第3話 月日の流れを感じる件について
「舞桜、リュウ……くん?」
目の前に立つ女性は、僕を見てそう呟いた。
その表情は、信じられないモノを見るかのよう――いいや。まさしく、信じられないモノを彼女は見ているのだった。何故なら彼女にとっては、六年前の亡霊を見ているに等しいのだから。
そう。彼女は僕の過去を知っている人。
そして僕にとっても、彼女はとても大切な――
◆◇◆
――数時間後。
僕はボンヤリとした思考で、日課となったネットサーフィンをしていた。
しかし、液晶に映し出される数多の情報も、今はまったくと言っていい程に頭の中に入ってこない。その原因は言わずもがな、今朝の出来事のせいだった。机の端に置かれた菓子折りをちらりと見て、僕はもう何度目か分からないため息をつく。
「おやぁ? リュウさん。どうしたのですか、そんなにボーっとして」
だが、そんな風に上の空だったからだろうか。
コイツに、易々と侵入を許したのは。
「…………あぁ、なんだ。誰かと思えば、
「今、失礼な言い方しませんでした?」
僕が少しイラついた口調で言うと、何やら感じ取ったらしいアイリーンは口角をひくつかせた。笑顔を作ってはいるが、内心では怒っているのが分かる。
「……気のせいだろ?」
だけど、今はそれに構っている余裕はなかった。
そのため僕はぶっきら棒にそう答え、彼女から視線を逸らす。
けれどもアイリーンの方はと言えばここぞとばかり、僕の顔を覗き込んでにたりと笑った。その笑い方はアレだ。少なくとも女神がしていい笑い方ではなかった。
「ふふっ、だから先日言ったではないですかぁ。どのような方が越してくるのか、聞かなくていいのか、と。私はちゃんと言いましたよ? あの時にっ♪」
「………………」
そう。たしかに、彼女は僕に告げていた。
それを真剣に受け取らなかったのは、僕の失点だ。
だけれども、まさか、あんなことがあるとは思いもしないだろう? まさか――
「――まさか。幼馴染みが引っ越してくるなんて、思わなかった、ですか?」
「うるさいな、少し黙れよ――アイリーン」
「あらら、随分と……ふふっ」
僕の怒っている様子が、そんなにもおかしいのか、彼女はコロコロと笑った。
中空をふわふわと移動しながら腹を抱えている姿は、さらにこちらの神経を逆撫でる。――が、それに対して反発するのも面倒くさかった。
いいや、やはり余裕がないのだ。
それによって、今はこうしてコイツのやりたいようにやられてしまっている。
癇に障るが、今は仕方がない。僕の頭の中にはこんな駄女神のことよりも、彼女の悲しそうな笑顔が浮かんでは消えていっているのだから。
そう。今朝、僕の名を呼んだ彼女の名は――
「――桜木
「――――――っ!」
瞬間――僕の身体が、自分でも信じられない速度で動いた。
空気を裂くようにして、腕を伸ばす。狙いは小賢しい言葉を紡ぐ駄女神の喉。
時間にして一秒にも満たなかっただろう――僕は、アイリーンの首を掴み、もう一方の手で彼女の片腕を拘束していた。そして、そのまま壁へと彼女を叩きつける。
ほんの少しだけ、彼女は苦悶の表情を浮かべた。
だがしかし、その次にはもう愉悦とも取れる笑みを作っている。
なるほど。これで、よりハッキリした。ここに春歌がやってきたのは、偶然ではない。すべて、コイツが仕込んだこと。だが、それは――
「――なんの、つもりだ?」
そう。その意図が分からない。
何故こいつは、彼女をここに連れてきた――?
「交換条件、です」
「……交換条件、だって?」
少し力を緩めると、アイリーンは少々苦しげだがそう漏らす。
僕が繰り返すと、小さくうなずいてみせた。
「えぇ、現状の私たちの力関係は対等とは言えません――そのため少々、小細工をさせていただきました」
「小細工……? ――お前、もしかして!」
「えぇ、その通りです」
こちらの言葉に、ハッキリと肯定の意を示す駄女神。
「……人質の、つもりか?」
彼女は僕の言葉に、アイリーンはさらに口角を歪める。
これで確定した。この駄女神――いいや。クズ女神は、僕を怒らせた。
要するにこの女神は、自分と僕の立場を対等にするために、春歌のことを巻き込んだのだ。聖剣の失点をバラせば、春歌にすべてのコトを話す、ということ。
それは僕が外との関わりを絶ってきた理由の一つでもあった。もし僕の素性がバレたりすれば、周囲の人を巻き込むかもしれない。それは僕と関わりのない、他人であったとしてもだ。六年間、幸い空間の歪みから出てきたのは弱い魔物だけだった。でも今後、何の被害もないなんて、断言できない。
それを、この女は――っ!
赤の他人どころか、春歌を巻き込みやがった!
