第4話 心地よい重さ

 4時を少しだけ回って、差し込む光が黄色みを増す『緑が丘女学院』の図書室。

 その陽の光を反射して小さな埃がきらきらと輝く空間に、一枚の絵画のような少女が佇んでいる。


 溜息が出そうなその光景を前にして、

「図書委員、ですか……?」

 汐里しおりが訝しむような声を上げると、稚佳子ちかこと名乗った見目麗しい少女は軽く頷いて補足を入れた。

「ええ。この図書室を管理するために作られた図書委員会に所属しているの」

 〝図書委員会〟。

 そんなものが存在していたということを、汐里は初めて知った。


 それというのも、

 二千人近い生徒総数を誇るこの学院には、それに比例して様々な部活動や委員会活動が存在している。そのため、そのすべてを把握するのは容易なことではなく、下手をすると教師ですら知らないようなマイナーな部活さえある。入学以来、特に最初の一二カ月の間、自分に合った活動を探すために精力的に情報を仕入れていた汐里であってもそれは例外ではなかった。


 その反面で、委員会は部活に比べるとかなり数が少ない。それにも関わらず、今の今までその名前すら聞いたことがなかったというのも少し不思議な話ではある。

 とは言え、そもそもこの図書室の存在を知らなかったぐらいなのだから、それを管理する委員会の存在に気づけなかったとしても無理はないのかもしれない、と汐里は考えて自分を納得させた。

 

 何より、今はそれ以上に気になるものがある。

 〝最後の図書委員〟――そう自己紹介をした時の彼女の顔。あの閑とした湖畔の、その澄み切った水面のように切なくも美しい表情はいつの間にか影を潜め、今はもう晴れやかな微笑みを汐里に向けている。

 

 最後の、とは一体どういう意味なのだろう。


「あの、千代倉ちよくらさん――」

「稚佳子でいいわよ、汐里さん。ほら、千代倉ってちょっと呼びにくいでしょう?」

 そういえば、あまりに自然だったので気にも留めずにいたのだが、彼女もこちらを「汐里さん」と名前で呼んでいることに気づく。そして今更のように恥ずかしくなり、汐里は頬が熱く火照るのを感じた。

「……じゃあ、その、稚佳子さん」

 汐里がますます顔を赤く染めながら言うと、

 稚佳子は満足そうに笑みを浮かべてから「なあに?」という感じで少し首を傾げて見せた。大人びた見た目とはギャップのあるその仕草は、不思議と彼女によく似合っていてとても愛らしい。

「聞きたいことがあるなら何でも聞いてね」

「さっき稚佳子さんは〝最後の〟って仰いましたけど、あれはどういう意味だったのかなって」

「ああ、そのこと」と頷いて、彼女は少し言葉を探すようにしてから口を開いた。

「――実はね、この委員会には委員がいないの。このままいくと、わたしの卒業と同時にここには誰もいなくなっちゃうから、そういう意味で〝最後の図書委員〟というわけ」

「ということは、ここの管理をずっとお一人で?」

「ええ、去年の三年生方が卒業されてからはね。もちろん、その必要がある時には顧問の先生にお手伝い頂くこともあるけれど、大体はわたし一人でやっているわ。――というのも、幸か不幸か最近は利用者が滅多にいないから、それでも何とかなってしまうのよ」

「……なるほど、そういうことだったんですね」

「だから久しぶりに汐里さんみたいな可愛い子が来てくれて嬉しいわ」

 そう言うと稚佳子は両手を合わせるようにして、とても嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべて見せた。

 

 稚佳子のように綺麗な上級生に褒められて悪い気がする生徒は、少なくともこの学院にはいないだろうと汐里は思う。それが例えお世辞であっても、面と向かって言われれば頬の一つも赤らめようというものだ。

 けれど――、

 汐里は内心複雑な思いを抱いていた。

 何故って、稚佳子の言う〝利用者〟に果たして自分が当てはまるのか自信がなかったからだ。何しろこの図書室の存在すらも今日知ったばかりで、紙の本など読んだことがなく、そもそもそれほど読書家というわけでもない。

