第8話 虎と公子

「ふむ・・・」

 揺れる車の中から豊邑の街並みを、少年は興味深げに眺めていた。

 恭の兵士が先導に立ち、雑多な人ごみを左右へ払い、まっすぐに城へと繋がる大通りを壮麗な亜の行列が進んでゆく。

「聞きしに勝る盛況ぶりだな」

「さようでございますな」

 人の多さに驚いて感想を漏らすと、同乗している彼の世話役の男も頷いた。

「新興国といえど、昨今の恭はその勢い目覚ましく、周辺諸国との同盟により、いよいよ盤石となって参りました」

「大国淸、更にこの亜とも結び、調子づいているというところだろう。気に入らん」

 少年は、立派な城の構えに向かって唾を吐いた。

「待っていろ恭王。その高々と掲げた鼻を、私がへし折ってやる。恭人の度肝を抜いてやろうではないか」

 後方に続く幌馬車を見遣って、小さく笑った。



 *



「えっと・・・ここ、と、これっ」

 ぽん、ぺん、と箏の弦を、星彩は真剣な顔で弾く。

「星彩さま、もっと肩の力をお抜きになって」

 隣に座る朧月が、お手本に弦を弾くと、同じ楽器なのに全く違う響きになる。

「あれー?」

「さ、今一度」

「うん!」

 午後の昼下がり、朧月の指導を受けながら、後宮で星彩は箏の練習をしていた。これまで触れたこともなかった楽器を始めて半月ほど。まだ曲の一つも満足に弾けないが、朧月は焦ることなくゆっくりと教えてくれるから、星彩も気楽に習っている。

 しかし箏はなかなか難しい。

 朧月に教えられた通りに弾いているつもりなのに、音の質はまるで違う。星彩がどこか間の抜けた音であるのに対し、朧月の指先が奏でるものは深く遠く、どこまでも響くようなのである。

 たった一音、出すだけでもこんなに違うのだから、朧月のように演奏できるようになるまでには、万里ほどの道のりもあろう。

「今日は、ここまでにいたしましょうか?」

「う、ん・・・」

 一刻ほど根を詰めたせいで、星彩はぐったりと机に突っ伏した。

「うう、難しいなあ」

「まだお始めになったばかりですもの。焦らず、少しお休みくださいませ」

「うんっ、じゃあちょっと遊びに行って来ようかなっ」

 遊びと聞いて、椅子に寝ていた天祥がぱっと飛び起き、星彩の肩に乗った。

『星彩、終わり? やった!』

 習い事や勉強のある時は構ってもらえない天祥だが、一匹で遊びに行くことはなく、いつも星彩が終わるまで待って、終わるや嬉々として寄って来る。

「行ってきまーす!」

 ぐーっと体を伸ばしてから、部屋を飛び出す。

「お待ちください!」

 ところが数歩も行かないうちに、廊下をぱたぱたと慌ててやって来た楊佳に止められた。

「星彩さま、今日はお部屋で大人しくなさっていてください」

「え? なんで?」

 やるべきことをやっていれば遊びに出掛けるのにも寛容になってきたはずの楊佳に、無理やり押し戻されて困惑してしまう。

「先刻、亜国の使者が到着いたしました。城中が騒がしくなりますから、星彩さまは後宮にいらっしゃるようにとのことでございます」

「え、使者が来たの!?」

 確かに、宗麟にそのことを聞いてから三日が経った。予定通りの到着というわけだ。

「ええ、ですから、本日はお部屋で大人しくなさっていてください。もしそのような格好で見つかれば、あちらもこちらも大変、気まずくなります」

「じゃあ、わたしは使者がいる間、ずっと閉じこもってなきゃならないの?」

「ほんの少しの辛抱にございます」

「そんなあ」

 肩をすくめて楊佳を見つめると、楊佳の方も少しだけ戸惑い眉を寄せたが、同情心を振り払うように背筋をぴんと伸ばした。

「そのようなお顔をされても駄目です。大人しくなさっていてください。あるいは、星彩さまもお呼びが掛かるかもしれませんし、お支度をなさって待機していただきます。――――朧月先生、本日はいま少し箏のお稽古をお願いいたします。私は星彩さまのご衣裳の準備をして参りますので」

