第5話 恭の過去① 兄弟
翌日、誰もいない謁見の間に赴くと、慧㕮が玉座の前に立っていた。
「慧㕮、おはよう!」
声を掛けて、初めて気付いて振り返った。
『おはよう、星彩。こんな挨拶など幾年ぶりであろうかな』
昨晩と打って変わって、慧㕮は機嫌良さそうに笑っている。
「お話、聞きに来たよ」
『いいや』
ところが慧㕮は首を振った。
『聞くのではない。見るのだ』
「え?」
『今日は陰が最も満つる時。一年の内、余の力が最も増す時だ。淸から恭へとやって参り、何も知らぬそなたへ、すべてを教えよう。覚悟はあるか?』
「どういうこと?」
『かつてこの地に巻き起こった醜き争いの中、余が見てきたものを、そなたにも見せる。汝が夫のくぐった闇だ。知りたくば手を取れ』
「―――」
慧㕮の言っていることを、星彩は理解できたわけではない。
それでも、即座に差しのべられた手を掴んだ。
瞬間、周りが暗転し、体ごと何かに吸い寄せられる感覚がした。
『天祥と蘭蘭は待っておれ』
慧㕮が獣たちにそう言ったのだけが聞こえ、一度目を瞬いた後は、城の庭に立っていた。
「あれ?」
ここは確かに紫微城内である。しかし星彩は謁見の間にいたはずであり、ここまで歩いてきた記憶はない。
「んん??」
『危ないぞ』
きょろきょろと辺りを見回していると、手を繋いだままの慧㕮に引かれた。
「―――ハァッ!」
一瞬前まで星彩のいた場所を、馬が駆け抜けた。
「わあっ!?」
城内である。官吏や女官たちも歩く場所であるというのに、馬を駆る者が二人、先頭を黒馬、後ろに白馬が続き、その更に後を走って付いていく者がある。
「な、なに?」
『気になるのなら、見に行けば良い』
慧㕮は星彩を抱えてふわりと宙を浮き、疾走する馬に並走する形で飛ぶ。
馬上の人はどちらも少年だった。十五、六といったところだろう。黒馬の少年は知らない。白馬の少年は―――
「・・・ねえ、慧㕮」
『うむ?』
「あの人、すっごく宗麟に似てる」
短い髪に、切れ長の瞳、何より片耳だけにある赤い耳飾りは、まぎれもなく宗麟のものだ。
『その通り。これは十年前の記憶なのだ』
「・・・ええと?」
『そなたには今、余の記憶を見せておる。いや、記憶の中に入っておる、と言った方が近いのかもしれん。まあ、細かいことは気にするな』
「細かいことかな?」
『とにかく、そなたは余の力で過去にいるということだ』
「・・・えっと、じゃあ、これは十年前の宗麟なの? ってことは、今のわたしと同い年なんだー」
そう思って眺めると、とても不思議な感じがした。まだ十も半ばの宗麟は、今より少しばかり顔立ちが幼いし、背も伸びきっていない。しかし手綱捌きは見事なものだ。
「この白馬は、もしかして白龍かな? おーい! 宗麟! 白龍!」
手を振って声を掛けても、しかしどちらも振り向かない。
『無駄だ。これは余の記憶。そなたは干渉できない』
「?」
『誰もそなたが見えず、声は聞こえず、触れても気付かぬ。ここでは己が幽鬼になったと思え』
言われてみれば、人が飛んでいる時点で誰かが気付いて騒いでも良さそうなものである。今だって馬の横をぴったり付いて飛んでいるのだから、星彩が声を掛けようが掛けるまいが気付いていなければおかしいのだ。
これは慧㕮の記憶。星彩はそれを、ただ見るだけなのだ。
「それにしても危ないなあ。これじゃ誰か轢いちゃうよ」
少年たちはとても楽しげで、道行く官吏や女官たちが驚いて逃げ惑う様をけらけら笑っている。
「ねえ、黒い馬に乗ってる人は誰なの?」
『宗麒だ』
「え」
思わず息を呑んだ。
ずっと、話にだけ聞いてきた、宗麟の異母弟。武芸に秀で、頭も良く、破天荒な性格で多くの人に好かれていたのだという。
その昔の姿が、今、目の前にある。
「この人が、宗麒・・・」
後ろを走る者は従者であるようで、「お戻りください!」とか「縻達さまに叱られますよ!」とか「このクソガキどもいい加減にしろぉ!」など叫んでいるのを聞くと、どうやら二人を止めたいらしい。
