第3話 最後の図書委員

 『緑が丘女学院』の旧校舎にある図書室の一角。

 整然と並んだ本棚に囲まれて、二人の少女が見つめ合うように向き合っている。


 ごきげんよう、と挨拶を返すのも忘れ、汐里しおりは彼女を呆けたように見つめ返した。

 一方の彼女はと言えば、汐里の不躾な態度を気にした風もない。口元に微笑みを湛えたまま、やはり汐里の方を観察するように見ている。

 

 からすの濡れ羽色と言うのだろうか。腰の上あたりまで伸ばした長髪は、緑がかった艶やかな黒。

 そしてその黒髪に縁どられるように、見るからに肌理きめの細かな白い肌が極上のコントラストで互いを引き立て合っている。更には、切れ長の二重瞼と長く瑞々しい睫毛、黒真珠のような深い輝きの大きな瞳がふたつ。

 スッと伸びた鼻筋の下には、微かに笑みを形作る小ぶりな薄桃色の唇が。

 大人の女性のようでいて年相応のあどけなさを残す輪郭は、美人というよりも美少女という形容が相応しく思わせる。

 ともすればそれぞれの主張が激しく、ぶつかり兼ねないようなそれらが奇跡的なバランスで渾然となって、彼女のかんばせをキャンバスにした揺るぎない芸術品のように仕立て上げていた。

 

 身長は汐里と同じか少し高いぐらいだが、全体的に線が細い感じがする。

 彼女の頭のてっぺんからつま先のにまで、熱に浮かされたような視線をやってから、汐里は我に帰ってはたと気づいた。彼女の方から挨拶をしてくれたのにも関わらず、未だに何の返事もしていないということに。

 挙句の果てに、同世代とは言え初対面の女の子をじろじろと眺め回すなんて、恥知らずにも程がある。おまけに相手は恐らく上級生だ。

 何故って、こんなに綺麗な人は同学年で見た覚えがない。仮に一度でも目にする機会があったなら絶対に覚えているはずだと思う。例え、一学年 24 クラス、合計 600人以上の一年生がいるこの学院においても埋もれるはずがないと断言できる。というか、する。

 

 ……いやいや、今はそんなことよりも――。

 

 とにかく何かを言わなくちゃと思いながらも、彼女の方もあれから一言も発しないのはもしかしたら怒っているせいかもしれないと気づいて、確かめるように恐々とその表情を盗み見た。

 すると、彼女は怒りとも先ほどまでの笑みとも違う、不思議そうな表情を浮かべて汐里の裸足(靴下は履いている)の足元を見つめていた。

 不意に視線を上げた彼女と目が合う。

 結果的に見つめ合うような形になって、汐里はたまらず顔を赤くした。

 同性相手に何故、という疑問すら浮かばない。

 彼女の唇が言葉を形作る前に、汐里は慌てて取り繕うように口を開いた。

「ええと、これはその――」


 すると、

 汐里が言葉を言い切る前に、静かな図書室に突如として〝ボーン〟という得体の知れない間延びした音が鳴り響いた。

 同じ音が立て続けに四度。

「わっ――」

 突然のことに驚き、小さな悲鳴を漏らす汐里に、

「ふふ。大丈夫、柱時計の鐘の音よ」

 と、黒髪の少女は再び柔らかい笑みを浮かべて見せた。

「はしらどけい?」

「そう。ほらあそこの壁に掛かっているでしょ」

 彼女はそう言うと、吹き抜けから見える二階の壁の一部を指差した。

 汐里が促されるままそちらに目をやると、まだ動いているのが不思議なほどにアンティーク然とした、長方形のとても立派な時計が掛けられているのが見えた。

 

 いつからか聞こえていたカチカチという規則正しい小さな音は、あの柱時計の振り子が発していたらしい。近頃の若者の例に洩れず、汐里は機械式の時計というものに接したことがなかったので、実際にその出所を目にするまでそれが一体何なのかわからなかったのだ。