 つまり、楊佳が戻って来るまで、朧月に監視していろというわけだ。

 仕方なく、星彩は朧月の隣に戻った。肩の上では天祥も残念そうに耳を垂れている。

「亜国の使者はどんな人なのかな?」

「気になられますか?」

「宗麟が言ってたの。亜はあんまり、恭のことをよく思ってないんだって。だから少し、心配なの」

 何をどうしようというわけでなくとも、じっとしていると落ち着かない。朧月の袖を掴んで、星彩は懇願した。

「ねえ、ちょっとだけ様子見て来ちゃダメ? 絶対見つからないようにするし、見つかっても妃だなんて言わないですぐに逃げるようにするからっ。ね、お願い朧月っ」

「ふふっ、本当に、貴女さまはじっとしていられないお方なのですねえ」

 いいでしょう、と朧月は頷いた。

「楊佳どのの足止めはお任せください」

「ありがとう朧月っ!」

 ぱっと顔を明るめて、星彩は後宮を飛び出した。

「使者の人は、どこにいるかな?」

『星彩、星彩』

 肩の上の天祥が、長い耳をくりくりと動かして言う。

『あっち、うるさい。あっち、あっち』

 ぴょんと地に飛び降りて、天祥が先導してくれる。耳の良い天祥は、普段と違う物音を聞き取ったようだ。

 着いたのは西の離宮。鎧を着た亜と恭の兵士や、立派な装束の男たちがいて、女官や下男たちが荷を運びこんで忙しい。

 星彩は物陰からこっそりとその様子を覗く。

「公子はどれかな?」

『かな?』

 いろんな服装の人間が入り乱れているから、どれがそうなのかわからない。

「――ちょいと、邪魔だよっ」

「わっ」

 後ろから声をかけられ、慌てて身を避けると、白い布に覆われた大きな荷を、男が六人がかりで運んできた。

 四角い箱のようで、中に何人も入れてしまいそうなくらい大きい。中身は重いらしく、皆汗だくになり、苦労して運んでいた。

「なんだろう? あれ」

『へんなの』

 くんくんと、天祥は鼻を動かした。

『星彩、あれ、物ちがう』

「?? どーゆーこと?」

 聞き返したとき、

『今に見てろ・・・・』

 低い、呻くような声がした。

 頭に直接響く、人と異なる特殊な声。もちろん、喋ったのは天祥ではない。

「・・・今のって」

 献上の品々が運ばれている部屋へ、その大きな荷も加えられる。他の誰も気付きはしないが、白い布の内から、不穏などす黒い空気が滲み出ているような気がした。

 しばらく待っていると、やがて荷運びも終わり、人が少なくなった。

 星彩は女官や使者たちの隙を見て、中に入り込む。

『見てなさい・・・見てなさい・・・』

 部屋の中央でうめき声は絶え間なく、呪詛のように続いている。

 そろり、そろりと近づいて、白い布をめくってみると、

「わっ」

『あ!』

 星彩と天祥は揃って声を上げた。

 見つけたのは、檻の中に閉じ込められた、大きな大きな黄色の獣。黒い線の模様がいくつも入った、猫にも似ているが、牙や爪は愛玩動物から程遠い。

「虎だ!」

『なによ』

 思わず叫ぶと、星彩の倍以上もありそうな大きさの猛獣は、不機嫌にぐるると唸った。

「わたし本物は初めて見るよ! すごい、こんなに大きいんだ!」

『だから、なんなのよ』

「あ、ごめんなさい。わたしは星彩っていうの。こっちは天祥だよ。あなたは?」

『ふん、見たとこ、ただの子供みたいね。あっち行ってなさい。虎はね、下手に触ると噛み付くのよ?』

 と、立派な牙を見せつけて凄む。

「じゃあ触らないから、お話しようよ」

『? なにか、おかしいわね』

 ふと、虎は檻の隙間から鼻を突き出した。

『・・・不思議な匂いがする。ねえ、アナタ、今アタシの言葉に応えた?』

「うん!」

『・・・もしかして、アナタが噂の』

 すると虎は身を起こし、ちょうど犬がお座りをするように、きちんと座り直した。

『星彩、と言ったかしら』

「うん」

『そう。まさかこんなところでとは思わなかったけれど、会えて光栄よ。―――アタシに名乗る名はないわ。亜国の山中に棲みついていた、人に虎と呼ばれる生き物よ』

「名前ないの? なら、わたしが付けてもいい?」

『もちろん』

「じゃあね・・・蘭蘭! どう?」

『あら、可愛い名前じゃない。ありがとう』

 獰猛な牙を見せて、虎は嬉しそうに笑んだ。

「ねえ、蘭蘭はどうして檻の中にいるの?」

『いぃい質問よ星彩』

 途端、ずおおっと蘭々の背後から黒い空気が巻き起こる。

『アタシはね、さっきも言った通り、亜国の山中で暮らしていたのよ。子供たちも大きくなって手を離れて、関係の微妙だった妻ともきっちりカタをつけて、ようやく一人でのんびり生きてたの』

