我等友情永久不滅也

ふわり

第1話


 蛍光灯に照らされるエリの横顔は教室で盗み見るよりもずっときれい。私の目の前で揺れる黄金の髪の中に手を入れたい。あなたの穴という穴に思い切り優しく唇を這わせたら、不良ヤンキーみたいな也をしてまだ男との経験がないエリはどんな声を上げるのだろう。これから先、毎日片時も離れず側にいられるような気がしていたけれど、いつかは横にいるこの子も、誰か他の男のものになってしまう日が来るのだろうか。シャッターを切る音と共に画面に映し出された私の間抜けヅラを見て、エリはここぞとばかりにバカ笑いをした。


 ポージングを変えながらきゃいきゃいと騒ぎ立てる私たちは、眉を潜めてこっちを伺っている店員からしたら、馬鹿で無知で節操のない何処にでもいる女子高生に見えているのだろう。だけどこれくらいの調子の良さを許してくれたっていいと思う。女子高生はきっと、田舎の大型ジャスコに備え付けられたちゃちなゲームセンターの太客なわけだし。それに、酸素の薄い教室からはみ出した私たちは、学校の外でしか上手く息を吸うことができないのだから。



「我等友情永久不滅也?なにこれ」


 絶妙にセンスのない金縁ペンで書かれた文字を指差すと、エリはにやっと唇を歪めた。私にはエリの他に友達がいないから分からないけれど、お互いの顔じゃなくスマホばかり眺めている教室のあの子たちは、こんな落書きしないんだろうなと考えたところで、何だか笑い出したくなってしまう。


「前から思ってたけど、エリって、発想が昭和だよね。あと20年早く生まれてたら、レディースとか入ってそう」

「あーしのオカンは元レディースだけどな。あーしには無理だよ。バイク乗れねーし、女のじめっとしたとこ苦手だし、あと集団行動とか向いてねーし。長く続いたダチなんて、お前くらいだよ」


 思わず抱きつきたくなるようなことをさらっと言われて、私は手にしていたペンをぎゅっと握りしめた。頬が熱くなる、脈拍も速い。こんな風に、いつも私は、エリの魔性に簡単に振り回されて、内臓ごと何処かに持っていかれてしまうんだ。

 カーテンを持ち上げて外へ出ると、太鼓の達人をしていたふたりの男のうち一方が私たちを見て、もう一人の脇腹をバチで小突いた。嫌な予感がして、エリの二の腕を掴んだけれど、時すでに遅しだった。長めに伸ばした茶髪を指でかき上げながら、男がこっちに近づいてくる気配がした。


「君たち双子?超かわいいじゃん」


 男慣れしていないエリが怯んで、一歩後ろに下がるのを目の端で捉えながら、私はにっこりと笑った。瞬間、男たちの頬が、ほんのりとした紅色に染まる。


「知ってる。だって私たち、二人でいれば最強なんだもん」


 エリの右手を引いて、走り出した。

 「ちょっと待ってよ」と背中を追いかけてくる声を置いてきぼりにして、ただっ広いショッピングモールの廊下を駆けていく。たとえ10年後、エリが私の横にいなくても。何百年経ったって、忘れたくない。忘れるもんか。男たちの叫び声、こっちを振り向く主婦たちの視線、エリの手の平の柔らかい感触を。



「おいっ。何処まで行くんだよ!」


 エリの声に、ようやく右手を振り払う。息が荒くなって、太ももの裏の筋肉が軋んでいた。体育の授業はいつも理由をつけてサボるから、久しぶりの全力疾走に身体が悲鳴をあげていた。運動部に所属している訳でもないくせに、エリは何故か運動が得意だ。私の目の前に、エリの手が差し出される。その手に自分の手を重ねると、強い力で引っ張られた。

 私たちが住んでいるこの大道市は、田圃と老人と幾つかあるドラッグストアの他には何もない、ドーナツ化現象真っ只中の、何処にでもある空っぽな町で、多くの若者は大学進学を機に外へ出ていく。都会に一度住んで戻ってくる子はほとんどいないから、この町の高齢化は火を見るよりも明らかだった。


 私たちは来年、高校3年生になる。あなたたちは、今まさに、人生の岐路に差し掛かっています。そう声高に叫ぶ大人たちは、はしゃいでいたっていつも何処か冷めている私たちよりずっと真剣だ。どうして他人のことにそんなに必死になれるのかと、不思議になるくらいに。

