第6話 わすれもの
あの図書室の一件の後、
気づけば
窓の外を、日に焼けた街並みが右から左へと流れていく。
遠くの空に夕方の訪れを告げる鳥の群れが見え隠れして、
それらを見るともなしに見ながら、汐里は底なし沼のような意識の底からあの出来事の顛末を掬い上げようとしていた。
曖昧な記憶に、図書室を出る前に見た稚佳子の寂し気な笑顔だけがやけにはっきりとこびりついている。
「また来てくれる?」
そう言われた気がする。
何と答えたのかは覚えていない。
ふと肩に掛けた鞄の、そのずしりとした重さに気づいて中を検めると、稚佳子に図書室を案内してもらった際に目星をつけた文庫本が三冊と、最初に借りた本が返却されずにそのまま入っていた。
それにしても――、と思う。
果たして貸し出しの手続きとやらはちゃんと行われているのだろうか。少なくとも汐里にその記憶は全くない。
とは言え、
おかげでまだ図書室を訪れる口実があることに汐里は少しだけ安堵する。
問題は、どんな顔で稚佳子に会えば良いのかわからないということだ。
――そもそも、会いに行っても良いのだろうか?
またあんな顔をさせてしまうぐらいなら、もう会わない方が良いとすら思う。
折角進むべき道とその先にある居場所が見つかった気がしたのに、あっという間に見失ってしまった。
このトラムのように決められたレールに乗っかって、迷うことなくあるべき場所へ辿り着けたら良いのに――。
その日は結局、借りてきた本を読もうにも全く集中することができなかった。
次の日、火曜日の昼休み。
四限目の授業の終わりと同時に、思わず気が抜けて机の上に突っ伏すようにした汐里の背中に、いつもと変わらない明るい声が掛けられた。
「
汐里は大儀そうに体を起こすと、ぐるりと身体を後ろへ回して答えた。
「
「うん、いつもはそうなんだけれど、何となく今日は外で食べたい気分なのよね」
「――外で?」
「うん。校庭の芝の上で食べるお昼もなかなか乙なものよ。ほら、このお天気だし。日向はまだ暑いかもしれないけれど、木陰に入れば風が気持ち良いと思うの。――どう?」
「明瀬さんがそう言うなら――、うん、良いよ」
汐里は少し考えてから、こっくりと頷いて見せた。
「決まりね。一度食堂に寄ってパンを買っていっても良い?」
「ダメって言ったら?」
「篠宮さんのお弁当を半分食べさせてもらう」
「……、一年生の学食ってどこだったっけ?」
「この校舎の五階だよ。篠宮さん行ったことないの?」
「オリエンテーリングの時に一度行ったっきり」
「そう――。じゃあこの時間の学食は見たことがないわけね」
含みのある言い方に汐里は首を傾げるが、明瀬はそれ以上は語らず、不意にぴょんと飛び跳ねるように席を立った。
「兎に角、そうと決まったら早速行こうよ。こうしている間にも、わたしのお昼が売り切れちゃう……!」
少しだけ秋の色を濃くした空の下、まだまだ衰えを見せぬ太陽の、その高い位置から射下ろすような光を浴びてさんさんと輝く芝で覆われた、『緑が丘女学院』の高原のように広い校庭。その縁に沿って等間隔に植えられた常緑樹の木陰に、無垢な少女達の楽し気な笑い声が途切れることなく聞こえている。
その並木から少し外れた場所にある一本の銀杏の木の下に、二人の少女が寄り添うように隣り合って腰を下ろしている。
木の陰にすっぽりと収まるように座った汐里と明瀬の肩は十センチも離れていない。他所の木と違って、その木の根元には他に誰の姿もないはずなのに、二人がわざわざ窮屈そうにしているのにはわけがある。
汐里がお弁当の蓋を開け、その置き場に困って試行錯誤しながら言う。
「敷物の用意があったのはありがたいけれど、ちょっと狭すぎない?」
「仕方ないでしょ。これ一人用なんだもの」
二人が仲良くお尻の下に敷いているのは、明瀬が学校に常備していたパステルカラーの小さなレジャーシート。
つまり、一見して仲睦まじい恋人のように肩を寄せているのも、制服のスカートを汚さないための苦肉の策というわけだった。
諦めて、芝が途切れて剥き出しになった地面の上に裏返した蓋を置く。
「――それにしても、お昼休みの学食があんなに人でいっぱいなんてびっくりした。いつもあんな感じなの?」
「うん。学年別に分かれているとはいえ、人数が人数だからね。むしろ今日はそんなに待たずに購買のパンが買えてラッキーだったよ。下手すると、もっと長い列に並んだ挙句売り切れなんてこともあるし」
