第2話 ハプニングはつきものな件について
『……うっぐ、ひっぐ……うぅ……っ!』
女の子が泣いていた。
歳はハッキリとは憶えていないけれど。それは、たしか小学生の頃だったと思う。
僕はその少女のことを、とてもよく知っていた。彼女は隣の家に住んでいて、毎日のように遊んでいた大切な子。――そんな女の子が、泣いていた。
いじめられていたんだ。
あまり、しっかりと自分の気持ちを伝えることの出来ない子だったから。
誰よりも心優しかったばっかりに、彼女はいじめてもいい対象になっていた。桜木春歌はいじめても構わない。それが、いつの間にか暗黙のルールになっていたのだ。
僕は、それが耐え切れなかった。
なんだ。ふざけるな。そんなこと、許されるわけがない。
きっとそれは、ほんのちょっとした正義感。そして、微かな恋心から。僕は春歌を取り囲んでいる同級生の輪に飛び込んでいった。
殴って、殴られて。蹴って、蹴られて。投げて、投げられて。
何度か意識が飛びそうになった。
それでも、歯を食いしばって何度も、何度も、何度も――僕はみんなの前に立ち塞がった。それを幾度となく繰り返して。気が付けば、その場にいるのは僕と春歌。
二人だけに、なっていた。
『りゅう、くん……? だい、じょうぶ?』
あぁ、春歌の愛らしい顔。涙でくしゃくしゃになってた。
大丈夫かと、そう訊かれたら当然、大丈夫なんかじゃない。記憶が正しければ、どこかの骨が折れてたはずだし、身体中、とにかく傷だらけだったと思う。
それでも僕は、まるで何でもないように答えた。
『ん、なんでもないよ。別に……』――と。
――桜が舞っていた。
あぁ、そっか。それはたしか、桜の綺麗な季節だった。
僕と春歌に、薄桃色の花びらが踊り降ってくる。鼻先に乗ったそれはくすぐったかったけれど、払う元気もなくて、いつか埋もれてしまうのではないか。そんなことを考えていた。
そんな時。
ホントに、何を思ったのか分からない。
春歌は唐突に、何かを歌い始めた。それは、たしか春を賞賛するモノで。
『あぁ。きれい、だね』
何に対してだったのか、分からない。
気が付けば、口をついてそんな言葉が飛び出していた。
『りゅうくん。わたし、ね? ――きょうのこと、きっとわすれない』
僕の言葉を聞いてから、春歌は歌うのをやめてそう言った。
そして、一言こう――。
『――――――――――』
――あぁ。肝心なところで、意識が曖昧になっていた。
僕が眠りに落ちる最中に、春歌は僕に、大切な何かを言ったのである。
それはもう、遠い記憶の中にあって。手の届かない、そんなところにあった。
でも、きっと。
それは、きっと――。
◆◇◆
映画館を出た僕たちは、近くの喫茶店のテラス席でくつろいでいた。
慣れないコーヒーをすすりつつ、会話に花を咲かせる女性陣を眺める。先ほど見たアクション映画の話題で盛り上がっているらしい。リミナが身を乗り出して興奮を隠しきれないでいるのを、春歌は困ったように微笑みながら、アイリーンはどこか楽しみながら、なだめていた。
「すごかった! アレが、どーんてなって! ばばばーん、って!」
「あ、あはは……そうだね。凄かったね、リミナちゃん」
「ふふふ。でも、本当に楽しいモノでしたね」
会話の一部を切り取ればそんな感じだ。
終始、鼻息荒く物語に入り込んでいたリミナ。異世界出身の彼女は、そもそも映画というモノが初体験であった。それを鑑みれば、まぁこういったことになるのも当然であると思える。
むしろ意外だったのはアイリーンだ。
異世界出身だというのに、こちらの世界のモノを見ても全く動揺しない。むしろどこか懐かしそうに見つめてさえいた。でも、そうだな。この駄女神は僕らの世界とあちらの世界を繋ぐことが出来る。それを考えれば、当たり前なのかもしれなかった。
「あの、舞桜さん。少しよろしいですか?」
「どうしました? 春歌さん」
さて。そんな考察をしながら、苦い飲料を再び喉に流し込もうと――カップに口を付けた時であった。春歌が何やら不思議そうな表情を浮かべ、話しかけてくる。
僕は一旦、動きを止めてから見つめ返した。すると彼女は、何やら喫茶店の外、通りの方へと視線を向ける。なので、こちらもそれを追いかけることにした――はい?
「あれ、なんでしょうか……」
「え、いや。うん。アレは……」
春歌の言葉に、僕はまともに返答できなかった。
しばしの思考停止である。だって、彼女の示した先にいたのは――。
「――って、おい!
「む? リュウさん今、聞き捨てならないことを口にしませんでしたか?」
「そんなこと、今はどうでもいいんだよ! あれ見ろ、あれを!!」
「はい? あれって、何を――あ、あら?」
僕は放たれた弾丸のように、アイリーンに掴みかかった。
そして、最大限小声で問い詰める。最初は何事かと、不快な表情を見せていた駄女神であったが、外を指差すと、頬から一筋の汗を流した。
「あらら」と。どこか他人事のような声を発しながらコイツは、視線を泳がせるのであった。しかし、僕はそれを許さない。
だって、そうだろう。
春歌の視線の先にいたのは、どう見ても――。
「――どう見ても、スライムじゃねぇかッ! なんでこっちにいるんだよ!?」
そう。あちらの世界の魔物、であったのだから。
半透明のゲル状生物は、意思を持つようにしてうねうねと前進している。人々が距離を取ってスマホを向けているそれはどう考えても、どう取り繕っても、こちらの世界の生命体ではなかった。つまるところ、そういうことである。
「ええっと。まぁ、この完璧な私にもミスや見逃しはあるわけでして……」
――この駄女神、やらかしやがった。
僕の部屋にある異世界との繋がり。その時空の歪みの管理をおろそかにしてきやがった。そして、その結果がこの通りである。
「なぁにが、完璧な私だ! この大馬鹿!!」
「お、おほほほほほっ! ……え~っと。はい。申し訳ございません」
僕がガクガクと身体を揺すると、最後には静かにそう謝罪するアイリーン。ようやく己の非を認めたが、今はそれどころではない。
この場にいてはならない存在を、いかにして排除するのか。それが問題だ。
それも穏便に、かつ可及的速やかに。
とりあえず、リミナにだけはバレないように処理を――。
「……って、おい。リミナはどこ行った?」
「リミナさんは、もうすでに……」
「……………………」
――遅かった。
僕は大急ぎで外を見る。
するとそこにいたのは、スライムと対峙する一人の少女――リミナがいた。彼女は剣を構えて、鋭い視線を相手へと。スライムは怯んだのか、1メートルほどさがる。
「そこのまものよ! いま、このアタシがせいばいしてくれる!!」
そして、リミナはそう口上を上げた。
まぁ、簡単に済むとは思ってなかったけどさ。
それにしたって、想定外のハプニングに、僕は呆然とするしかなかった――。
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