第17話 変わりゆくもの

 長い髪を頭の横で束ね、うっすらと化粧を施して、出掛ける支度を整えた明玉は、部屋の扉を開けた。

「翠玉姐さん、遊びに行かない?」

 美しい姐は鏡台の前でちょうど髪を結い上げているところであり、そのままの姿勢で明玉を見た。

「あら、丁度よかったわ。お供をお願いしようと思っていたのよ?」

「新しい小間物屋でしょ? やっぱ行くわよねっ」

 先日、客が新たに店を構えるのだと言い、もし来てくれたら安くすると誘ってきたのだ。十中八九、姐に色目を使って言ったのだろうが、相手の仕掛けもとことん利用してこそ歌妓である。

「たくさんふんだくってやりましょうよ! あたし、簪と耳飾りと巾着といっぱい欲しいわっ」

「明玉、やり過ぎは駄目よ。搾取は少しずつ、末永くが鉄則。そっちの方が、かえってたくさん取れるのよ?」

「なるほどっ。生かさず殺さずねっ」

「そうよ。さ、行きましょ」

 明玉と翠玉は連れ立って店を出た。

 昼の街も夜と同じように賑やかだ。明るい陽の下では明るいなりに、暗い闇の中では暗いなりに、色街の名にふさわしく様々な色どりが溢れているのがこの場所なのだ。

「星彩もいれば良かったのにねー」

 目当ての店に着き、うるさい店主を追い払って小間物を選びながら、明玉は自然と呟いていた。

「この辺なんか、似合いそうじゃない? 地味な格好しちゃってさ、あたしが見立ててあげるのに」

「あらあら。すっかりあの子の姐貴分ね? そんな心配しなくても、あの子は王妃さまなんだから、こんな所にある物よりずぅっと立派な装飾品を付けるのよ?」

「まあね?」

 初めて会ったとき、泣きべそをかいていた小娘。間抜け面で途方に暮れている子供を放っておけずに拾った。屋敷の下女が追い出されたのかと思ったのに、実際はこの国の王妃であったことは今でも信じられない。

 しかし大臣の陰謀を暴いた後は、挨拶もそこそこに兵たちに連れられ城へと帰ってしまったのだから、やはり本当のことだったのだ。

「でも星彩ってば、ちっとも洒落っ気がないじゃない? 間違えて兵に追い出されちゃうくらいだもん。あの子、変よ。王族のくせに下働きも平気な顔でしちゃってさ」

「そうねえ」

「星彩って、元は淸の公女だったのよね?」

「らしいわね。恭と淸が同盟したから、嫁いで来たって話よねえ」

「ってことは生粋のお姫さまのはずよね? なんなのかしら、あの性格」

 本気で悩み出した明玉の横で、翠玉は眩しいほどに光る簪の一つを手に取った。

「・・・同盟の証に、淸から恭へ贈られた娘、か。ねえ、ちょっと私たちに似てると思わない?」

「え?」

「女はどんな身分でも、結局は男の物でしかないのかしらねえ」

「・・・」

 金で売り買いされる歌妓。国の都合で国境まで越えさせられる公女。意志に関係なく、取ったりやったりされる扱いは同じ。

 明玉もかつて父親に売られた。出て行った母親のかわりに、ろくに働きもしない男を支えるため必死に働いて世話をしていたというのに、ある日あっさりと妓楼に入れられた。しかしそこで翠玉に出会い、楼主の道陳に本当の父のように接してもらい、仲間たちと馬鹿な男を引っ掛け笑い合って、そうして楽しいことを知って、己がいかに理不尽な仕打ちを受けていたのかを知った。

 明玉は、売られて幸せだった。たとえ歌妓が世間に蔑まれる職業であっても、病にかかれば見限られる使い捨てのような存在であっても、自分がこうして笑うことができるのはこの場所でしかあり得ない。

