3章

第1話 朝の散歩

 恭国首都豊邑、紫微城、赤轡殿書庫。


「―――」

 首や肩に異常な痛みを感じ、目が覚めた。

 窓から差し込む白い光が、寝起きの弱った体に容赦なく突き刺さる。日というものは、どうして月と比べてこんなにも眩しく痛いのか。今日もまた憂鬱を感じて、机の上から起きあがる。

 昨夜、いつ寝入ったのかまったく記憶はない。だが、今更それを驚くようなこともない。

 かなりの頻度で紫微城の書庫は寝所に、机と椅子は寝台に、広げられた幾冊もの書と、途中まで書きつけた書簡は枕になる。

 それを咎める者もないので、今朝も暢気にあくびして、椅子に座ったまま、凝りに凝った体を伸ばす。

 そのとき、ばさばさ、と何か落ちる音がした。

 一瞬、腕が書の山にでも当たって崩したのかと思ったが、今日はたまたま積んではいない。まさか書棚にまでは届かないので、やはり音の主は自分ではない。

 その証拠に、

「天祥、登っちゃダメ!」

 若い娘の声が響いた。

「・・・」

 首だけ後ろに向けてみると、棚を挟んだ反対側に、ちらちらと黒い毛や青い毛が見える。

 まだ朝も早い殿中に、人気はない。書庫ともなれば、昼間でも人は大して訪れないのだから尚更だ。

 そんなところに早朝からやって来て、暴れる娘は何者だろう。

 落ちた書物を棚に積み直している黒い頭を、ぼーっと眺めて考えて、ああ別にどうでもいいことだったと、気付くのにしばらくかかってしまった。

 視線を机の上に戻して、転がった筆を取る。途中で寝たせいで、文字は後半、蚯蚓のような有様だ。書き直さなければ上には提出できないが、面倒なので、気にせず続きから書くことにした。

「わっ」

 驚いたような声が視界の外から上がる。

 それでも全く反応を示さずにいると、それは側に来て遠慮なく覗きこんできた。

「―――おはよう?」

 なぜか疑問形で挨拶をしてくる。

 仕方なく筆を止めて見遣ると、長い三つ編みの、年端もいかない娘の姿があった。女官よりも粗末な格好をして、丸い瞳を不思議そうに向けてくる。

 不意に小さな手が伸びて、指先が頬に触れた。

「あ、よかった。冷たくない」

 ほっとしたように笑い、指を離す。

「あんまり白くてきれいだから、雪の精かと思っちゃった。人だよね?」

「・・・」

 さて、どうしたものか。

「はじめまして。わたし、星彩っていうの。こっちは天祥。あなたは?」

 何だかよくわからない青い獣までわざわざ紹介して、にこにこしながら訊いてくる。

「・・・伯符と申します。僕に何か御用でしょうか、妃殿下」

 言うと、「え!?」となぜか相手は驚いた。

「どうしてわたしが妃ってわかるの!?」

「・・・はあ。まあ、有名ですから?」

「そうなの? 昨日も小間使いにまちがわれたのに、いつ有名になったんだろう?」

 さもありなんと思った。婚儀の際に遠目で見た限りではあまり感じなかったが、実際目の当たりにすると娘は予想以上に幼い。これで妃とわかれと言うのは酷過ぎる。

「ねえねえ、伯符は官吏なの?」

「まあ、一応」

「やっぱりっ。何やってるの?」

「仕事です」

「どんな?」

「えー・・・」

 詳しく言わなければいけないだろうか。

 あからさまに面倒臭そうな顔をしてみるが、子供には「?」と笑顔で返された。

「・・・現行法の一部改定案、修繕費用の捻出案、地価の再検討、人口統制案、豊邑の区画整備、租税調査、諸国の情勢分析うんたらかんたら」

「・・・ええっと」

 もの凄く投げやりな態度で答えてやると、相手は少し困ったように眉根を寄せて、

「邪魔してごめんなさい。とっても忙しかったんだね」

 ぺこりと頭を下げる。

 ようやくわかってもらえたことに安堵して、また筆を動かす。

「あ、あの、でも一コだけ、訊いてもいい?」

「・・・」

 まだ何かあるのか、という視線を向けると、相手はおずおずと尋ねてきた。

「ここに、わたしでも読めるような書物って、あるかな? 恭について書いてあるものがいいんだけど・・・」

 えらく漠然とした注文に、取り合う気は欠片も湧かなかった。

「さあ」

 答えにもなっていない答えを返し、筆を動かす。

 視界の端で、残念そうに肩を落とす姿は見えた。

「そっかあ・・・ありがと。邪魔してごめんなさい」

 もう一度頭を下げてから、とぼとぼと帰ってゆく。

(なんだったんだか)