「妻?」

『蘭蘭、オス?』

『彼女、ちょっと育児放棄気味でね。仕方なしに子供たちの母親がわりになってあげてたら、こんな口調が染みついちゃったのよ。まあそれはともかく、気ままな一人暮らしに戻ったときよ。ある日、忌々しい人間どもがやって来た』

 蘭蘭はそのときのことを思い出したのか、毛を逆立て牙を剥き爪を出した。

『山道を作るとかぬかして、どんどん木を切り倒していった。挙句、自分たちからアタシらの棲みかに乗りこんでおきながら、人食い虎がいるとほざいてこのアタシを捕まえやがった! ふざけるな! 道義を知らず、礼を失したケダモノはどちらか、その身に刻んで教えてやろう!』

「おお落ち着いて蘭々!」

 がしゃがしゃと檻を揺らし始めた蘭々に必死で呼びかける。

「蘭蘭は、山で捕まって、ここまで連れて来られちゃったんだね?」

『そう! 下らない亜国の人間どもが、アタシを使って恭王をおどかしてやるんだって言ってね! 献上品として連れて来られたのよ! ああ腹立つ!』

 人同士の贈り物として扱われたのがよほど気に喰わないのか、怒り狂っている。

「うんうん! 蘭蘭は物じゃないのにね!」

 星彩も大いに同意した。

 山で平穏に暮らしていたものを、人の都合で無理やり捕まえられて、異国の地まで連れて来られてしまった蘭蘭が可哀想で、すでに星彩は檻の扉に手を掛けていた。

「外に出ようっ! こんなとこに閉じ込めるなんて、ひどいよ!」

 檻の扉は鎖が幾重にもなって巻きついていて、なかなか取れなかったが、少しずつほぐし、外していった。

「一緒に遊ぼう? お城の中を案内するよっ」

『出してくれるのね。いいわ、背中に乗せて遊んであげる』

 嬉しそうに言って、こっそりと虎は舌を舐めずりした。





「――お初にお目にかかります、恭王よ。私は亜国第二公子、蘓瑞其と申します」

 美麗な衣裳を纏った少年が、うやうやしく礼を取る。

 宗麟は玉座にあってその礼を受け、お決まりの文句を返す。

「よくぞ参られた、公子どの。長旅でさぞやお疲れであろう。まずはゆるりと休まれよ」

「かたじけのうございます」

 瑞其は若いながらも臆せず、並みいる恭の家臣らの前でも堂々と立っている。それは肝が据わっているせいか、それとも恭を内心で侮るせいか、どちらとも取れる。

 顔は、まだ幼い。立ち居振る舞いはきちんとしているが、どことなく生意気そうな表情の作りは子供っぽく感じられた。年は十五だと言うから、星彩と一つ違うだけであると思うと納得する。