 ただ、他の人間は、どうだか知れない。

 誰もが明玉のように幸運ではないと、世の裏側に生きる娘はよく知っている。

「まあ、仕方がないことよねえ」

 翠玉は簪と耳飾りを二、三取って、元の半額以下の値段で買った。店主に口説かれたわけではない明玉も、どさくさに紛れてかなり安く小物を仕入れ、店を出る。

「姐さん、大通りの方にも茶屋ができたのよ? 行ってみない?」

「ええ」

 二人は細い通りを抜け、裏の色街から表の街へと移動した。

 とそのとき、たくさんの荷を積んだ荷車が「どいたどいた!」と慌ただしく側を通り過ぎて行った。

「――っぶないわねえ!」

 明玉は危うく轢かれそうになりながらも道の脇に避ける。相手に文句を言ってやろうと顔を上げたところ、荷車を引く男たちは箪笥や机やら大きな荷物を大きな建物の中にえっちらおっちら運び込んでいるのが見えた。

「? なにかしら?」

「新しい店でも、できるのかしらねえ」

 商売が自由な恭は、店の入れ替えが激しい。茶屋や小間物、布の店などは明玉らも利用するので調査に余念はない。翠玉くらい人気者の歌妓ならばともかく、明玉のように見習いで小遣いも限られている身分では少しでも安い店があれば助かる。特に、開店初日などは品を安くすることが多いので狙い目だ。