 最後にほんの少しだけ考えて、あとは終わらない仕事に集中し、忘れた。





「ダメだったねー」

『ねー』

 人気の無い城内を歩きながら、星彩と天祥は顔を見合わせた。

「こんな早くから、もうお仕事してるとは思わなかったよねえ。官吏って大変なんだあ」

『官吏、偉いっ』

「書物はまた今度だね。次はもっと早く来ようかな?」

『星彩、もう、帰る?』

「え? うーん・・・せっかく早起きしたし、ちょっとお散歩しよっか?」

『賛成!』

 そうして向かったのは、とりあえず白龍のいる厩。遊びに行くのは毎日の習慣となっているが、今朝は特に早い。

 いつもは放牧場でのんびり草を食んでいる白龍と話すのだが、覗いてみると今日は運動中だった。紫微城の馬たちは毎朝、馬番や兵士たちによって調教されている。白龍は宗麟の馬であるが、毎日乗りに来ることができない主の代わりに、馬番たちが運動をさせているのだ。

「白龍もお仕事中だね」

 懸命に走る相手に声を掛けていいものか逡巡していると、白龍の方から星彩に気付き、乗っている馬番の指示を完全に無視してやって来た。

「うわ、お、おい!?」

『おはようございます、星彩、天祥』

「おはよう白龍。烏淵もおはよ」

「あれ、星彩さま!?」

 白龍に乗っていた馬番の青年、烏淵は急いで降りて頭を下げた。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありませんっ。今朝は白龍にお乗りに?」

「ううん、見に来ただけだよ。宗麟がいないと、わたし一人じゃ乗れないもん」

 以前、宗麟が白龍に乗るのに、星彩も付いて行って一緒に乗せてもらったことがあった。烏淵とはそのときに知り合ったのだが、その前からちょくちょく厩に現れていた星彩を、彼は知っていた。まさか妃だったとは思わず、宗麟に紹介されたときはひどく狼狽していたが、今はすっかり慣れて気軽に話してくれるようになった。

「陛下は、今朝はいらっしゃるんですか?」

「どーかなあ? 昨日は遅くまでお仕事してたみたいだし、まだ寝てるかも?」

「そうですか。あ、では俺がお乗せしましょうか? ゆっくり歩く程度なら、星彩さまお一人でも乗っていられると思いますよ」

「あ、うん、それなら確かに。でも練習中だったんでしょ? 邪魔じゃない?」

「白龍は調教が済んでますから、ただ運動させているだけなんですよ。こいつも、星彩さまに乗っていただければ喜びます」

 ぽん、と白龍の首を叩いて烏淵が言えば、白龍は嘶いた。

『どうぞ、星彩。僕は驢的さんみたいにいきなり走ったりしませんから、平気です』

「あははっ、それ懐かしいね。うーん、じゃあ、乗せてもらおっかなっ」

『もらう!』

 星彩は天祥を抱いて、烏淵が星彩を持ち上げ、鞍の上に乗せた。

「星彩さま、発進は足をこう・・」

『動きますよ』

「しゅっぱーつ!」

「あ、ちょ・・・」

 烏淵が説明する間もなく、白龍はゆっくりと歩き出す。言葉で意志疎通ができる星彩は、手綱を御す必要もなければ蹴って彼らを急かす必要もない。ただ揺れに合わせて、落ちないように鞍に掴まってさえいればいいのだ。

『すごーい! たかーい!』

「天祥、あんまりはしゃぐと落ちるよ?」

 器用に白龍の上を跳ねる天祥は、馬に乗るのは今日が初めてだ。

『白龍、高い! いいな!』

『僕は小さいのもいいなと思いますよ。天祥は星彩に抱っこしてもらえますもんね』

『なの? 星彩、白龍、抱っこしてあげない?』

「ええ? も、ものすごーく鍛えれば、できるかな?」

『無理しなくていいですよ星彩』

 星彩たちが他愛ない会話をしながら柵に囲まれた訓練場を回る間、隣の柵では兵士たちが馬に乗る訓練をしていた。紫微城の兵士は城の警護が仕事ではあるが、いつでも戦場に出れるよう、騎馬の練習もする。まずは馬に慣れ、それから馬上槍も習う。

