第3話 母のこと

「伯符、どこを見ておる」

 じっと空を見上げている部下を、縻達びたつが咎めた。

「・・・今、妃殿下が空を飛んでいたような」

「は?」

「いえ、おそらく、白昼夢ですね。じゃなきゃ何だアレ」

「お前の申すことはわからぬ」

「僕も、わかりません」

「おーい、報告があるならさっさとしろー」

 いつもの政務室で、書簡の積まれた机を前にしている宗麟が、家臣らに声を掛ける。

 縻達と伯符の二人がそろって現れ、頼んでいた案件の報告にやって来たのだが、上司が喋っている間、伯符はよく余所見をして話を聞いていないので、自分の番が来てもすぐには気づかない。よっていちいち流れが止まる。

 ところが、礼に厳しい頑固宰相と呼ばれる縻達は、意外にもこの無礼な部下を怒鳴りつけることが少ない。宗麟ですら未だに叱られることが多いのに(主に星彩の件で)、何かコツでもあるのだろうか。

「あー、はいはい。報告しますー」

 自分の調子を少しも崩そうとしない伯符は、様々な案件の現状における進み具合、改善の提案などをつらつらと述べる。

 宗麟は他の書簡にも目を通しつつ、そちらにも答えていく。

 報告自体は、ものの数分で終わった。

「―――陛下、いまひとつご連絡がございます」

 一通り用件が済んだあと、縻達が言った。

「連絡?」

 妙な言い回しに、書簡から顔を上げる。

「一度、燕尾宮に遊びにいらっしゃらぬかと、先王からのご伝言にございます」

「・・・」

 宗麟は答えず、再び書簡に視線を落とした。

「陛下」

 縻達は咎めるように主を呼ぶ。

「先王のお誘いにございますぞ」

「あそこにあるのは役目を終えた老体と墓だけだ。行って何の意味がある」

「新年のご挨拶にもまだ伺っていないでしょう。お母上の命日も近いのですぞ」

「そうだったか?」

 宗麟の返事はどこまでも素っ気ない。

 縻達は眉間の皺を深くした。

「徳高き王の評判に傷がつきまするぞ。親不孝と謗られたくなくば、お顔くらいお見せになられませ」

「非難したい奴には言わせておけばいい。さっきも李舜相手に同じ問答をしたばかりだ。二度とこの話を持ってくるな」

「李将軍がお見えになられたのですか?」

「あ、僕は、先程お見かけいたしましたよ。なぜか挙動不審で、女官を捕まえて何かを尋ね、どこかへ向かわれましたが」

 のんびりとした伯符の言葉に、宗麟はぴたりと筆を止めた。

「・・・あいつ、まだ帰ってないのか」

 書簡を置き、椅子を立つ。

「どこに行かれるんです?」

「変質者の駆除」

「陛下っ、ご政務の途中ですぞ!」

「許せ。星彩が目を付けられてるんだ」

「・・・」

「相変わらず、関わり合いになりたくない人種ですねえ」

 李舜の性癖は、城内の人間ならよく知るところだ。

 縻達は黙ってしまい、伯符は納得してしまって、結局、宗麟を止める者はいなかった。



**




『星彩、大丈夫?』

「う・・・ん」

 寝転んでいる星彩の頬を、天祥が心配そうに鼻でつつく。

 慧㕮は散々、空中散歩をした後、ついに何の用件も言わず姿を消してしまった。十分楽しめたから、今日はもう明日に備えて休むのだと言う。

 一体、明日何があるのかわからないが、星彩も叫び疲れ、降ろされた庭園で蘭蘭を枕に寝そべって休んでいた。

「空なんて初めて飛んだもん。びっくりしちゃったよ」

 温かい蘭蘭の体に抱きつき、安定した地面にほっと息を吐く。

『空、怖い? 飛ぶ、怖い?』

 星彩のすぐ側に転がって、天祥が尋ねた。

「怖かった、けど、ちょっと楽しかったよ。もっとゆっくり飛んでくれるなら、もう一回飛びたいなあ」

『天祥も!』

「次はお願いしてみよっか」

『いいわねえ、小さい子たちは』

「蘭蘭もお願いする?」

『無理でしょ。いいわよ、アタシは飛ぶより速く走るから』

『蘭蘭、いじけた!』

『うるさいわねえ。大体ね天祥、アナタ神獣なんだから自分で飛べるんじゃないの? 幽霊だって飛べるのよ?』

『天祥、羽ない。飛ばない』

『そーいえば幽霊ってなんで飛べるのかしらね』

「ほんとだねー」

 鳥のように羽もなく、かといって風に流されているようでもない。慧㕮は幽霊のことを世の理から外れた存在と言っていたから、理屈を考えても答えは出ないのかもしれないが。