「そういう時はどうするの?」
「わたしは校内に置いてある自販機のパンを買って食べるかな。流石にそれまで全部売り切れるってことはなかなかないものね。でもやっぱり学食の方が美味しいから、みんな並んででもそっちを食べたがるんだ」
そう言いながら明瀬は買ってきたばかりの包みを開き、まだ出来立ての香りがするコロッケパンを一口頬張ると「うん、おいしい」と満足気な笑みを浮かべた。
「……そんなに美味しいの?」
汐里は思わず明瀬の方に首を巡らせて聞いた。
だってそんな顔を間近に見せられて、興味の沸かない女の子がいるだろうか。ただでさえ、さっきから美味しそうな匂いがしているというのに。
「食べてみる?」
悪戯な笑みを浮かべた明瀬が二口ほど齧り取られたコロッケパンをこちらへ向けて言う。汐里の口の高さに持ち上げて、「お食べ」と差し出されたそれを思わずまじまじと見つめる。
残念ながら、そこまでされて尚「施しは受けぬ」と言い切れるほど汐里は高潔ではなかった。
ぱく。
――おいしい。
すると明瀬は満足そうにしながら、汐里の顔を覗き込むように聞いた。
「どお、美味しい?」
こっくりと頷いてから、少し考えて、汐里は今まさに口に入れんとしていた卵焼きを明瀬に差し出して言った。
「明瀬さんこれ――。その、お返し」
それからしばらくして、
二人がお昼を食べ終え一休みしていると、明瀬が思い出したように口を開いた。
「でも、もしかすると来年以降の新入生はもっと大変かも」
「? 大変って何が」
「学食競争が激化するかもしれないってこと。ほら、来年からまた学校の数が減らされるって話でしょ? そうなるとこの学院の入学者もまた増えるはずだから、来年の一年生は今年よりずっと多いんじゃないかな」
汐里が「そういうこと」と頷くと、明瀬はただでさえ近い顔と顔を更に寄せて、耳打ちするように言った。
「でね。これはあくまで噂なんだけれど、入学者が増えることを見越して新しい校舎を建てる予定があるらしいの」
「へえ、それはまた、大変そうだね」
汐里がどこか上の空で答えると、明瀬はまた意味深な声音で言う。
「篠宮さんも他人ごとではないかもしれないよ」
「どういうこと?」
すると、明瀬は汐里の質問には答えずに、思わずどきりとする一言を放った。
「ねえ、篠宮さん。昨日図書室で何かあったの?」
「――どうして?」
「だって授業中もずっと上の空だったじゃない」
「そんなことないよ」
汐里が努めて平静な声で答えると、
明瀬は冗談めかした台詞とは裏腹に頑なな表情で言った。
「ううん、それは嘘。後ろから見ていればすぐにわかるよ。わたしが篠宮さんの背中を何年見てきたと思ってるの」
それは比喩でも何でもなくて、文字通りそのままの意味だった。
何故か不思議なことに中学時代から、同じクラスになると決まって明瀬は席替えのたびに汐里の後ろの席にやってくる。くじ引きで決めようが教師の一存で決めようがそれは変わらない。時たま離ればなれになることはあっても、その次の席替えではまたちゃっかりとすぐ後ろに座を占めているのであった。
腐れ縁というやつだと思って、汐里は無理やり納得している。
だから、きっとこれも隠していても仕方のないことなのだ、と汐里は観念した。
少しだけ気持ちの整理をしてから、汐里はポツリと口を開いた。
「昨日話した上級生の人にね、図書委員に入れて欲しいとお願いしたら、ばっさり断られたの」
「あらあら……。でも、どうして?」
「わからない。だって昨日は聞けるような雰囲気じゃなかったもの」
「……そっか。ねえ、その図書委員の人って2年14組の
「うん、そうだけど。何で――」
知ってるの、と汐里が言い終える前に明瀬がその答えを口にした。
「うちの部活に同じクラスの人がいてね。その人に図書室の話をしたら、千代倉さんのことを教えてくれたの」
「……どんなこと?」
「凄く綺麗な人なんだってね。クラスでも人当たりが良くて評判らしいけれど、でも、一年生の頃はちょっと近寄りがたい雰囲気だったってその人は言ってた。当時の委員会の上級生とは仲良くしていたらしいんだけれど、同級生とはあまり交流がなかったって」
「そうだったんだ。……うん、少しだけ思い当たる節はあるかも」
汐里は、稚佳子が時折見せた不可解な仕草や表情を思い出して頷いた。