 明玉は轢かれそうになった怒りも忘れ、忙しく働く男の一人に寄って行った。

「ねえ、ここはなんの店?」

「あぁ?」

 筋骨逞しい男は一瞬けげんそうな顔をして、それから首を振った。

「店じゃねえよ、嬢ちゃん。ここはお医者さま方の学問所になるんだ」

「? 学問所?」

 言われてみれば、建物の中はたくさんの机や椅子、書棚などが並べられ確かに店の様相ではない。

「潰れた宿所を改装してよ、お医者になりてー奴を集めて勉強させるんだとよ。費用は国が負担してくれるから、授業料は格安なんだぜ」

「・・・ってことは、国営の学問所?」

「ああ。身分を問われず誰でも入れるってよ。もう四、五か所できる予定だ。これで恭に医者が増えるぜっ」

 にっと笑って男が机を運び込む。中に入ってから、「ああそれからよ!」とわざわざ声を張り上げた。

「貧しい病人の受け入れもしてくれんだとよ! ただし、診るのはひよっこどもだけどなあ!」

 しかし、側ではきちんとした医者の先生が付いて指導をするのだという。

 それはつまり、高い治療代の払えない歌妓も診てもらえるということなのだろう。更にこれから街に医者が増えれば、隅々まで手が回るようになる。

 もちろん、それまでには時間がかかる。だが、思い出したのは、あの夜の星彩の言葉。

 徐々にだって、良くなっていくかもしれない。

 恭の王は、まだ代わったばかりなのだから。

「・・・翠玉姐さん」

 明玉は後ろの姐を振り返った。

「本当に、変わるのかもしれないわよ?」

「・・・そうね」

 翠玉は、やわらかく微笑んだ。

「気長に待ってみましょうか。われらが王と、泣き虫のお妃さまに期待して」





「星彩、行くぞ」

 事件から数日が経過したある日、宗麟が部屋にやって来るなりそれだけ言った。

 まだ昼間である。星彩は楊佳に作法の勉強をさせられて、音を上げかけていた時だ。

「宗麟? 行くって、どこに?」

「街だ。仕事が終わったら二人で出掛けるって、約束してただろ?」

「・・・あ」

 当初の約束を、正直なところすっかり忘れていた。しかし宗麟は覚えていて、律義にも誘いに来てくれたのだ。

「行っていいの?」

「ああ」

「やったぁ!」

 街に出ることより何より、宗麟と一緒に出掛けられるというのが心から嬉しくて、星彩は作法の手解き書を投げ出した。

「―――ってお二方! 勝手に盛り上がらないでください!」

 さっそく手に手を取って出掛けようとする王と妃に、勤勉な侍女である楊佳が黙っているわけはない。

「妃殿下はこの間ようやくお帰りになられたばかりなのですよ!? またお出になるなどいけません!」

「今度は俺が一緒に行くから大丈夫だ」

「ですからっ、陛下もお出になってはなりません! 御身は国王なのですよ!?」

「気にするな」

「します! 韓当はどうしたのです!? 誰も止めなかったのですか!?」

「韓当なら今夜評判の歌妓に会わせるって約束で見逃してもらった」

「・・・は?」

 ぴき、と楊佳の表情が強張った。

「陛下? それはどういうことですか?」

「まあ、あいつも男だ。美人には興味があるんだろ」

 さらっと宗麟が答えると、楊佳の表情にどんどん暗い影が落ちていく。

「・・・陛下。つかぬことをお伺いしますが、韓当は、今、どこに?」

「夜に備えて書庫で仕事を片付けてたぞ」

「・・・お二方、ちょおっとお待ち頂けますかっ」

 楊佳は背後にどす黒い何かを纏って、大股に部屋を出て行った。

「やっぱそういう関係か」

「楊佳はどうしたの? なんだかすごく怒ってるみたいだったよ?」

「男の方に甲斐性がないと、女は苦労するんだよ」

「? よくわかんないけど、宗麟、夜は歌妓のとこに行くの? わたしも付いていっていい?」

「それ嘘」

「ええ!?」

「この手は使えるぞ星彩。あとで教えてやろう」

「?? う、うん。よろしく?」

「さ、今のうちに行こう」

「うん!」

『うん!』

 出ようとすると、寝台で寝ていた天祥がいつの間にか足元にいて、尻尾を振っていた。

『天祥、星彩と一緒!』

「天祥もお出かけしたいの?」

 星彩は天祥をひょいと抱え上げて肩に乗せる。

「宗麟、天祥も連れてっていい?」

「・・・まあ、仕方ないか。さすがにそいつを追い払う方法は思いつかないしな」

「あ、そーいえば白龍とも一緒に行こうって約束してたんだけど」

「それはまた次の時にな。白龍を連れて昼の街は無理だ」

「そっか、人通り多いもんね」

 白龍には申し訳なかったが、また今度、一緒にどこかへ出かけられるのを楽しみにすることにした。

「ねえ、街に行ったら飴食べよっ。且而っていう飴屋のおじさんが、飴でいろんなもの作ってくれるんだよっ」

「ん、天祥の形をした飴なら、俺も貰って食べたぞ」

「そーなの? おいしかった?」

「ああ」

「よかった! ―――そうだ、もし夜までいてもよかったら、明玉たちのお店で遊びたいなっ。目隠し鬼やりたいっ」

「夫婦で妓楼遊びか? 歌妓も驚くだろうな」

 想像してみたのか、くつくつと宗麟は楽しそうに笑う。

「そういえば徐朱に聞いたんだが、星彩、あの地区の賭博場で大勝ちしたんだって? ゴロツキどもの間で神扱いされてるらしいな」

「あ、あれ、わたしもびっくりしてるの。ほんと偶然、勝っただけなのに」

「星彩には天も味方するからな。今度、韓当あたりをカモに一勝負するか?」

「・・・お金、賭けないでやろうね?」

 城から外へ出る間も、他愛無い会話が打ち切られることはない。

 星彩にとってはたったそれだけのことがとても嬉しくて、もっとずっとこの時間が続けばいいと思った。

「星彩は、恭を気に入ったか?」

 会話の流れの中で、宗麟が尋ねた。

「―――」

 恭に来てから、大して時も経っていない。まだまだ慣れないことも、知らないことも多い。故郷を、懐かしく想うときだってある。

 それでも、ここには新しい出会いがいっぱいで。

 恭の中にも、大切なものはどんどんできつつある。

 星彩は背の高い相手を見上げ、とびきりの笑顔を見せた。

「わたし、恭が大好きっ」

 昔、多くの血が流れ、今、多くの人が必死に支えている国だから。たくさんの笑顔が、溢れている場所だから。

「わたしも、みんなと一緒に守っていきたいっ」

 蒼天の下、平和を生きる命を感じて、この国をずっと大切にしていこうと思った。


 あるいは星彩が真に恭の王妃となったのは、この時からなのかもしれない。

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