 登下校時の暇潰しに、時たまパピルスで目についた本をダウンロードして読むことはあるが、月に一冊読むかどうかという頻度では読書が好きと言えるかどうかも怪しいとさえ思う。

 つまるところ、汐里は嬉しそうにしている稚佳子を落胆させたくなかったのだ。

 かといって、話を合わせて騙すようなこともしたくない。本当のことを話すのならば、きっと早い方が良い。


「――あの、実はわたし、この図書室のことを今日まで全然知らなくて、だからここに来るのもこれが初めてなんです」

、そうだったのね」

 稚佳子の返事は何故かとても嬉しそうだった。

 そういえば最初に声を掛けられた時、「ここに来るのは初めてかしら?」と聞かれたような気がするのを今になって思い出す。

「実は汐里さんのこと、一目見た時に気に入ってしまったの。この学院にこんな子いたんだって。仮に一度でもここで見掛けていたら、絶対に忘れないと思ったのよ。だって、ただでさえここに来てくれる人は少ないのだもの」

 流石に今度は不意討ちだった。

汐里は顔を真っ赤にして俯くと、微かに震える声で言った。

「……でも、わたしは稚佳子さんが思っているような人間じゃないんです。紙の本なんてさっきまで触れたこともなかったし、ここにも興味本位で訪れただけなんです。だから――」


「それのどこがいけないの?」


 稚佳子の心底不思議そうな声が聞こえて、汐里は思わず呆気にとられた。 

「むしろ大歓迎よ。だって、少しでも興味を持ってくれたのなら、また来てくれるかもしれないでしょ。――ね?」

おずおずと顔を上げた汐里の目に、

「……それとも、今日限りでお終いなのかしら?」

 稚佳子の悪戯な笑みが映る。汐里はぼうっとした頭の片隅で、稚佳子さんってこんな表情もできるんだな、と思う。

 

 この人の、もっといろいろな表情を見てみたい――。

 

汐里は頬の熱も冷めやらぬまま、ずっと左手に持っていた〝黄色い花の栞が挟まれた本〟を示して、思い切って聞いた。

「――あの、この本って借りられるんですか?」

「ええ、もちろん」

「それなら、これを読み終わったらまたここに来ます」

「本当? ――嬉しいわ!」

 すると稚佳子は、落胆するどころかますます嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。

「その、何か手続きとかは」

「大丈夫、こちらでやっておくから。――あ、でも、一応返却期限というものがあるから一週間以内に返しに来てくれると助かるわ」

「わかりました。それじゃあ――」

もう少しこの場所に居たいような、そんな後ろ髪を引かれる思いを感じながら汐里が退出する意思を示すと、

 稚佳子は特に引き留めるでもなく「ええ」と頷いてから柔らかい声で言う。

「昇降口まで送るわ。ほら、そのスリッパを戻さないといけないしね」


 図書室から昇降口までの道のりは、二人の間に特にこれと言った会話はなかった。

そもそも、何かを話すほどの距離ではないし、恥ずかしさに自分から話し掛けられなかったというのもある。

 けれど、静かに光が差し込む廊下を二人で並んで歩くのは悪くないものだった。


 昇降口について、スリッパを返し革靴を履き終えた汐里は、振り向いてそこにいる上級生に深々とお辞儀をした。

「色々とありがとう御座いました。突然お邪魔したのに良くしてもらって――」

「ふふ、汐里さんならいつでも大歓迎よ」

「……あの、またお伺いしますね」

「ええ、待っているわ。ごきげんよう、汐里さん」

 今は、沈み始める前のお日様みたいな笑みを浮かべる少女に、汐里は今度こそ、ちゃんとその言葉を返すことができた。


「――ごきげんよう、稚佳子さん」


 そして、

 文庫本一つ重くなった鞄を提げて、汐里は家路についた。

 お弁当の差し引きの分だけ、登校時よりはまだ少し軽い。

 

 それは、思わずふわりと浮かび上がりそうな汐里にとって、丁度いい重さだった。

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