だんだんへばってくる彼らを宗麒は大いに笑い、更に速く馬を駆る。彼に付いて行けるのは宗麟だけで、結局従者たちは途中で引き離され、完全に姿が見えなくなったのを確認してから、二人は馬を止めた。
「バカな奴ら! 捕まえたきゃ馬に乗ればいいのに! 走って追いつけるわけないだろ!」
少年らしい、快活で明朗な宗麒の声が響く。
「そう思わないか宗麟!」
と、ちょうど馬を降りた相手に同意を求めた。
「仕方がないさ。あいつらに城内を馬で駆けようなんて頭はないんだ」
白龍を木陰に引っ張ってゆき、宗麟は「あー疲れた」と自らも横になって休んだ。
「もう疲れたのか? だらしがないぞっ」
宗麒もまた馬を降り、寝そべる宗麟の横に腰を降ろした。
星彩も地面に降ろしてもらって、二人が並ぶ側に座った。
「おい、次は何して遊ぶ?」
「んー? 宗麒は何がしたいんだ?」
「このまま街に出てもいいが、また縻達に悪戯仕掛けてもいいなっ。あいつ本気で怒るから面白いんだよなっ、顔真っ赤にしてさっ」
その様を想像してみたのか、宗麒の声はうきうきと弾んでいる。
「ん、じゃあ、そうするかー」
宗麟は弟の提案に一切の反論もなく、軽い調子で同意した。すると宗麒の方が、笑みを消して不満げに口を尖らせた。
「お前、たまには何か言えよ。考えるのは俺ばかりじゃないか」
「いいだろ。宗麒が考えることの方が楽しいんだから」
「そりゃまあ、そうだけどなっ。でもなー―――あ、そうだ、縻達への悪戯、宗麟が考えろよっ」
「俺が?」
「たまには頭使え!」
「いっつも使ってないみたいに言うなよ」
宗麟は弟を睨みつつ、身を起こす。
「・・・・じゃあ、屋根の上からたらいを落とすってのはどうだ? 縻達以外にも当たるかもしれないが、それはそれで」
「お、いいな! よし、盥を集めて・・・あ、卵ぶつけても面白いんじゃないか? 他にも水桶とか!」
「なら、厨房からくすねて来よう」
二人は嬉々として計画を話し合っている。
「・・・・宗麟、宗麒、悪い子」
『悪童だよ、まったく』
くく、と慧㕮は笑みを漏らした。
そこへ、「ああ見つけたぁっ!」と更に別の声が慌てた様子でやって来た。
「お二方! さっさとお部屋へお戻りください! お勉強の途中でしょうがっ!」
「おお韓当、ちょうどいいところに」
そう言って、宗麒は現れた少年の腕を掴んだ。
「え? な、なんです?」
「今から官吏どもをからかいに行くんだ。荷物を持て」
宗麟がもう片方の腕を掴み、二人は少年従者を引き摺って行く。
「なっ!? お放しください! 私はそんなことに協力いたしませんよっ!?」
いくらもがいても、がっちりと両脇を固められ、ただ叫びだけがむなしく響くのみだった。
「そーいえば、韓当は宗麟の乳兄弟だっけ。昔からああやって遊んでたんだね」
『あの者に関しては遊ばれていると言ったほうが正しい気はするがな』
少年たちの背を見送る慧㕮は遠い目をしていた。
『童の時分には、彼奴らはこのように毎日遊んでおった。官吏や兵士どもに悪戯を仕掛け、時には王の手すら煩わせておった。城は勝手に抜け出し、下々とも気安く戯れる。いくら叱りつけられようが反省せず、もう出てはならぬと閉じ込められようが、あの手この手で遊びに出掛ける。本当に、どうしようもなき小童どもであったよ』
「ふうん?」
宗麟が、星彩の振る舞いをかなり許してくれるのは、もしかすると自分も昔、そうして遊んでいたからなのだろうかと、ふと思った。
考えてみれば馬に乗って城内を駆け回る行為は、星彩が蘭蘭に乗って駆け回るのと同じことだ。
『この時期が、一番楽しかった頃なのであろう』
慧㕮が呟いた時、目の前の景色が流れた。
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