その様子をしばらく黙って見ていた明瀬が、いつになく真面目な声で言う。
「――あのね、篠宮さん。きっと千代倉さんが断ったのには何かそれ相応の事情があるんだよ。本人に聞くのは難しいかもしれないけれど、それなら顧問の先生に訊いてみるというのはどうかな。何か手掛かりは掴めるかもしれないよ」
放課後が訪れ、その慌ただしい最初のひと時が過ぎ去るのを待って、
汐里は荷物を教室に残したまま、全面ガラス張りの職員室の前に立っていた。
廊下のどこからでも中を見渡せるその構造は、〝生徒にも開かれた職員室〟をという配慮によるものだろうが、正直なところ、近づく前から見張られている気がして少し落ち着かない。
小さく深呼吸を一つ、四方の壁と同じように透明な扉をノックして開く。
「失礼します。
汐里が担任から聞き出していた名をおずおずと伝えると、入口の近くにいた教師は少し奥まった席にいる目当ての人物へと取り次いでくれた。
ロマンスグレーという言葉が良く似合う、銀縁眼鏡を掛けて灰色の頭髪を綺麗に撫でつけた初老の男性が、振り向いて訝し気な声を出す。
「はて、君は……?」
軽く会釈してから傍まで近寄って、汐里は自己紹介をする。
「はじめまして、1年9組の篠宮汐里です。宮田先生が図書委員会の顧問をされていると聞き、お話したいことがありましてお伺いしました」
すると、宮田は少し驚いた声を上げた。
「図書委員会?」
「あの、何か――」
「いや、一年生からその名前が出るのは珍しいと思ってね」
「ええと、実は図書室で図書委員の千代倉さんにお会いしまして、彼女がお一人で委員会の仕事をされていると聞いたので是非お手伝いをしたいと思ったのですが、断られてしまって……」
「ふむ、すると君は図書委員会に入りたいのかい?」
「可能であればそうしたいと思っています。それが無理なら、ただお手伝いさせてもらうだけでも良いんです。でも、千代倉さんは関係者以外には頼めない仕事だと仰ったので……」
汐里が自分の意思を告げると、宮田は一拍置いてからゆっくりと口を開いた。
「そうだね。少なくとも君を図書委員にするのは難しい」
「どうしてなんですか? だって、人手が足りているならともかく、今年は新入生が誰も入らなくて、あそこには千代倉さんしかいないのに……」
汐里が切実な声で訴え掛けると、
宮田はやはり落ち着いた声で思いがけない答えを口にした。
「図書委員会は今年度いっぱいで廃止される予定だからだよ。今年は誰も入らなかったというが、そもそも募集をしていなかったんだ。そして、新入生を入れないというのは彼女の意思でもある」
「廃止、ですか……?」
「ああ。そういうわけで、君を図書委員にすることはできない。ただ、君が彼女の手伝いをしたいと言うのなら僕は止めないよ。むしろ歓迎する」
「でも、千代倉さんは――」
「関係者以外には頼めないなんて言うのは方便だよ。そんな決まりはない。――とは言え、僕はこの学院の教師として彼女の意思を尊重するつもりだから、彼女が一人でやりたいというならそうさせてやりたいんだ。だから、僕から君の助力を受けるように彼女を説得することはできない。少なくとも、その必要性が生じるまでは、ね」
つまり、宮田は〝君達二人だけの問題だ〟と言いたいのだろう。
そしてその結果がどうであれ、自分は介入するつもりはないと。
要するに、「好きにやれ」ということだと汐里は理解した。
「――わかりました。そう言うことなら、もう少し自分で頑張ってみます」
「さっきも言ったけれど、僕個人としては君が彼女の助けになってくれるというなら大いに歓迎したい。――その、彼女の気を変えさせるのは難しいかもしれないが、応援しているよ」
「はい……! ありがとうございました」
失礼します、と頭を下げて職員室を後にする。
去り際に思いがけない後押しを受けて、汐里は自分の進むべき道を再確認できたような気がした。
そう、
行く先はずっと前から決まっていた。
考えるまでもなく、自然と足が向く。
汐里は早足で昇降口から校庭へ飛び出すと、居ても立っても居られず駆け出した。
重い荷物は教室に残して、
革靴よりも軽い上履きを履いたまま。
そのことに汐里が気づくのは、多分もう少し後のお話――。
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