 だが相手が子供であれ大人であれ、心底めんどくさい、と宗麟が思っていることに変わりはなかった。

「・・・つきましては、此度の同盟締結に際し、祝いの品を持って参りました」

 そうして亜の者たちが、玉や衣の入った箱をいくつか並べる。

「これは淸より嫁がれたお妃さまに。どうぞお納めくださいませ」

 ぱっと見ただけでも、上等な品であることはわかる。わざわざ淸と言ってきたことからも、敬うのはあくまで恭ではなく、淸である、という意向が窺えた。

「伝統ある大国の公女であらせられたお方です、さぞや麗しき姫君にございましょう? 私も、拝顔叶いませば国の者に素晴らしき土産話ができまする」

「・・・品は、ありがたく頂戴いたす。我が妃は、いずれかの機会に」

 気取った口調の少年に、宗麟は無表情に礼を述べ、妃との面会に関しては明言を避けておいた。

「ではお次は恭王への贈り物にこざいます」

「?」

 と言いつつも、もう彼らは品を持っていない。

「参れ」

 瑞其が外へ指示を飛ばすと、白い布に覆われた大きなものを、亜の兵士が数人がかりで運んで来た。

 一体何事かと、さすがに場はざわめいた。

 瑞其は謁見の間の中央に置かれた荷の前に立ち、不敵に笑う。

「猛々しき恭人の王にふさわしい品をお持ちいたしました。どうぞ、ご覧ください!」

 声を張り上げるや、勢いよく布を取り去った。

「っ!」

 現れたのは、鋼鉄の檻。

 檻、だけ。

「・・・」

 場はしん、と静まり返った。

 空の檻を誇らしげに献上品だと言って見せてきた瑞其の意図が全くわからず、誰もが何も言えずにいた。

 しかし、一番愕然としているのは瑞其であった。

「な、な、な、」

 とだけ、何度も繰り返している。

「―――公子どの」

 宗麟に声を掛けられると、瑞其はびくりと震えた。

「その中には、何かを入れておられたのか?」

 檻には太い鎖が巻きつけてある。本来は入口を閉じるためのものであろうが、肝心の部分が外れてしまっていた。

 瑞其は、ぎこちなく頷いた。

「何を入れておられたのだ?」

「・・・と、とら」

「虎?」

「おい、どういうことだ!」

 急に、瑞其は声を荒げて兵たちに詰め寄った。

「どうして虎が消えている!?」

「ぞ、存じ上げません!」

 主に怒鳴られ、しかし兵たちも事情を知らないらしく、可哀想なくらいおろおろしてしまっている。

「お、おかしいと思ったんだ。妙に軽くてっ」

「こ、こ、このバカっ! なんてことをしてくれたんだ!」

 素手で兵を兜の上から思いきり殴る瑞其を眺めて、宗麟は小さく息を吐いた。

「・・・縻達」

「は」

「兵を集めろ。どうも虎が逃げたらしい」

「かしこまりました」

 古参の臣はかすかに眉根を寄せて不愉快そうにしているだけで、動じた様子もなく、すぐに使いを飛ばした。

「徐朱、剣を」

「おや。自らも行かれますか」

 横に跪いていた側近から自分の剣を受け取り、玉座を降りた時、


「きゃーっ」


 甲高い悲鳴が響き渡り、場に瞬時に緊張が走った。

「きゃー、あははっ!」

 ところが、悲鳴はすぐに笑い声へと変わる。

「すごいすごい! はやーいっ!」

 国の重役たちが呆然と見つめる中、大きな大きな虎の背に跨って、天祥を肩に乗せた星彩が、楽しそうに外を駆けていた。

「星彩!」

 宗麟が呼びかけると、星彩が顔だけそちらに向ける。

「あ、ソーリン!」

 妃はぽんぽんと虎の背を叩き、「あっち!」と指す。そうすると虎は一瞬、宗麟の方を向いたかと思いきや、ぐいと首を曲げて大きく飛び上がった。

「ぎゃああっ!?」

「蘭蘭!」

 少年の悲鳴と、星彩の声が響く。

 虎が飛びかかった相手は瑞其であり、星彩が上から虎の首にしがみつき、辛うじて牙が公子の肉を喰い破るのを止めていた。

「殺しちゃダメ!」

 言われて、虎はぐっと堪えるように口を閉じた。しかし、鋭い爪の生えた大きな足はどかさない。

 星彩は虎から降りて、倒れる瑞其の横に回った。

「あなたが亜国の人?」

 星彩にしては珍しく、少し怒ったような顔をしている。

「蘭蘭はただのんびり山で暮らしてただけなのに、捕まえて宗麟をおどかすために使おうだなんてひどいよ!」

「・・・・・・・・・・は?」

「どうしてそんなひどいことするの!? 蘭蘭は物じゃないんだよ!?」

「・・・」

「蘭蘭に謝って!」

「・・・は?」

「悪いことしたら、謝るの!」

 と言われても、何を怒られているのかわからず、瑞其はひたすらに困惑している。すると、かぱっと虎が口を開けた。

「ぎゃああごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」

 怯えた瑞其が必死に謝れば、虎は満足したのか、足をどけて星彩の隣に大人しく控えた。

 宗麟が側に寄って行くと、星彩は気付いて振り返る。

「あ、宗麟にお願いがあるの。蘭蘭をここに住ませてあげてっ。蘭蘭はひとりじゃ亜に帰れないし、この人たちに連れて帰られるのも嫌なんだって。もう独り身になったから、恭に住むのも別に構わないって、言ってくれてるし」

「蘭蘭って、この虎のことか?」

「うん」

「随分と可愛い名だな」

 くつくつと宗麟は笑って、虎を見た。

「置いてやるのはいいが、人や馬は喰うなよ?」

 がる、と虎は一つ鳴く。

「了解、だって!」

 通訳をして、星彩は喜んで飛び跳ねる。

「ありがとう宗麟!」

 その小さな頭をなでてやって、宗麟は未だ呆然として床にへたりこんだままの瑞其を見遣った。

「公子どの、この虎は私への贈り物とのことだったが、かわりに妃が貰い受ける。それでよろしいか?」

「・・・・・・・は」

 長い長い沈黙の後、公子はやっと一音、了承とも疑問ともつきかねるものを発しただけだった。

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