 クラスの子達はみんな、休憩時間さえもガリガリと勉強しているから、私たちは浮きっぷりは半端じゃない。でも、将来のことなんて考えたら、得体のしれない不安という名の感情に、心の中を支配されそうになってしまうから。

 くだらないことばかり話して、しょうもないことで笑うこの時間は、私にとっての大切、というやつなのかもしれなかった。


「お前って、偶にめちゃくちゃなことするから、ひやひやするよ」 


 エリはそう言いながら、自動販売機で買ったサイダーを開けた。ぷしゅっと空気が抜ける音がして、白い泡が缶の淵まで立ち上る。


「わ、やば」


 溢れそうなそれを飲もうとして、顎まで白い液体を垂らしたみっともないエリの笑顔が、気がふれそうなほどかわいく見えて、私は背中に背負っていた革のスクールバックを田園の方へ放り投げた。革のバックは茶色い液体の中にゆっくりと沈んでいく。どうしてそんなことをしようと思ったのかは分からない。ただ、心の奥を突くようなピンク色の気持ちが、サイダーの泡みたいに、私の体から出て行こうとしているのだった。


「は、何やってんの、お前」

「ねえ、もっとめちゃくちゃなこと、してもいい?」

「やだ」

「なんで」


 エリの方へ身体を寄せると、その分だけエリが後ずさる。


「だってなんか・・・怖いし」


 私は吹き出した。するとエリも、ぎこちなく笑った。それから私はエリの手を引いた。田園の淵までエリを連れて行って思い切り背中を押すと、エリはバランスを崩して、仰向けに倒れこんだ。制服の清潔な白色が、一瞬にして泥まみれになる。気が付いたら、泥水が口の中に入って咳き込んでいるエリの中へ、私もダイブしていた。ぱしゃんという音とともに、私とエリは同じ色に同化した。

 しょっぱい。しょっぱくて、ざらりとした土の感触が舌を這う。


「ねえ。明日から、修学旅行だね」


 たまらなく怖くて、身体が震えて仕方ないのに、私はエリの青ざめた赤い唇に口付けずにはいられなかった。何が起きたのか良くわかっていないのだろう。きょとんとした顔をして私を見るエリに、思わず吹き出してしまう。私たちの間の何かが変化していく音がする。ガラスで出来た天使の人形が、少しずつ壊れていくような繊細な音。午後17時の夕焼けが、新緑だった田園の表面を暁色に染めていく。



 「女子高生」という名前の猿の集団は片時も休みなくはしゃぐから、新幹線の狭い車内は地獄だった。彼女たちが手を叩きながら空気をつんざくような笑い声をあげる度、後ろの席に座るサラリーマンが聞こえよがしに舌打ちをする。何だか全てが嫌になってきて、眠っているエリの方へ頭を寄せる。エリの匂いがする。タバコと汗とエッセンシャルの混じった匂い。エリだけの匂い。

 こっちを振り向いた女の子とふと目が合って、合ったと思うと逸らされた。丸坊主に近いショートヘアが小さな顔に良く似合う、ソフトボール部の原田さん。原田さんは隣の席の子に何やらひそひそと耳打ちをして、それから笑いあった。どうして女の子って、こうなんだろう。みんなと同じだと安心する為に、他人を利用せずにはいられない。一人で立つくらいなら、死んだ方がマシだって思ってる。他人と同化することなんてできないのに、それを望むなんて馬鹿みたいだ。

 あいつらやっぱレズなんじゃん、という言葉が、原田さんの歪んだ口元から聞こえたような気がした。


 あの日から全てが変わってしまうような気がしていたのに、案外そんなことはなくて、昼休みも放課後もふたりで一緒に過ごすような時間は相も変わらず続いていた。変わったことと言えば、エリの方が私を意識してるってことくらいだ。

 清水寺に向かう二年坂を登る途中、私とエリの間には、常に半径5メートルの距離が開いていて、話しずらくて仕方がなかった。外国人の団体客が去ってから、階下にいるエリに向かって叫ぶように話しかける。


「ねえ、なんなの。怒ってるの。怒ってるなら、理由、言ってよ。こういうの、私、嫌なんだけど」

「怒ってないけど」


 「じゃあ何」ともう一度尋ねると、エリは人差し指で鼻のてっぺんを掻いた。困ったことが起きた時のエリの癖だ。エリは人混みをかき分けて、階段を登り、私の側へと近づいてきた。エリと私の瞳が合わさった。