――ギリ、と。
アイリーンの首にかけた手に力が込められる。
それは僕の意思に反して、無意識のうちに入ってしまっているモノだ。だがしかし、それを止める侵入者があった。それは――
「――めがみさまぁ!」
力強く振り下ろされた剣の一撃。
それは、決して僕のことを傷付けないと分かっていても、反射的に
その――潤んだ双眸で。
「ついに、めがみさまに、てをだしたな!? まおう!!」
「どけよ――――リミナ」
剣を投げ捨てた人物――リミナは、今にも泣き出しそうな
僕はしかし、そんな
それでも、この少女を傷付けることは――
「――――もう、帰れ」
「なにっ……?」
僕には、出来ない。
僕にはやっぱり女の子を殴ることなんて、出来ない。
困惑した顔をするリミナに、感情の読めぬ色を浮かべるアイリーン。
そんな二人から視線を逸らし、僕はパソコンの前に腰を下ろした。そして、それを起動させていつも通りにネットサーフィンを開始する。三人もいるのに、不気味なほどに静かな部屋の中、僕のタイピング音だけが響いていた。
「おい、まお――」
「――いいから、帰れよっ!」
「ひっ……!」
リミナの遠慮がちな声を、怒気を孕んだ声で遮る。
すると肩越しに小さな悲鳴が聞こえてきた。それだけも心が痛い。
だけども、この不安定な自分の心を解放するにはそうするしかなかった。結果として、無関係な女の子を怖がらせてしまう結果となったとしても。
「戻りましょう、勇者リミナ」
「めがみ、さま? でも――」
「――いいのです。今は、まだ……」
そんな会話が聞こえてきて、すぐ後に襖の開く音がした。
どうやらアイリーンが、少女を連れて異世界へと戻っていったらしい。
そして、襖が閉まる音がしたのを確認してから、僕は大の字になって六畳間の中心に転がった。天井のシミを見ながら、僕は深く息を吐き出し、直後乱れそうな呼吸を必死に整える。すると、張っていた気が緩んだのか、目蓋が重くなった。
仕方ない。
目を閉じることにしよう。
だけど、どうせ見えてくる光景は同じ。
そう。それは今朝の、春歌とのやり取りだ――
◆◇◆
――僕らの時間は、その瞬間止まっていた。
互いに信じられないモノを見て、まさしく言葉を失っていたのだ。
彼女は失ったと思っていたモノを。僕はもう見ることはないと思っていたモノを。それぞれにとって、決別したつもりだったモノとの再会を今、この時に果たしていた。
それは、そう――絶望的なモノだった。
「……あ、ごめんなさいね」
呆然としていると、先に我に返った彼女の声によって引き戻される。
そこに至って僕はようやく、六年の月日を見つめることが出来た。変わらなかった僕と、時を重ねて大人になった彼女の差を。そして、そこに残る面影を。
顔立ちはどこか幼さが残り、しかし薄く化粧をしているのだろうか。淡い桃色をした口紅は、吸い寄せられるような艶やかさを持っていた。瞳は円らで、黒のくりっとした輝きは懐かしい。やや太めの眉は、少々下がり気味で。普段から困ったように笑っていた彼女らしさがあった。
背丈は、高校の頃と比べて多少伸びたのか、僕と大差ない。その分だけ近くなった顔に、思わずドキリとさせられた。ふわり、風に舞った肩ほどの黒髪からは、覚えのある香り。
そして、身にまとっているのは黒のレディススーツだった。今の季節は春。あぁ、おそらく彼女はこれから職場へと向かうのだろう。時の流れに取り残されることなく、あるべき形で。
そんな彼女――桜木春歌は、やはり困ったように笑ってみせた。
「その、昔の友達によく似てたものだから、つい――あぁ。名前も同じなんて、凄い偶然ですね。あははっ……」
「………………」
表札を見て、春歌の表情は悲しげなモノに変わっていく。
それは、僕にとっては一番嫌いなモノ。最も見たくない、大好き
「あ、わたし隣に越してきた桜木春歌――春に歌ってかいて、『うらら』って読むんです。それと、これ! お近付きの印に!」
「え、あ……ども」
それに気取られていた僕は、早口な春歌に土産の箱を渡されて呆然とする。
反射的に受け取ったそれに逃げるように、視線を落として僕は短く返事をした。すると春歌は、一歩下がる。そして深々と頭を下げた。そして――。
「よろしく、お願いします! それじゃ、また!」
「あっ……」
そう言って、足早に駆けて行ってしまう。
まるでそれは、逃げるかのように見えた――否。彼女は実際に逃げたのだ。一瞬だけ宙を舞った涙が、それを告げていた。それを見せまいとして、春歌は――
「――――」
でも、僕は何も言えない。
そもそも、その言葉を僕は持たない。
だから僕は、ただその場に力なく立ち尽くして――
「――くそっ!」
ドアを閉め、吐き捨てるようにそう言うことしか出来なかった。
◆◇◆
……やっぱり。見たのは、その光景だった。
あまりにも鮮明に、鮮烈に、今朝の出来事は僕の目蓋の裏に、そして脳裏に焼き付いては離れない。それも仕方ないだろう。なにせ、彼女は僕にとって――いいや。正確に言えば、【人間だった頃の僕にとって】、大切な人だったのだから。
そう。彼女は特別なのである。
彼女は、人間だった僕が生涯にして
「……どうしろって、いうんだよ」
だからこそ、明かせない。
余計に、明かすことなど出来はしない。
もはや【人間でなくなった僕には】もう、告げることは許されない。
その現実が、僕の心を苛めた。
それはもう、嫌というほどに突き付けられた。
そして六年という月日もまた、僕と彼女の関係を捻じ曲げた。
「どうしろって――!」
悔しくて、思わず畳を叩く。するとその箇所が、深々と陥没した。
それを見て、余計に辛くなる。そう、僕はもう人間じゃ、ないのだ――と。
それは六年間、目を背け続けてきた真実。
それは六年間、リミナ達と戯れながら、逃げてきた現実。
「どうすれば、いいんだ……っ!」
そしてそれは、まだまだ未熟な僕への、あまりに過酷な運命の悪戯だった――
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