「―――お、こんなところにいた」

 ふと、声が聞こえて、そちらを見やればちょうど李舜が向かって来るところだった。

「李舜! お仕事終わったの?」

「報告を済ませたら今日はもう終わりさ。ところで星彩、その虎は近寄っても構わないかい?」

「うん。蘭蘭は人を襲わないから平気だよ」

「では遠慮なく」

 李舜は微笑みを浮かべながら本当にすぐ側まで来た。立派な官服を着ているというのに、地面に座ることにも躊躇う様子はない。

「ぜひ、君とゆっくり話がしたくて今まで探していたんだよ」

「わたしと?」

 普段、星彩に用がある者はあまりない。今日はよく話しかけられる日だなあと思う。

「もうしばらくしたら、また燕州に向かわねばならないんだ。今日に限らず、それまでに君とはもっとたくさん会って、ぜひ仲良くなりたいと思うんだが、いいかな?」

「もちろんっ。わたしでよければいつでも話相手になるよっ」

「ありがとう」

 李舜はすっと星彩の手を取って、甲に口付けた。

「わっ、なに?」

「これは遠い異国の地で、男が女にする挨拶なのだそうだよ」

「ふ、ふうん? ちょっと恥ずかしい挨拶だね」

 口付けなど宗麟か、でなくば母くらいにしか、してもらったことはない。

 そもそも家族でもない男に触れられること自体、貴人たちの間ではあり得ないことなのだが、星彩はそこのところをあまりわかっていなかった。

「他にも、頬に口付けるのが挨拶になるらしいよ」

 すると急に李舜が顔を近づける。

「え? あの・・・」

『はい、調子に乗らなーい』

 わずかに身を引いた星彩に応え、蘭蘭は李舜が友に触れる前に頭突きで押し戻す。

『ここまであからさまな男も珍しいわね。これが例の従兄弟?』

「う、うん」

 ついでに唸り声で威嚇されても、李舜は蘭蘭を怖がる風もなく笑っていた。

「ははっ、頼もしい護衛だね。ま、今の挨拶は宗麟にでもやってあげたまえ。きっと喜ぶさ」

「そう? びっくりされそうだけど」

「星彩、君のことは色々と宗麟に聞いたよ。まあ、警戒されて詳しいところまでは聞けなかったんだが」

『警戒されるような何を聞いたわけ?』

 蘭蘭が横から茶々をいれるが、李舜は聞こえないため先を続けた。

「あいつは君のことを随分と気に入っているようだったが、君の方は宗麟のことをどう思っているんだい?」

「どう、って?」

「好きかい?」

「大好きだよっ」

 即答した。

「宗麟はとっても優しくて、私の話を聞いてくれるし、励まして、いろいろ許してくれる。いつも、みんなのためにお仕事がんばってるの、とっても尊敬してるよっ」

「ふうん?」

「それにねっ、白龍に乗せてくれるし、木陰で一緒にお昼寝したり、街に連れてってくれるし、夜は妓楼で遊んだりするんだよっ。二人でこっそりお城を抜け出すのっ。後で絶対に楊佳や韓当に怒られるんだけどね。うっかり縻達にバレるとものすごく大変。あ、でもそんなにしょっちゅうは遊んでないよっ。宗麟は忙しいから」

「・・・ふっ、あははっ」

 じっと話を聞いていた李舜は、あるところで堪え切れないように吹き出した。

「なるほど。君たちは本当に仲が良いんだね。まるで王族とは思えないよ。若い恭にはふさわしい夫婦だ」

「ええっと、それ、いいの? 悪いの?」

「とてもいいよ」

 李舜はにっこり微笑んだ。

「安心したよ。政略結婚なんかして、あいつはまた自分を殺しているんじゃないかと心配していたんだ」

「え?」

「だがよかった。しっかりちゃっかり、好きな相手を選んでいたんだな」

 あいつらしいよ、と独り言のように呟く。

「ねえ、どーゆーこと? 宗麟が自分を殺してるって」

「・・・星彩は、あいつに弟がいたことを知っているかい?」

「うん。宗麟に聞いたよっ。その、王位争いがあったってことも」

「なら話は早い。宗麟にとって、偶然転がり込んできた王位なんてものは窮屈で面倒なものだという以外にない。争うくらいなら出来の良い弟が主君になって自分はそれに仕えるのでも良いと言っていたくらい、兄としての自負もない奴なんだ。――ただし、律義ではある。今、あいつが王位に大人しく収まっているのは義務感からだろう。自分を殺して我慢しているのだろうと思う。本当はあいつだって弟のように逃げ出したかったはずなんだ」