 途端、浮かれた観光客が放っているざわめきや喧噪が、何処かに遠くに消え去ってしまう。女の子の集団が着ている着物の極彩色も、おせんべいの香ばしい醤油の匂いも消えていく。お互いを見つめ合っている、私たち二人だけを残して。


「嫌だった、昨日」


 それは気の強い私にしては驚くほど小さな声に聞こえた。エリは力なく首を振った。ひどく自信のなさそうな態度に見えた。日光を浴びて白色に光る髪の隙間から、赤くなった耳が見えて、胸の奥が微かに軋む。何それ。ずるい、とさえ思った。


「へえ、嫌じゃなかったんだ」

「でも、変じゃん、こんなの。あーしたち、ダチなのに」


 恐々と上目遣いで私を見上げるエリの顔には、何かを期待するような色が浮かんでいた。一昨日までとは違う、メス猫のように底の知れたわかりやすい感情が、ひよこのようだった彼女の中に生まれたことに、私は何処か苛立っていた。それと同時に、決して不用意に口にすることのできない薄暗い欲望が、むくむくと頭をもたげているのを感じていた。


「ダチだよ。世界で一番仲良しなダチだからだよ。ほら、これ見てよ」


 スマホの待ち受けにしているプリクラを指差して、無理やり微笑む。下手くそな笑顔になっていないといいなと思う。


「我等友情永久不滅也、でしょ?」



 祇園の小道にあった甘味処で抹茶パフェを食べて外へ出ると、雨あがりの夜の匂いがした。急に心細さが生まれて、エリの方を見やると、彼女も同じように感じていたのか、これからどうしよう、という顔をしてその場に突っ立っていた。二年坂で同じ制服の女の子たちとはぐれてから、先生に連絡もせず、2人きりで自由行動を続けている。

 泊まる場所なんてないけれど、ホテルに戻って彼女たちに奇異の視線を向けられるのも気が進まない。「レズ」なんて言葉で、私たちの関係をこの汚されたくなんてなかった。

 人の進む方へ歩いていると、いつの間にか大きな川に私たちは流れ着いていた。

 川を見ると落ち着くのは、生まれ育ったあの町にも、町を繋ぐように川が流れていたからなのかもしれない。ぼんやりと灯されている橙色の街灯を反射して、鴨川の水面がゆらゆらと揺れている。四条駅から清水五条へ向かう道を歩いていく内に、あらかたの話題は尽きて、何をしゃべったらいいのか分からなくなって、私たちは静かになった。時折触れるエリの手の甲が気になって、わざと早足で歩く私の背中を、エリの声が追いかけてくる。


「どこいくの」


 不安そうな問いかけに答える気はなかった。大通りを外れて奥まった一本道を進んでいくと、そこは京都の花道になっていて、私たちのような子どもなんてとても歓迎してくれなさそうな敷居の高い店ばかりだったけれど、その中に一つだけ、鼻を近づけたら黴の匂いがしそうなレンガ造りのお店が今にも倒れそうな顔をして立っていて、その看板には「休憩3000円」と弱々しい文字で書かれているのだった。

 怖がっているのか、エリはそわそわとした態度を隠そうともせずに、私の右袖を引っ張った。


「ちょっと、レミ、まさか」

「大丈夫だよ」

「大丈夫って、何が」

「ふたりとも制服じゃないし。それに私、もうすぐ18歳だから」


 何が大丈夫なのか分からなかったけれど、理由なんて多分何でも良かったのだ。チンという間抜けな音がして、上へ上へと登っていく、エレベーターが止まった。


 正しいセックスの仕方は良く知らない。

 中学校の美術室で、ニキビだらけの男に処女を捨てた反吐が出そうな記憶を一回とカウントするなら、私が他人と肌を重ね合わせたのはこれで二度目だった。あの時、油絵の具の匂いがぷんと香るソファに寝転がっていた私は、もう顔も良く覚えていないあの男が早く精液を出さないかとそればかり考えていた。男が腰を動かすたびあそこが擦り切れるように痛むから。

