第2話 ごきげんよう

 学院の外れにある小さな森の縁。

 午後の黄色っぽい陽の光の中に、梢に紛れるようにして木造四階建ての少し古ぼけた校舎がひっそりと佇んでいる。放課後になり、むしろそれまでよりも活気に溢れた賑わいを見せる『緑が丘女学院』の敷地内にあって、まるでこの場所だけが何十年も昔に時計の歯車を外されてしまったかのようだ。

 体育館や校庭の方角から聞こえる弾むような声と、時折、思い出しては風に揺れる木漏れ日が、かろうじてこの場所にもまだ時の流れがあることを教えてくれている。

 

 その昇降口に並んだ下駄箱を前にして、

 遠くの喧騒を聞くともなしに聞きながら、栗色の柔らかそうな髪を二つに結った少女がひとり、ぽつねんと立ち尽くしていた。


「しまった、上履きを持ってくるんだった……」

 汐里しおりの口から、思わず己の迂闊さを呪う言葉が漏れる。

 その必要性について、今の今まで汐里はすっかり忘れていたのだった。

 何しろ旧と言うくらいなのだから、いくらこの場所を訪れるのが初めてだとは言え、土足厳禁なことくらいは考えるまでもないことである。

 あるいは、そんな簡単なことを見落としてしまうくらいに気持ちが急いていたのかもしれない、と汐里は思う。

 正直に認めよう。

 明瀬あかせにはあまり乗り気でない態度を取って見せたものの、実のところ、汐里は日常の中に潜む非日常の気配に少しだけわくわくしていた。

 もしかすると、〝少しだけ〟というのも自分に対する嘘かもしれない。

 

 ――とはいえ、まずは現状をどうにかしなければ件の〝トショシツ〟とやらに辿り着くこともままならない。

 今更もう一方の校舎まで上履きを取りに戻るのも馬鹿馬鹿しい。

 さりとて、ここまで来て何もせずに帰るという選択はなかった。

 となれば、方法は一つしかない。

 汐里はおもむろに革靴を脱ぎ、端の方の使われていなさそうな下駄箱の中へ仕舞うと、少々のはしたなさと足元が汚れるであろうことには目を瞑って、学院指定の白い靴下のまま旧校舎の奥へと足を踏み入れた。

 

 薄い生地越しに、足の裏が木の床を撫でる感触が不思議と心地よい。

 汐里の予想に反して、板張りの廊下は掃除が行き届いて綺麗だった。

 文化部の部室棟として、今も現役で使われているという話だから当然と言えば当然かもしれないが、それにしては、どこもかしこもと静まり返って人気がない。外の声が届かない分だけ、むしろより隔絶された場所にいるような気さえする。


 目指すべきその場所は、この旧校舎のどこかにあるという以外に手がかりはない。けれども外から見た限りでは、こちらの校舎は汐里が普段通っている方の校舎に比べればずっと小さいので、中を虱潰しに探したとしてもあまり時間は掛からないと思われた。そういうわけで、汐里はひとまず一階を隈なく探してみることに決めた。

 そして、

 どこか知らない世界に迷い込んでしまったような気分を味わいながら、ぺたぺたと真っ直ぐに廊下を歩いていくと、それはあっけないほど簡単に汐里の目の前に姿を見せた。


 二階へと続く幅の広い階段を通り過ぎた先、

 頑丈な造りの茶色い扉の上に、ブロンズのプレートを嵌め込んだ表札が掲げられ、

 見間違いようもない大きな文字で『図書室』と彫り込まれている。

 

 ――蓋を開けてしまえば、何のことはない。掲示板に場所についての詳しい記述がなかったのは、必要がないからというただそれだけの理由だったのだ。


 扉の前に立った汐里は、ピカピカに磨かれた真鍮の大きな取っ手を右手で掴み、

 いよいよ扉を開けようとして、はたと気づく。

 ――果たしてノックをした方が良いのだろうか?

