第5話 憂鬱の理由

 休日を挟んで次の週の月曜日。

 つまり、汐里しおりが初めて図書室を訪れてから四日後のこと。


 小高い丘の麓から、ぐるりと回りこむように伸びたゆるやかな坂道。

 その石畳を叩く革靴のコツコツと小気味の良い音が、すでに日も高い空に幾重にも重なってこだまする。そして、列を成して進む無垢な少女達は、頂きに辿り着いた者から順に、そこにある『緑が丘女学院』の落ち着いて堂々たるおもむきの校門をくぐり抜けていく。それはいつものと何ら変わることのない、この学院の朝の光景。


 その生徒達の一群に混ざって、

 小柄な少女が一人、二つに結った栗色の髪を風にそよがせながら、1年9組の教室がある校舎の方を足早に目指していた。


 普段はそんなことはしないのに、おしゃべりをしながらゆっくりと歩く集団を見つけると、汐里はその傍をすり抜けるように追い越してぐいぐいと登っていく。

 すると、途中で学友に声を掛けられることが幾度かあって、その度に汐里は、逸る気持ちを抑えて立ち止まり「ごきげんよう」とにこやかに返事をすると、自分を落ち着かせるように少しだけ速度を落としてまた歩き始めるのだった。


 実のところ、そんなに急いだところで何が変わるわけでもないのだ。

 それは、他でもない汐里自身が一番よく知っている。

 けれど、どうしても心が浮足立つのを止められない。


 〝休み明けで憂鬱な月曜日、いつもより重い鞄〟。

 

 そんな些細なことは、今の汐里にとってまるで取るに足らないことなのだった。


 


 汐里が教室の自分の席に座って、パピルスで一限目の授業の予習を始めようとした頃、背中の右後ろの辺りから快活な少女の声が掛けられた。


「おはよう、篠宮しのみやさん」

明瀬あかせさん、おはよう」

 

 この学院における挨拶は基本的に、同級生同士はもちろんのこと、学年の隔たりなく全生徒の間で、さらには一部の女性教師に至るまで「ごきげんよう」で統一されている。これは特に決められているわけではないのだが、いつまでも変わらない校風として創立から二百年近く経った今も受け継がれている。

 とは言え、特に仲の良い間柄、例えばこの学院に入学する以前からの友人と言った場合にはその限りではなく、汐里と明瀬は中学時代からそうしていたように、今でも二人の間では「おはよう」と何の変哲もない挨拶を交わしているのだった。


 汐里は明瀬が席について一息ついたタイミングを見計らって声を掛ける。

「あのね、明瀬さん。この前話していた図書室のことなんだけれど――」

「ああ、そういえば、そんな話もしていたっけ」

 どうやら明瀬はすっかり忘れていたらしい。

 金曜日の朝に会った際に、彼女の方からその話題が出なかった時点で薄々感づいてはいたのだが、やはりそれは間違いではなかったようだ。

「――、実はあの後行ってみたの」

「図書室に? ……いつの話?」

「あの日の放課後」

 すると、明瀬は「ええ」と大袈裟に驚いた顔を作って見せ、

「何で今まで黙ってたの。金曜日にはそんなこと全然言ってなかったじゃない」

「だって、明瀬さんったらすっかり忘れているみたいだったし」

「それでお姫様は拗ねてしまわれたと」

 明瀬は悪戯な笑みを浮かべて、揶揄するように言う。

「別に拗ねてなんかいないけれど」 

「そう? それで、今になって話してくれるなんて、そのお姫様にはどんな心境の変化があったのかしら」

「今日、もう一度行ってみようと思うの」

「……それは、えーと、いったいどういう風の吹き回し? そんなに面白いものでもあったの」

 今度こそ本当に驚いているような明瀬の表情に、汐里は少しだけ〝してやったり〟と思いながら、ぶっきらぼうに言う。

「紙の本が沢山あった」

「それは知ってる」

「――あと、図書委員の二年生が一人」

「図書委員?」

「図書室を管理するための委員会らしいんだけど、今はもうその人しかいなくて、ずっと一人で作業をしてるんだって」

「へえ。そんなものあったんだ。全然知らなかった。……でもそっか、なるほどね」

「なるほどって?」

「つまり、篠宮さんはその図書委員とやらに入れてもらうつもりってことでしょ?」

 見透かすように言われて、汐里はになりながら答えた。

「ええと――、そこまではまだわからないけど。だって、あの人があの場所でどんなことをしているのかもよく知らないし。……でも、何か手伝えたらなって思う。今はただそれだけ」