 だけど、これはあのセックスとは驚くほど種類が違っていた。最後まで恥ずかしがっていたエリの生まれたままの姿を前にした瞬間、穴の空いた人形だった私は何処かに消えた。マラソンを走った後のように、身体も心も熱くなって、このまま死んでしまうのではないかと怖くなるほど、鼓動が早くなる。もどかしくて、胸をかきむしりたくなるような情欲は次々に溢れてきて、止まらなかった。ため息に似た甘い吐息が耳奥を撫でる度、エリの白くて骨ばった身体にぎこちなくふれる度、気が狂いそうな愛しさが胸を突いて、もっともっと彼女をぐちゃぐちゃにしたい。おかしくなるほど、彼女を気持ち良くさせたいという純情に、私の全てが支配されていくのがわかった。

 身をよじって私の愛撫から逃れようとするエリの太ももに唇を這わせながら、もしかしたら私はこの子のことが好きなのかもしれないと思った。正しいセックスの仕方は良く知らないけど。もしかしたらセックスって、与えられるんじゃなくて、与えるものなのなんじゃないだろうか。学校じゃ教えてくれないから、きっとクラスの女の子たちは誰も知らない大事なこと。一足跳びに大人になれたような気がして、何だか嬉しかった。


 エリのそこから出てくる液体は酸っぱくて、口に含むと少し苦い。私の舌が突起を撫でたそのとき、エリの細い足の甲がピンと高く上げられて、唇の隙間から苦しそうな喘ぎ声が漏れた。瞬間、透明な潮が一面に撒き散らされて、私の顔はびしょ濡れになった。一瞬の沈黙の後、エリは顔を隠したまま、消え入りそうな声で「ごめん」と呟いた。


「漏らしちゃうほど、気持ちよかったんだ」

「わかんない」

「嘘つき。そんなに赤くなってるくせに」


 耳までゆでダコのようにさせたエリを、私はいじめたくて仕方がなくなる。首を振っているエリの金髪を無理矢理掻き上げて、私の方を向かせる。


「ねえ、してよ。私にも。いいでしょ?」


 エリは黙ったまま動かない。私が引かないのを見ると、ぎこちない動作で首を縦に振った。

 朝目覚めて、電源の切れていたスマートフォンを手元に寄せる。随分長いあいだ眠っていた気がしたから、時間を確かめたかったのだ。重い瞼を持ち上げて、トップ画面をスライドさせると、何通ものメッセージがそこに連なっていた。


「うっわ、なにこれ」


 お母さん、先生からの着信の嵐だった。私たちふたりのことをさぞかし心配してくださっているのだろう。その過保護さに、何だかうんざりしてしまう。高校生って中途半端だ。まだ20年も生きていない私たちは、大人たちから庇護されるべき対象として守られるけど、その実、私たちはちっとも子どもになりきれない。白いベッドの周りには、私たちのつけていたブラジャーやキャミソールが点々と落ちていた。

 眠っているエリの呼吸音に合わせて、シーツのシワが深くなる。灰色のよだれのシミさえも愛おしく思えて、どうかしてる、と口の中で転がすようにつぶやく。いつの間にか冷たくなっていた足を布団の中に突っ込むと、エリが微かに顔をしかめたような気がした。



「ねえさっき、何買ったの」

「内緒」

「いーじゃん、押してよ」

「しつけーな。何でもいいだろ」

「お願い。一生の、お願い、お願い!」


 両手を合わせて頼み込むようなポーズをとると、エリは呆れたような顔をした。こんなことでムキになるなんて、バカみたいだって私も思うけど。何でか知らないけれど、エリのことを全部分かっている私でいたかったのだ。


「ん」


 ひらひらの部分に小さなリボンのついた、水色の袋が差し出される。


「何、これ。くれるの?私に」

「そーだよ。新幹線の中で、渡そうと思ってたのによ」


 つっけんどんなその口ぶりに、心臓がずくんと鳴る。はやる気持ちを抑えながらラッピングを引き裂くように開けると、中からころりと出てきたのは小さな匂い袋だった。ピンク色のちりめん布地にうさぎが何羽も飛び跳ねている、私好みな乙女小物。鼻を近づけてみると、どこか懐かしい感じのする金木犀の香りがふわっと立ち上ってきた。