 耳を澄ましてみても、扉の向こうからは何の物音も聞こえない。そのため室内に人がいるのかどうかもわからない。やはり、今時紙の本を利用しようなどという人はいないのかもしれない。もしくは、明瀬の言うところの〝もの好きな誰か〟がしわぶき一つないほどに集中して読書しているという可能性もある。だとすれば、邪魔をするような物音は立てない方が良い気がする。

 結局汐里は少し迷ってから、控え目に手の甲でドアの表面を三度叩いた。

 そのままの姿勢で暫し待ってみるも、これといった反応は返ってこない。


 今度こそ、と取っ手を握り直し躊躇いがちに体重を掛けると、微かに金属の擦れ合う音がして重い扉が内側へ開いた。

 

「何だろうこの匂い――」

 その瞬間、何とも言いようのない表現の難しい匂いがした。それはいわゆる紙の匂い、とりわけ古書と呼ばれるような相応の年季の入った本が持つ独特のそれであったが、汐里には何の匂いなのか検討もつかなかった。 

 得体の知れない匂いに少しだけくらくらとしながら数歩足を踏み入れて、汐里は室内を軽く見渡してみた。

 

 ――見える範囲には誰の姿もない。

 そこは天井の一部が吹き抜けの広い空間になっていて、手前の方には、人が二三人ほど入れそうなすっきりとしたカウンターが設けられている。そしてその近くには、恐らく利用者が本を読んだり勉強をしたりするのに使うのだろう長机が数脚置かれていた。それらはみな年代を感じさせる風格を漂わせてはいるものの、よく手入れされていて、ずっと大切に使われて来たのだろうということが一目でわかる。


 そしてその奥に、汐里の目を強く惹き付けるものがあった。 

 誘われるようにそちらへと歩いていく。

 そして、汐里はついに辺りに漂う匂いの起源へ辿り着いた。

  

 本棚だ。

 窓から斜めに差し込んだ光で四角く切り取られた空間に、重厚な木製の棚が等間隔に並べられている。そしてその全てに、数え切れないほどの本がきっちりと綺麗に並べて収められ、視界一杯に部屋の奥の方まで続いている。よく見れば、吹き抜けから覗く二階部分にも同様の棚があるらしく、この場所に一体どれほどの本があるのかまったく見当もつかない。

「すごい……」

 思わず足を止めて汐里はぽつりと呟いた。

 それは仮に紙の本がまだ身近に存在していた頃の、図書室というものに慣れ親しんだ少女が目にしたとしても、恐らく感銘を受けたであろう光景だった。

 汐里の胸に去来した想いは筆舌に尽くしがたく、あまりの衝撃に圧倒されたことは言うまでもない。

 

 ――どこからか、カチカチという出所不明の規則正しい音が聞こえる。

 

 汐里はハッとして我に帰ると、一番近い場所にある本棚に近寄り、そこに並べられている本のタイトルを端から順に目で追った。

 一見しただけでも、その書体や装丁のデザインは想像以上にバリエーションに富んでいる。驚くべきは、本によってその厚さがまるで違うということだった。まるで今日の朝ご飯に食べた薄切りの食パンみたいなやつがあるかと思えば、一斤まるごとのように分厚いのもある。生まれてこの方、汐里にとって本というのはに収まるテキストデータの集合体でしかなかった。紙の本には厚みがあるということを、この時初めて確かな実感として知った。


 端から端まで目を通して、次の本棚へ。

 それを繰り返しながら奥の方へ歩いていくと、ふと無数にある本の一冊が何気なく汐里の目に留まった。触っても良いものだろうかと少し迷ってから、恐る恐る手を伸ばす。汐里の細い指先がその表面に触れるか触れないかのところで、

「あら――」と、

 後ろで、女の子の小さな声がした。

 汐里の知らない声だった。


 汐里が思わず身を固くして振り向くと、

 本棚の隙間から顔を覗かせるようにして、艶やかに流れ落ちるような黒髪の美少女が少し驚いた表情をこちらに向けていた。

 黒目がちな瞳と目があって、その整ったかんばせがにこりと笑みを浮かべる。


「ごきげんよう。――あなたはここに来るのは初めてかしら?」


 夕方というには早すぎる、まだ日の高い中途半端な時間帯。

 日常の中にあって、その実そこから遠く離れたこの場所で、


 二人きり――。

 

 それが汐里と〝彼女〟の出遇いだった。

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