「ふむふむ、これは思ったよりも重症みたいね」

「重症って、どういう意味?」

 一人で納得する明瀬に、汐里はじっとりとした視線を向け訝しそうな声を出した。

「ううん、別に大したことじゃないから気にしないで。――何にせよ、やりたいことが見つかって良かったじゃない。ね、篠宮さん」

 結局その場は煙に巻かれて、その後すぐに朝のホームルームが始まったので、明瀬とのやり取りはそのまま有耶無耶になってしまった。




 そして、その日の放課後。


 一日の授業をこれほどまでに長いと感じたのは久しぶりのことだった。

 放課後がやってくるとすぐ、汐里は旧校舎へと向かった。

 もちろん今日は、上履きも忘れず鞄に入れて――。


 旧校舎の近くまで来て、その昇降口に見間違いようもない少女の姿を見つけた汐里は、足早に駆け寄ってその名前を呼んだ。

稚佳子ちかこさん!」

「! ――汐里さん、ごきげんよう。来てくれたのね!」

 驚くように振り向いたその顔が、すぐにとても嬉しそうな笑みを浮かべ、汐里に負けず劣らずのはしゃいだ声を上げた。

「はい! お約束通り、この前借りた本を読み終わりましたので。……あ、えーと、その、ごきげんよう」

 また挨拶を忘れかけていた汐里は慌ててぺこりと頭を下げる。

「ふふ、早かったのね」

「読み始めたら止まらなくて」

「それは良かったわ。詳しく感想を聞きたいところだけれど、ここで立ち話というのも何だし、図書室の方へ行かない? 今日も寄ってくれるのよね」

「ええ。もちろん、そのつもりで来ました」

 汐里は鞄から上履きを取り出して、得意気に笑って見せた。


 図書室についた二人がひとまず閲覧用の長机に腰掛けて一息つくと、その後で稚佳子が汐里の方を向いて言った。

「初めて紙の本を読んでみた感想はどうだった?」

「その、色々と勝手が違って、最初は違和感もあったんですけれど。でも慣れてくると、指でページを捲る感覚が癖になっちゃって。それが体感できないと思うと、もうパピルスで読むのは物足りないかも、なんて」

「ふふ、紙の本も良いものでしょ?」

「――はい、もっと色々な本を読んでみたくなりました」


「ひとつ気になっていたことを聞いてもいいかしら」

 ふと、その声の調子が変わったような気がして、汐里は思わず身構えて答えた。

「ええと、わたしに答えられることなら」

「どうして、その本を選んだの? ほら、何となく気になったと言っていたじゃない。何か理由があったのかしらと思って」

「――実は、何年か前にも一度この本を読んだことがあるんです。その時は紙じゃなくて、パピルスで読んだんですけれど、データを端末に保存していなかったのとタイトルを忘れてしまったせいで、もう一度読みたくても読めなかったんです」

 汐里がそう説明すると、稚佳子は小さく頷きを挟んだ。

「そう。それで偶然見つけて読んでみたくなったということね」

「はい。それともうひとつ……」

「もうひとつ?」

「この本に挟まっていた〝しおり〟が気になってしまって。何というか、親近感が沸いたと言いますか……。それで調べてみたんですけれど、これって〝押し花〟って言うんですってね」

 汐里は手に持った本から、あの〝小さな黄色い花〟を取り出して見せた。

「植物を平たく乾燥させて作るものよね?」

「そう、それです。でも、いったい誰がこれを挟んだんでしょうね」 

「さあ、どうかしら。少なくとも、図書室の備品ではないようね。きっと借りた生徒が挟んだのを忘れたまま返してしまったのでしょうけど、もうその生徒も卒業してしまっているでしょうね」