「エリの癖に、おしゃれなもの買ってくれるじゃん」


 本当は、思わず泣きそうになったのに、素直になったら負けな気がして、本当のことはどうしても言えなかった。


「レミが言ってたの、覚えてたからさ。香水も制汗スプレーが苦手だけど、金木犀の匂いだけは好きだって。だから」


 そんなこと、話したことすら覚えていなかったのに。エリは照れくさそうに笑いながら、自分のポケットから同じ匂い袋を取り出した。


「実は、あーしのもある」

「何で?」


 エリは、少し迷うようなそぶりを見せながら、結局、困ったように微笑んだ。


「あーしたち、ダチだから、かな」



 家のチャイムを押すと、猛犬のような素早さでお母さんが外に飛び出してきた。お土産に買ってきた八つ橋を差し出したけど、お母さんは受け取ろうとせず、ものすごい剣幕でいろいろなことをまくしたてた。

 どこ行ってたの、何してたの、どれだけ心配したか分かってたの・・・エンドレス、エンドレス、エンドレス。お腹にたまった感情を発散したら満足すると分かっていたから、大人しく聞いていたら案の定、1時間後にはお母さんは私を開放してくれた。

 螺旋階段を上った先にある私の部屋に向う途中、階下からお母さんに呼び止められた。顔だけ外に出すと、お母さんは微笑みながら言った。


「明日から塾にいきなさい。これはお母さんからの命令」

「じゅく?」

「それからしばらく、あんな子と付き合っちゃだめよ」


 私が何かを言う前に、お母さんは台所のキッチンに戻ってしまった。スポンジが皿をこする水音が、やけにうるさく耳に響いていた。


 明日から塾にいくの。それから当分エリに会っちゃだめだって、お母さんが。

 ラインを打ってすぐに、エリからの返信が届いた。了解、という淡白な二文字が、スマホの画面に浮かんでいた。メールとか、ラインが苦手なエリの返事は、いつだってそっけないのに、どこかあっさりと傷つけられた自分がいた。

 するともう一度、携帯が震えた。はやる気持ちを抑えて、ロック画面を解錠する。画面に表示されている文を読んで、私は思わず嘆息した。

 —あーしも、明日から、スナックのバイトすんだ。お前も勉強、頑張れよ。


 お昼ご飯は一緒に屋上で食べるけれど、放課後は別々の道を歩いていく、そんな日々が続いた。勉強は無味乾燥でつまらなかった。白い蛍光灯に照らされる学習塾の教室には、どこもかしこも見慣れた顔が集まっていて、彼女たちの顔を見ただけでうんざりしてしまう。さほど受験勉強の必要性も感じなかったから、いつも寝たふりを続けている私に、誰も話しかけようとしなかった。目に映る現実の全てが退屈で、しょうもなかった。

 制服のポケットに入れていたからか、香袋の金木犀の匂いは、いつの間にか薄くなって、私の体臭の一部に溶けていった。あの修学旅行から一ヶ月が経つ頃には、鼻を近づけても、何の匂いもしなくなっていた。あれからエリとセックスはしていない。それどころか、適切な距離を測りながら、慎重に接する私たちは、今となっては相手の肌に触れることさえ躊躇するようになった。


 —こんな風に私たちは、少しずつ、遠くなっていくんだろうか。

 お互いの痛みが、どちらのものか分からなくなるくらい、側にいたのに。こんな風に少しずつ、他人になっていくんだろうか。そんなことを考えていたら無性にあの子に会いたくなって、エリの白くて柔らかい肌に唇を這わせた時の、胸を焦がすような熱情について、私は思い返していた。あの子の甘い鳴き声を、頭の中で何度も反芻する。

 あの子の味を、私は死ぬまでずっと、覚えていられるのだろうか。



 塾が終わると、街灯の少ない夜道は真っ暗だった。わざと回り道をしたくて、自転車のライトを頼りに前へと進んだ。あの子の働いているスナックの前でブレーキをかける。スナック「ちづこ」と書かれた扉の中はまだ明るい。おじさんの高らかな笑い声と共に、扉が開く気配がして、身を隠そうとしたときにはもう遅かった。「あ」という口をしたエリの肩には、知らないサラリーマン風の右手が載っていた。


「エリちゃん、知り合いかい?」

「あ、はい。まあ」

「あの子もべっぴんさんだねえ。よかったらきみ、こっちおいで。エリちゃんとおじさんの三人で話さない?こっちの方は、弾むからさ」


 指で円ををつくった赤ら顏のおじさんは、酒臭い息を私に向けた。性欲を具現化したような生き物を前にして、吐き気を催しそうになる。エリはこんな仕事をしているのだろうか。心を殺して、笑顔を振りまく、こんな仕事。身売りと一体、何が違うのだろう。伸ばされた手を跳ね除けたのは、私ではなく、エリの方だった。