「・・・」

「だから政略結婚で同じように自分を殺して恭に嫁いで来た妃なんかが傍にいて、ますます息を詰まらせていやしないかと心配していたんだ。あんまり哀れなようなら適当に幼女を見繕ってやろうと手配していたが」

『いや、そこで自分の趣味を押し付けちゃ駄目でしょ』

「どうやら取り越し苦労だったようだ。君が恭に来てくれて良かった」

 蘭蘭の指摘はやはり聞こえず、李舜は胡坐の上に頬杖などをつきながら、星彩をじっと見つめていた。

「・・・わたし、宗麟に息抜き、させてあげられてるの?」

「もちろんだとも。宗麟は君の前で笑うだろう?」

「うん。よく笑ってくれるよっ」

「それは君の前では力を抜いている証拠だよ。――昔の醜い争いを経験して、あいつは王族というものが基本的に好きではないんだ。貴族も嫌いでね・・・星彩、君は宗麟に母の話を聞いたことはあるかい?」

「え? ううん、あんまり」

 宗麟の母は、三年前に病で死んだとだけは聞いている。が、それ以外の話などこれまで一度も聞いたことはなかった。

「宗麟の母は、まあ私にとっては叔母にあたるわけだが、そろそろ命日が近いんだ。墓所は叔母上がお生まれになった安慶という街の、燕尾宮という所にある。現在は先王と奥方の連珠れんしゅさまがお住まいになっておられるのだが、あいつは一度も出向かない」

「一度も? って、つまり、母さまのお墓参りに行ってないってこと?」

 神妙な顔つきで李舜が頷く。

「先王はそれを気にされていてね。豊邑へ帰還するついでにご挨拶に寄ったら、あいつを燕尾宮まで出向かせるよう説得を頼まれたんだ。ま、案の定、今年も行かないと言われてしまったがね」

「どうして?」

「母を憎んでいるからだよ」

「え・・・」

 一瞬、言葉に詰まってしまった。

「ど、どういうこと?」

「五年前、王位争いが終わるきっかけになった事件、星彩は知っているのだよね?」

「う、ん。宗麟に、呪詛をかけようとした跡が見つかったって。それで、宗麒の恋人が殺されちゃったんだよね?」

「そう。ついに女までもが殺された、惨劇だ。・・・宗麟はね、あれを仕組んだのは自分の母親だと思っているんだ」

「え・・・」

 再び衝撃が胸を打つ。

「仕組んだ・・・って、でも、だって、宗麟の母さまだよね? どうして宗麟に呪詛をかけるの?」

「実際、呪詛の影響はなかった。痕跡があっただけなんだよ。呪いは失敗したのか、あるいはそもそも呪う気などなかったのか。前者であれば、宗麒の支持者の仕業。後者であれば・・・」

「・・・宗麟の、支持者、の、しわざ?」

 つまり、あたかも宗麒の支持者が呪いを掛けたように見せかけて、罪を被せたということ。それは、確かに、可能性として考えられないわけではない。

「叔母上の部屋に、呪詛に使われた人形と同じ物があったらしい」

 後宮の庭木に釘打たれていたものと全く同じ形状のものを、宗麟自身が見つけたそうだ。

「叔母上は本当に効果があるかどうかもわからない呪いを試すより、むしろ相手が試してみたかのように見せかけて、宗麒の母である連珠さまの失脚を狙ったのだというのが、あいつの出した結論さ。もっとも、事件は結局、連珠さまの周辺の侍女や宦官たちが勝手に行ったこととして片付けられた。・・・何が真実だったのか、もうわからないことだよ」

「・・・」

 本当に連珠が宗麟に呪詛をかけようとしたのか、あるいは周りの者が勝手にやったことなのか、はたまた宗麟の考えた通り、彼の母が企んだことであったのか。

 ろくな審議もされず、裁きは下されてしまった。

 もう確かめようはないのだと言う。

「宗麟の母さまが、ほんとに、ほんとにそんなことを・・・?」

「・・・まったく同じ呪詛の道具があったというのは、まあ、怪しいんだろうね。叔母上は息子の即位を強く望んでいて、実際、王にもしきりと働きかけていたらしい。あいつの中では、ほぼ確定事項になっているよ」