「もしかすると、ずっと昔のことかもしれません。この花、今ではあまり見かけませんけれど、昔はその辺の道端にも咲いていたらしくて、全然珍しいものではなかったみたいです」

 

 汐里が小さな花に目を向けながら、どこか遠くへ思いを馳せるように言うと、

「そう。……ねえ、汐里さん。きっとここには他にも汐里さんの気に入る本があると思うわ。それを探してみるというのはどうかしら」

 稚佳子はそれにはあまり興味を示さず、話題を変えるように言った。

 その様子に小さな違和感を覚えながら、汐里は押し花を本に戻すと頷きを返した。

「――、ええ。わたしも今日は別の本を借りて帰ろうかなと思っていたんです」

「それなら早速見てみましょうよ。ほら、こっち。書架を案内してあげるわ」

稚佳子は重さを感じさせないふわりとした身のこなしで席を立つと、汐里の手を引いてそっと立ち上がらせた。

 その暖かな手の感触は、些細な疑問などどうでも良くなるほどに心地良かった。



 

 それから汐里は、稚佳子に図書室を案内してもらいながら、目に留まった本を手に取ってみてお気に入りの本を探すという行為に没頭した。

 稚佳子の話によれば、この図書室には約五万冊に及ぶ膨大な蔵書があるという。とてもで確認しきれる量ではないが、ありがたいことに此処にある本棚は、そこに収められている本のジャンルやタイトル、またはその作者によって細かく分けられていて、目的の本が探しやすいようになっていた。

 

 図書室の中を詳しく見て回り改めて感じたことであるが、これだけ大量の本をそのようにきちんと分類して管理するとなると、それは容易なこととは思われず、実際に図書室の利用者が多かった頃の図書委員会は、他の委員会に比べてかなりの大所帯だったらしいということを稚佳子は教えてくれた。


 またそれ以外にも、

 稚佳子の好きな本の話や嫌いな食べ物の話など、色々なことを教えてもらった。

 高校生になってこの方、上級生というものに縁のなかった汐里にとって稚佳子との会話は刺激的で、友人達とのそれとは違って、ドキドキと何とも言えない高揚感をもたらした。

 

 そして、楽しい時間は過ぎるのが早いとはよく言ったもので、

 目ぼしい場所を一通り見て回ると、あっという間に一時間以上が経過していた。

 

 柱時計が5時の鐘を打つと同時に、

「あら、もうこんな時間。――ごめんなさい、汐里さん。今日はここまででいいかしら。わたしはこの後やらなければいけないことがあるの」

 稚佳子はとても申し訳なさそうな顔を汐里に向けた。

「それって、図書委員のお仕事ですか?」

「ええ、そう。いくら利用者がいないと言っても細々とした作業はあるのよ」


「良かったらわたしにも手伝わせてもらえませんか」


 汐里がそう言うと、稚佳子は困ったような笑みを浮かべて首を振った。

「お気持ちは嬉しいのだけど、関係者以外の人にやってもらうわけにもいかないの」

「そう、ですよね……」

 

 少しだけ気落ちするように肩を落としてから、

 汐里は気合を入れ直し、意を決して稚佳子の顔を正面から見て口を開いた。


「――あの、それなら、わたしも図書委員に入れてもらえませんか? わたし、入学以来ずっと、部活にも委員会にも所属していなくて。どの活動も何となく自分の居場所じゃないような気がして、それで……。でも、稚佳子さんとなら一緒に活動したいって思えたんです。何でも良いから、稚佳子さんの役に立ちたいって。こんなの初めてで、だから――」


 予想外の返事が、鋭く尖った氷柱つららのように汐里の心に突き立てられた。

「えっ……?」

「残念だけど、あなたを図書委員にすることはできないわ」


 どうして、という言葉は、音になる前に喉の奥で溶けるように消えてなくなった。


 ――ごめんなさい、と少しだけ顔を俯けるようにして言う彼女の表情は、

 堪えようもない自責の念で溢れていて。

 理由もわからずに断られたことよりも、

 彼女にそんな顔をさせてしまったことの方が何倍も悲しかったから。

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