「こいつは、ダメなんで。こいつは、そういうんじゃ、ないんで。あーしで勘弁してくださいよ」


 思わず、息を呑んだ。そして同時に、エリのことを汚いと思った、自分を恥じた。

 また来てくださいねと言って、エリは笑った。今まで一度だって見たことのない、エリの愛想笑いは、予想外に板についていた。

 おじさんを見送るエリの背中に、頭をもたせかける。エリの匂いがした。この世界でただ一人、私の胸を切なくさせる匂い。


「何しに来たんだよ」

「ねえエリ。いつものとこ、遊びに行こうよ」


 背中に感じるエリの体温がもどかしくて、彼女の腕を自分の身体に巻きつける。ペダルを漕ぐ足を止めて、なぎ倒すように自転車から降りると、怯えたような顔をしたエリが子供のように大人しく、後ろをついてくる気配がした。


 公園の中にはホームレスの老人が一人、ブランコに座っていた。公衆トイレの中はうっすらとアンモニアの匂いがして、ちかちかと点滅する蛍光灯の光に、2匹の虫が興奮して飛び回っている。

 私は抵抗するエリの下着を脱がせると、自分の鼻先に近づけた。かすかにおしっこの匂いがして、中心のクロッチの部分がかすかに濡れている。頬を真っ赤にするエリがかわいくて、ますますいじめたくなってしまうけれど、風邪を引かせてしまうのは嫌だったから、素早く自分のものを脱いで、それをエリの性器にあてがった。濡れた私のショーツが冷たかったのか、エリは身体を震わせて反応した。


「これから毎日、交換しようね」

「・・・なんでだよ」

「セックスの代わり。だって学校ではできないでしょう。もうこれで大丈夫、私たち、離れていてもずっと一緒だね」


 嗚呼、私はあなたの嫌がる顔がみたいのだ。そしてあなたといつまでも繋がっていたいのだ。これが愛なのかはわからない。ただわかるのは、たったひとつ。

 —エリは永遠に、私のもの。私だけのもの。

 私の中心から溢れてきたとろとろとした熱い液体が、エリの体液と混ざり合う音が聞こえたような気がした。



 —なあ、レミ。あーし、レミのことがわかんねーよ。最近のレミ、変だよ。パンツの交換なら、まだよかった。けど、レミ、変なおもちゃとか、持ってくんじゃん。しかもそれあーしの中、入れようとするし。もう無理。だってこんなの、ダチじゃねーよ。おかしーよ。あーしはもう、レミについていけないよ。ごめん。


 3時間目の英語の授業中、エリから長文のラインが届いた。私を拒否する文字が綴られた、完結型の、身勝手な文章を目にして、とっさに頭に血が上る。深呼吸をして、硬い椅子から立ち上がると、思ったよりもずっと大きな音がして、クラスメイトからの視線が私の方に集中した。こわばった顔を黒板に向け続けているエリの元へ、上履きが向く。先生が、私の呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど、そんなことはどうでも良かった。


「ねえ。自分だって楽しんでたくせに、何言ってんの」


 おもしろいくらい声が震えていた。こんな風にノーガードになって、他人と向き合う女の子の痛々しさを、不器用さを、私は笑っていたけれど。今、わかった。あの子はきっと、そうせずにはいられなかったのだ。


「気持ちいいって、あんただって、叫んでたくせに」


 エリは決して私を見ようとしない。だから私の激情は治らない。 どんどん高ぶって、止まらなくなる。後先なんて、考えられなかった。エリをこっちに向かせたくて、たまらなかった。


「ふたりでいれば最高だって。最強だって、言ったくせに。ねえ、エリ。私のこと、捨てるの?捨てられるの?」


 耳に届くのは、あまりにも情けなくてか細い声だった。教室中の女の子の視線が、私たちふたりに注がれているのに。私はスカートのポケットの中からスマホを取り出して、一つの動画を再生して、エリの前に突きつけた。教室のさざめき声が、段々と大きくなっていくのが分かる。エリの澄んだ茶色の瞳が、大きく見開かれる。今日初めて私を見てくれた幸福に、私の唇の両端が持ち上がった。


