放課後の栞
佐久間コウ
第1話 羽のように軽く
キンコン、カンコン――。
九月の初週。木曜日の午後3時過ぎ。
『夏休み』という非日常が幕を閉じ、新たな日常が始まって早数日。
普段はそんなものに思いを馳せる暇などないほどに目まぐるしい日々を生きる若者さえも、この時ばかりは過ぎ去りし季節を恋しく思うのは、西暦が 2056 回目の夏を見送って、 その在り方が大きく変化した今もそれだけは変わらない。
例に洩れずそんな無垢な少女達が集う、ここ『緑が丘女学院』の芝の敷かれた校庭に、この日の授業の終わりを告げる澄んだ鐘の音が鳴り響いた。
その名の通り、小高い丘の上に立つ深緑とアイボリーの外壁が特徴の瀟洒な校舎。その二階の中ほどにある1年9組の教室の、窓から二列目、後ろから四番目の席。
六限目の『高等遺伝子工学』の授業を終え、放課後の訪れを今や遅しと待ち侘びそわそわとする教室へどこか達観した眼差しの一瞥をくれてから、
少女の体温と微弱な静電気によって駆動していた端末がそのエネルギー源の供給を同時に断たれ、表面に映し出された『よくわかる 高等遺伝子工学』のテキストが端の方から滲むように掠れて消えた。
最終的に完全に透明になった薄いシート状のそれをくるくると丸めて鞄の中に仕舞い終えたところで、汐里は不意に後ろの席から声を掛けられた。
背中をちょんちょんとつつかれ、ついで聞き慣れた友人の声で、
「
そう言われて汐里は、先の授業でパピルスに書き込んだ回答とその自動採点機能によってはじき出されたスコアを頭に浮かべた。それは正しく、可もなく不可もなくというものだった。
一方で、その口ぶりからすると彼女の方はあまり良い結果ではなかったのだろう。
汐里はぐるりと身体を後ろへ回し、少しだけ不機嫌な顔を浮かべる友人に首を振って見せた。あえて具体的な点数は言わずに、
「ううん、違うの、
「……ふむ。ということは他に何か悩みでもあるの?」
「悩みというほどではないけれど……、その、みんな楽しそうだなって。わたしもやっぱり、部活か委員会、せめてどちらか片方だけでも入れば良かったかな」
生徒達の自主性を育むことを理念に掲げるこの『緑が丘女学院』は、その一環として部活動や委員会活動を奨励しており、そのための設備や環境を整えることに力を入れている。そして、それを理由にここへの入学を決める者も多いから、強制ではないながらも何らかの活動に身を置く生徒がほとんどで、いくつもの部活や委員会を掛け持ちしているというケースも少なくない。けれども、中には自分に合った活動を見つけられなかったり、一度は部に所属したものの止むに止まれぬ事情で退部してしまったりして結果的に未所属の生徒も存在している。
何を隠そう、汐里もそうした少数派の一人だった。
明瀬と呼ばれた少女は「ああ、そういうこと」と納得顔を浮かべてから、
「でも、今からだって遅くはないんじゃない。うちみたいに定員オーバーしちゃってるようなところは難しいけど、それ以外ならすんなり入れてもらえると思うけどな」
と、まるで何でもないことのように言った。
「それはそうかもしれないけど、何となく、今更仲間に入れてもらうのも気が引けるというか、なかなか踏ん切りがつかなくて」
「うーん、まあ気持ちは分からないでもないけど。――あ、まって。それならわたしに良い考えがあるよ」
「良い考え?」
汐里がオウム返しに聞くと、明瀬の口からは思いもよらない質問が返って来た。
「篠宮さんはリンケージの学内掲示板は見てる?」
「掲示板の方はあんまり見てないかな。たまに、学校から重要なお知らせがあるときぐらい。――どうして?」
「ほら、二学期は色々な学校行事があるでしょ。この時期になるとね、準備で手一杯になった委員会とかがそこでお手伝いを募集したりするんだって。そういうのなら、篠宮さんも参加しやすいんじゃないかと思ってさ。それで試しに活動してみて、もっと続けたいなって思ったら正式に入れてもらえばいいんだよ」
「なるほど――。確かにそれは良い考えかも」
「でしょ?」
「うん、後でパピルスでチェックしてみるよ」
汐里は明瀬の机の上に置かれたままの、自分のものと寸分違わぬ彼女の端末をちらりと見た。
その視線を追って、明瀬が思い出したように言う。