「決められた時間になると、鐘を鳴らして知らせてくれるの。今のは4時の鐘」

「――4時だから四回?」

「ええ、そういうこと」

「なるほど――。って、そうだ。あのごめんなさい。さっきはわたし、ぼーっとしちゃってて」

「ううん。気にしないで。わたしの方こそ、急に声を掛けたりしてごめんなさい。びっくりしたでしょう?」

「……その、少しだけ」

 

 汐里は正直に頷きを返した。

 より正確に言えば、不意に声を掛けられたことよりも彼女の見目麗しいその容貌に驚かされたのだが。そこまで詳らかにするのは気恥ずかしくて、汐里は黙っていることにした。

「最近は滅多に人が来ないものだから、珍しさについ声が出てしまったの。……ええと、それでその足なんだけれど」

「あっ。ごめんなさい。実は上履きを置いてきてしまって――」

 みっともない恰好でうろついていたことを注意されると思い、汐里は反射的に謝罪の言葉を口にした。

「そういうことだったの。ううん、別に謝らなくても良いのだけど、ただ少し危ないと思って」

「……危ない、ですか?」

「ほら、ここの床って木で出来てるでしょ。一応手入れはしているんだけど、何分年季が入っているから所々ささくれになっている場所があるの。そんなところをうっかり踏んづけたりするとトゲが刺さっちゃうかもしれないから」

「トゲ、ですか――。それは何だか痛そうですね」

「うん、いたい。すごくいたい。しかも小さなトゲって取りにくいから厄介なの」

 彼女の台詞には何故かとても実感が込められていて、この上ない説得力があった。

 もしかすると、過去に似たような経験があったのかもしれない、と汐里は思う。

「……あ、そうそう。良いものがあったわ。取ってくるからちょっと待っててもらえるかしら。――できたら、あまり歩き回らないでね」

 そう言うが早いか、彼女はくるりと踵を返して足早に遠ざかると、入り口の扉を開けて外へ出て行ってしまった。


 ぽつりと一人取り残された汐里は、律儀に言いつけを守ってしばらくその場で手持ち無沙汰にしていたものの、ふと気になった本があったことを思い出して再び本棚に手を伸ばした。

 その本のタイトルは、汐里が何年も前にパピルスで読んだことのあるものによく似ている。

 うろ覚えだけれど確かこんな感じだったと思う。

 左手に持ち替えた鞄を床に置き、

 棚から慎重に本を抜き出すと、独特の匂いの中に少しだけ埃っぽい匂いが混じる。

 手のひらに感じるズシリとした重み。

 汐里が手に取った文庫サイズの本は、ここにあるものの中では比較的薄く小さな部類に入る。しかしそんなものでも、ほとんど重さを感じないパピルスに比べれば雲泥の差があった。


 これが紙の〝重さ〟――。

 

 当時使われていた教科書が果たしてどれほどの厚みと重さを持っていたのかはわらない。けれど、仮にこれと同じぐらいの大きさだったとしても、一度に何十冊も持ち運ぶとなると確かにとても大変そうだ、と汐里は思う。


「でも、やっぱり二十キロっていうのはいくらなんでも言い過ぎだよね」

 友人との会話を思い出して、ふふ、と口元に笑みを浮かべながら、本の表紙に目を向けた。

 そこに印刷されている絵に汐里は見覚えがあった。

 やっぱりこれだ――、と思う。

 初めて触れたはずのものを、もう何年も前から知っていたという、不思議な感覚。

 急に懐かしさがこみ上げてきて、汐里はたどたどしい手つきでページを手繰った。

 

 耳に届くのは、柱時計の振り子と、紙同士が擦れ合うカサリというささやかな音。

 

 見よう見まね、というよりも、朧げに耳にしたことがあるだけのその行為。

 汐里は薄い紙を一枚ずつ捲るのに苦労しながら、記憶に照らし合わせるようにして目についた文章をついばんでいく。

 不意に本を抑えていた方の指が滑り、パラパラと何十ページかが一息に捲れて、その途中のから何かがはらりと落ちた。

 あっ、と声に出してからしゃがんで、足元に落ちたものを摘まみ上げる。それは一輪の小さな黄色い花だった。本に挟まれていたせいか、可愛らしい花びらはぺちゃんこに潰れ平べったくなってしまっている。