「させないよ。そんなこと、絶対させない」


 衝撃が右頬を襲った。八重歯が当たって坑内が切れたのか、舌の上に鮮やかな鉄の味がぱっと広がる。こんな風に、エリに殴られるのは初めてのことだった。エリはそのまま私を冷たい床に押し倒すと、馬乗りになって、私の頬を何度も繰り返し、ぶった。抵抗する気など、初めからない。痛いのに、苦しいのに、刺激が激しいほど、息ができなくなるのに、どうしてか心の海は凪いでいた。エリの目からこぼれ落ちた熱い涙の粒が、まるで線香花火の赤い玉のように、私の肌を焦がしてゆく。

 嗚呼、エリ。もっと私を殴ってよ。あなたを傷つけたいなんて気持ちが消えるくらい、強く、激しく殴ってよ。そして、もしも私とあなたが、いつまでも繋がりつづけることができないのなら。私のこと、今すぐここで殺してよ。


 何処からかやってきた先生たちが、エリを羽交い締めにした。大人たちはどうして、私たちを邪魔するのだろう。獣のようなエリの咆哮が、狭い教室の中に響き渡っていた。



 それから2ヶ月の間、私はトイレとお風呂にいくほか、なるべく部屋から出なかった。俗に言う不登校というやつだ。そんな風に自分の殻の中に閉じこもっていると、お母さんが腫れ物に触るような態度で言った。


「明日、病院に行きましょう。一緒に」


 連れて行かれたのは山奥にある、頭のおかしい人間が行く病院だった。心療内科の医者は、私に良くわからない名前の薬を与え、お母さんに高校の転校を進めた。私は逆らわず、言う通りにすることにした。遅かれ早かれ、私とエリは別れなければいけないことを頭では分かっていたから。

 段ボールに荷物を詰めていく。部屋の中にぱんぱんに詰まった、がらくたをゴミ袋に放り込みながら。エリと撮ったプリクラや、交換しあった意味のない手紙、誕生日にもらったカエルのおもちゃ、お揃いで買ったシュシュ。思い出すたび、胸の中できらきらと光る思い出を捨ててゆく。それでもたったひとつ、もう匂いのしなくなった匂い袋だけは、手放すことができなかった。

 

 それはこの街で過ごす最後の夜だった。

 自転車で走って、トンネルを通り抜けると、以前、エリを突き落とした田園地帯に差し掛かった。ブレーキを踏んで、自転車を停める。晴れた夜の星空を水面が反射して、どこまでも広大な星空が広がっているように見えた。


 右手に握りしめた匂い袋を、田園に向かって投げる。ぽちゃん、という水音がして、辺りは再び静けさに包まれた。もうこれで、全てが終わったのだ。遠くてカエルの鳴く声が聞こえて、自転車に足が向かった、そのときだった。

 田園を挟んだ向こう岸にしゃがみこむ、エリと目が合った。こっちを見上げるその瞳には、何の感情も読み取れなかったけれど。気づくと私は、エリの元へと走っていた。

 私はエリの身体を水面に向かって突き落とした。だけど前みたいに、彼女と同じように、全身を泥まみれにして、同じ色に染まることは私にはできなかった。


 —なぜなら、私はエリじゃないし、エリは私じゃないから。

 私たちはもう、お互いを切り離して、違う個体として生きていたのだった。


 エリは半身を起こして、呆れたように笑った。本当、どうしようもねーよな、レミは。かつて私はエリに身を焦がしていた。彼女の為に全てを捧げたいと願っていた。エリが確かに私の神様だった、あの時のまま、何も変わらない、ニヒルでやさしい笑みを浮かべて、私に向かって手を差し出していた。その手をはねのけて、お別れの言葉を口にした。もう身体は震えていなかったし、私はエリの瞳から目をそらさなかった。


「エリ。あなたのことが、大好きだったよ。さよなら」


 自転車で走った。あなたを想い出の中に取り残して、どこまでも走った。前進か後退かも良く分からないまま、全力で走った。

 突然つんのめって、あっと思う暇もなく、自転車ごと坂から転げ落ちた。全身を打撲したせいで、身体のあちこちが痛んでいる。もしかすると、右足の膝を骨折したのかもしれない。動くことができなくて、寝っ転がって空を見上げた。湿った雑草が、頬に柔らかかった。

 星空は果てしなく続いているのに、どうして私たちは永遠になれないのだろう。

 目を閉じると、蘇る。最強で最高だった私たちの姿が、蘇ってくる。

 夢のような記憶の中で、私とエリが、屋上でお弁当を食べながら、そっと笑い合っていた。



【了】


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