 今朝、練習をしていたのは新兵たちのようで、まだ馬を御しきれず、走ったり落ちたり忙しない。

 星彩が隣の大変な様子を横目にしつつ、のんびり乗馬を楽しんでいると、突然悲鳴が上がった。

「うわあっ!?」

 ちょうど隣との境になっている柵の横を通りがかった時、暴走した馬から振り落とされて、人が白龍の足元に落ちてきた。

「むぎゅっ」

『あ』

「あ」

『潰した!』

 白龍の前肢が倒れる人間の頭を踏みつけ、地面にめり込ませていた。

「わああ大丈夫!?」

 星彩は急いで飛び降り、伏せったままの人間を助け起こす。それが見覚えのある人間で、更に驚いた。

「皓大! 皓大だよね!? 鼻曲がってるよ!?」

「うう・・・馬なんて、大っ嫌いだ」

 星彩にぺちぺち頬を叩かれて、ようやく意識を取り戻した皓大は呻く。

「大丈夫? 痛くない?」

「ああ・・これは妃殿下。正直言って心も体もボロボロっす。馬ってもっと穏やかな生き物じゃないんすかね? 噛まれるわ頭突きされるわ暴走して止まらなくなるわ振り落とされるわ踏まれるわ・・・なんで俺ばかりこんな目に?」

「う、ううん、それはわからないけど、皓大はほんとに丈夫だね」

 少し前に、星彩を城に忍び込んできた街の子供と勘違いし、追い出してしまったことのある新兵の皓大は、厩に来るとたまに会う。それはこうして騎馬の練習をしていたり、あるいは城内の見回りをしていたり、訓練をさぼってふらふらしていたりするからである。

『その男は乗り方が乱暴なんですよ』

 白龍が鼻を鳴らす。彼は星彩を街へ追い出した皓大が嫌いらしく、彼に対してのみ、物言いが容赦ない。

『手綱の捌き方が下手ですし、無闇に何度も腹を蹴るから嫌になるんです。ちょっと前肢上げて立てば落ちますから、僕でもそうしますね』

「白龍も皓大に乗られたことあるの?」

『いいえ。でも見ていればわかります』

「ふーん」

「? 妃殿下、どこに向かって話されてるんです?」

 皓大は星彩が獣たちと話せることを知らないので、不思議そうにしている。

『そもそも戦場に出る馬は気性が荒いものが多いです。暴走されて乗っていられないようでは敵に辿りつく前に振り落とされて終わり、ですよ』

「へー、そーなんだ。じゃあ、皓大はもっとがんばらなきゃね」

「頑張ってますよ!? だからどこに向かってお話しされてるんすか!?」

「おいこら小僧っ!」

 皓大の絶叫に応えるように、後方から怒声が飛んだ。

 長い槍を持って新兵の指導に当たっている強面の教官が、放馬したまま戻って来ない皓大を見咎めてやって来たのだ。

「何をさぼっている! さっさと戻らんかぁっ!」

「いたたっ! ちょ、耳そんな引っ張ったら取れますって!」

「ちょうどいい! 敵将の耳の削ぎ方を教えてやる!」

「え、遠慮するっす! 戦なんてそうそう起きやしませんから!」

「兵士が平和ボケしててどうする! いついかなる時も陛下の御為、命を捨てる覚悟をせい!」

「いや、それと耳の削ぎ落し方とは別に関係無いたたたっ! いや、だからちょ、俺の話を聞いてくださいよ!」

「うるさい! さっさと戻れ!」

「いやいや実は俺、妃殿下にお供を頼まれてるんす!」

「え?」

 いきなり名を出されて、きょとんとしたのは星彩だ。教官もいぶかしげな顔をしている。

「妃殿下だと? 何をまた馬鹿なことをお前は・・」

「あ、もしや教官、お気づきでないですか? ここにおわするみすぼらしい街娘のごときお子さまは、畏れ多くも国王妃たるお方なんすよ!」

 じゃーん、と奇妙な効果音を口から出して、皓大は星彩を紹介した。

「そんな馬鹿な」

「信じられないのも無理ないですが、ホントなんすよ。ね、星彩さま!」

「え? ええと、うん。一応、そうです」

 星彩は腰に下げた香嚢を教官の前に掲げた。香嚢は香の素となる香木片をいれたり、でなくば細々としたものを入れて持ち歩ける手の平ほどの小さな箱であり、その表面には王家の印章が彫られている。これこそ王族以外は持ち得ないはずのもの。名乗ってもなかなか妃と信じてもらえない星彩のために、宗麟が持たせてくれたのだ。

「なんと。誠に妃殿下であらせられるのですか?」

 厳つい教官は目を丸くする。

「うん。まぎらわしい格好で、それはほんとにごめんなさい。でも特別なときはちゃんとするから、許してね?」

「は、はあ・・・して、妃殿下はこんなところに如何なる御用でいらっしゃったのです?」

「早起きしたから、お散歩しようと」

「して、俺をお供に誘いにいらしゃったんすよね! つーわけで、教官! 俺はちっと抜けますんでこれで!」

「え? ちょ、ちょっと、皓大?」

 何が何だかわからぬまま、皓大に無理矢理手を引かれて、小走りに厩を離れた。

 後ろを慌てて天祥が追い掛け、白龍は、

『・・・あいつ、また星彩を連れてった』

 恨みがましい視線をその背に送っていた。

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