「・・・」

 宗麟は、弟と仲が良かった。王位など、欲しくはなかった。それなのに、実の母が罪の無い者たちを殺し、弟を追い詰めた。少なくとも、宗麟はそう思っているのだ。

 だから、母を憎んでいる。

 死んでも赦していない。

「そんな母親がいたから、あいつは貴族や王族の娘が嫌いなんだ。女だけでなく、権力に固執する人間をひどく嫌う」

 だからね、と李舜は手を伸ばしてうつむく星彩の頭をなでた。

「まっすぐにあいつを大好きだと言ってくれる君が王妃で良かったよ。きっと君が傍にいるだけで、あいつの心は救われている」

「・・・」

「ごめんよ、ずいぶんと落ち込ませてしまったね。暗すぎる話だったかな」

「・・・ううん」

 笑い返すことはできなかったが、心配そうな李舜に顔を上げて答えた。

「教えてくれてありがとう。宗麟は、わたしが思うより、ずっとずっとつらい想いをしてきたんだね」

 過去の話は本人からも色々聞いたが、こればかりは教えてもらえなかった。それだけ、宗麟にとって簡単に口に出せる事柄ではなかったということなのだろう。

「君が気にしてはいけないよ。すべては、もう終わったことだ。確かめようのない過去の真実が何であれ、今が変わるわけではない。君がいつものように笑っていなければ、宗麟まで落ち込んでしまうだろう?」

「――うん」

 恭の過去は、所詮、星彩は部外者なのだ。当時にいないのだから、誰にも何もしてあげられない。

 宗麟に、実の母を疑うなどということはして欲しくなかったが、そんなことを言える立場でもない。

 何も知らないから。何も知り得ないから。

 これは、仕方のないことなのだ。

「私がこんな話を君に聞かせたということは黙っていてくれたまえ。あいつが話さないことを勝手にばらしたとあっては今度こそ斬られるかもしれない」

「そ、そんなに怒ることなんだ? わかった。絶対に言わないよ」

 実際に自分の口を塞いでこくこくと頷いた。

 その生真面目な仕草に李舜も目元を緩める。

「では、もっと楽しい話をしよう。星彩、君と一緒に湯殿に入ることは可能かな?」

「え? っと、どう・・・だろ?」

『いや、だめでしょ。てかいきなり何の質問よ?』

「君の寝所に行くにはどうすればいい?」

「ええと・・・?」

『まともに相手しちゃだめよ、星彩。こいつ思った以上に危険人物だわ』

 蘭蘭が低く唸り始めるが、李舜はまったく気にしていない。

「ところで今日は何色の襦袢を着ているんだい?」

「襦袢の色って何種類もあるものなの?」

「ということは王道の白かな。うむ、予想通りだ」

 何かに満足して李舜が頷いたとき、その後頭部目がけて黒い影が走った。

「っ!」

 咄嗟に李舜が横に転げて避ける。

「あ、おしい」

 突然の襲撃者は暢気な声を上げて剣を腰に戻し、星彩の側にしゃがんだ。

「宗麟? どうしたの、こんなところで」

 今の時間はまだ政務をしているはずなのだが、恭王はなぜか一人でここにいる。

「変質者がまだ城内をうろついてると聞いたんで、ちょっと心配になって。案の定だったな」

「失礼だな。従兄弟を変質者呼ばわりとは」

「呼ばわりどころか従兄弟でなきゃ、とっくに捕まえてるぞ」

「私のどこが変質者だと言うんだ」

『いや、確実にそーでしょ』

 蘭蘭がげんなりとした様子で突っ込みをいれるが、やはり当人には聞こえない。

「星彩、あいつに妙なことはされてないか?」

「? うん、話してただけで・・・あ、手に口付けはされたけど。異国の挨拶の仕方なんだって」

「・・・」

「睨まないでくれたまえ。それ以上のことはしていないよ、誓って」

「したら殺すがな。いや、いっそする前に殺しておくか」

「目が、怖いぞ?」

 登城する際の礼儀として、李舜は剣を持っていない。じりじりと、万が一に備え警戒しながら後退していく。

「えっと・・・」

 なんだかよくわからないが、一触即発な雰囲気を察した星彩は、とりあえずこの場を収めた方が良かろうと首を捻り、宗麟の気を逸らす方法をひとつ思いついた。

「宗麟、ちょっとこっち向いてっ」

「ん?」

 呼びかけに振り向いた頬に、ちゅ、と小さく口付けた。

「これも異国の挨拶なんだって。李舜が宗麟にやってみろって、教えてくれたんだよっ」

 宗麟は驚いたように少し目を見開いて、しばらくしてから、李舜に向き直る。

「もういいから帰れ、お前」

「君も現金だな」

 李舜は苦笑し、構えを解いた。

「ではまたな、星彩。今度は私の屋敷にも遊びに来ておくれ」

「うんっ! またね!」

 星彩に手を振り返して、李舜は足取りも軽やかに去っていった。

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