 「どうして本の中にこんなものが……?」

 そして、汐里が左手に本を持ったまま、右手に摘まんだ花をまじまじと見つめているところにあの黒髪の少女が戻って来た。

 

 足音に気づいて汐里が顔を上げると、

「ごめんなさい。お待たせしちゃったかしら」

 軽く息を弾まながら言う彼女の手には、一組の白いスリッパが握られていた。

 あれからどれぐらい経ったのか、正直よくわからない。恐らく時間にして十分程だろうか。実際、気にも留めていないくらいだったので、汐里は首を振って答えた。

「いえ、全然」

「そう。それならよかった。実は、これを取りに行っていたのだけど、置いてあるはずの場所になくてちょっと探してしまったの」

そう言うと、彼女は汐里が手に持っているものに目を止めて、「思いがけないものを見た」という顔をした。

「あら、それは……」

「もしかして勝手に触ったりしちゃ不味かったですか?」

「ううん、そう言うわけじゃないの。――でも、その本がどうかした?」

 彼女の声の調子が少し変わったのに汐里は気づいたが、それが何を意味するのかまではわからない。

「その、ちょっと気になって見ていたら、中にこんなものが挟まっていて」

 汐里が右手に摘まんだものを見せながら言うと、彼女にはすぐに思い当たる節があったようであっさりとその答えを口にした。


「……ええと、それはたぶんしおりね」


 一瞬、自分の名前を呼ばれたのかと思った。

 それからすぐに、彼女がわたしの名前を知るはずがない、と思い直す。

「しおり……、これ〝しおり〟って言うんですか?」

「ええ。読み進めた場所に挟んで、次に読むときの目印にするの。別に形は何でも良いのよ。薄くて平べったくて本に挟めるものだったらね。――そうそう、差し支えなければこれを履いてもらえるかしら。サイズは少し大きいかもしれないけれど……」

 そう言って、彼女は手に持っていたスリッパを汐里に差し出した。

「――あ、はい」と受け取ったそれを履いてから、汐里は恐縮した声で言う。

「……何だかご迷惑をお掛けしてしまってごめんなさい」

「いいのよ。他には何のおもてなしもできないし。これくらいはね」

 おもてなし、という言葉に今更のように違和感を覚える。汐里はずっと、彼女のことを自分と同じただの利用者の一人と思っていたのだが、実はそうではないのかもしれない。 


「あの、自己紹介がまだだったと思うんですけど、――実は、わたしも〝しおり〟って言うんです」

「まあ、本当に? それは奇遇ね――! 学年は一年生で良かったかしら?」

「あ――、はい。1年9組の、篠宮汐里です」 

「しおりさんのお名前はどんな字を書くの?」

「ええと、さんずいに夕方の夕と書く『しお』に、『さと』と書いて汐里です」

「そう――。素敵なお名前ね」

「あ、ありがとうございます。……その、よろしくお願いしますっ」

「ええ。こちらこそよろしくね、汐里さん」 


 偶然出遇っただけの間柄で一体何をよろしくしたいのか。

 自分で言っておきながら良くわからないが、彼女はそんなことは意にも介さずとびきりの笑顔で答えてくれた。

 

 ――あやうく、それだけで満足するところだった。

 

 汐里は舞い上がりそうになりながらも、かろうじて、まだ肝心なことが聞けていないのを思い出した。そして、こちらから尋ねても良いものか迷って曖昧な表情を向けると、彼女は不思議そうに首を傾げてから何かに気づいたように「あっ」 という顔をした。


「ごめんなさい、自分のことをすっかり忘れていたわ」と恥ずかしそうに照れ笑いすると、彼女は一転してその笑みを消し、どこか憂いのある美しい声と表情で言った。


「――わたしは2年14組の千代倉稚佳子ちよくらちかこ。この学院の〝最後の図書委員〟よ」

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