただけで途端に消える。・・・口を利くことすら、ままならぬのだ』

 何もなくなってしまった空間に佇んでいる慧㕮は、その立派な体躯が萎んでしまっているように見える。

 建国の英雄が、まるで無力感に打ちひしがれていた。

「慧㕮」

 星彩は欄干を飛び降り、慧㕮の袖を掴んだ。

「宗麟の母さまは、何を伝えたいの?」

『・・・無念だよ。星彩、明日、再び玉座へ来てくれ。そなたに余の知る限りの全てを教えよう』

 慧㕮はすがるような目を向けた。

『あの女を救ってくれ』

 それだけ言って、月光に溶け消えた。

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