「そういえば、前に掲示板で話題になっていたんだけどね。篠宮さん、知ってる? 今みたいに生徒ひとりひとりにパピルスが支給されるようになる前は、教科書っていう、本物の紙に印刷された本を使って勉強していたんだって。しかもその教科書って言うのは教科ごとに分かれていて、科目によっては、一冊どころか三冊も四冊も使うこともあったんだとか。そのせいで、当時の高校生はそれこそ何十冊もの教科書を毎日のように鞄に詰めて学校に持っていかなきゃいけなかったんだって」
「へえ――。教科書のことは知っているけど、そんなに沢山必要だったってことは知らなかったな。……でも、紙の本ってすごく重いって聞いたことがある気がするけれど、何十冊も持てるものなのかな」
「何でも、聞いた話では合計で二十キロぐらいあったらしいよ」
明瀬は重大な秘密を暴露するように、汐里の方へ口を近づけ小さな声で言った。
「……それはさすがに大袈裟じゃない? そんなの絶対持てっこないよ。肩が外れちゃう」
汐里が目を見開いて否定すると、明瀬は考えるように眉を少しだけひそめて、
「うーん、きっと鞄っていうか丈夫なリュックみたいなものに詰めて背負ってたんじゃない」
「だとしても無理があると思う」
「でも、少なくともパピルスよりもずっと重いのは確かだよ」
「それは間違いないね」と頷いてから、汐里はふと疑問に思ったことを口にした。
「――ところで、何でそんなことが話題になっていたの? だって普段はみんな、紙の本の話なんてしていないのに変じゃない」
それというのも、汐里は細かいことが気になる質だった。
より正確に言うと、その大小に関わらず、一度気になり始めたことがどうしても頭を離れなくなってしまうのだ。一方で、興味が持てないものに対してはどこまでも素っ気ない態度を取ってしまうこともままあって、厄介なことにその基準というのが自分でもよくわからない。
「実はね、うちの学校に紙の本がいっぱい置いてある場所があるらしいんだ。〝図書室〟って言うんだけど、色々な種類の本があって、その場で読んだり、希望すれば借り出すこともできるんだって。昔はどこの学校にもそれがあったんだけど、今はすごく珍しいみたい」
「そんなの聞いたことがないけれど、どこにあるの?」
「ほら、体育館へ行く道の途中に旧校舎があるでしょ。その中のどこかにあるんだってさ」
「どこかって、またすごく曖昧な情報だね」
「わたしもあの中には入ったことないし、掲示板にもそれ以上詳しい情報は書いてなかったんだもの」
「ふうん、それならしょうがないか。というか、そもそも旧校舎って入れるの?」
「うん、それは平気。旧校舎に部室のある部活動もあるから。それに、図書室もちゃんと管理されていて今も使えるんだって。もっとも、パピルスがあるのにわざわざ重くて嵩張る紙の本を読もうなんて、そんな物好きな人がいるとは思えないけど」
「うん。――でも、やっぱり二十キロは言い過ぎだと思うな」
汐里が独り言のようにぽつりとこぼすと、明瀬が身を乗り出すようにして言った
「ねえ、折角だし、行って確かめてきたらどう? ほら、百聞は一見に如かずって言うでしょ」
「その〝トショシツ〟ってところに?」
明瀬がこくんと頷きを返す。
「わたしが?」
「だって、気になるんでしょ」
「……一人で?」
「だって、わたしはこの後部活があるもの」
「…………」
「ね、何だかわたしも気になってきちゃったからさ。後でどうだったか教えてよ」
明瀬が屈託のない表情でそう言ったのとほぼ同時、慣習的に〝黒板〟と呼ばれている教室前方の壁に埋め込まれた大きなスクリーンのそばにあるドアが開いて、担任の教師が姿を見せた。
まだ行くとは言ってないんだけど――と、
言いたいことを言い終えて満足そうな友人へ向けたその言葉は、結局言わず仕舞いになった。ホームルームが終わるとすぐに、明瀬は教室を飛び出すように颯爽と部活動へ向かってしまったから。
それに続くように、他のクラスメイト達もそれぞれの放課後へ向けて三々五々に散っていく。
あっという間に辺りには誰もいなくなって、
取り残された汐里は少しだけ悩んでから、「よし」と気合を入れて立ち上がると、がらんとして面白味のない教室に別れを告げた。
その足取りは心なしか軽やかに、
パピルスと空の弁当箱が入っているだけの、小さな鞄を右手に提げて。
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