第7話 密室の秘密
蝉の声もまばらになって、秋への扉に一歩足を踏み入れたような午後のひと時。
その気怠さをものともせずに、息を切らしスカートを翻しながら、一人の少女が『緑が丘女学院』の体育館へと続く林道を走り抜けていく。彼方に見える白いドーム状の屋根を目印にしばらく進み、途中の分かれ道を右に折れて少し行けば、包み込むような木々に輪郭を滲ませる旧校舎の姿が見えて来る。
その昇降口に辿り着き、まるで勝手知ったる我が家のように上がり込もうとして、
乱れた息を整えながら思う。
鞄を置いてきたことに関してはまあいい。
少し面倒だけれど後で取りに戻ればいいし、それに、
今日は借りた本を返しに来たわけじゃないから。
そんな都合のいい口実は今はもう必要ないから。
だけど――、
ひとまず脱いだ上履きを手に取って裏返してみる。
流石にこれはまずいよね。
土が剥き出しの場所を走り抜けてきた上履きは、ぱっと見あまり汚れていないように見えるものの、その靴底には煤けたような赤茶色の泥がびっしりとこびりついていた。洗うなり何なりしなければ、とても校内で履けたものではない。
「まあ仕方ないよね」と潔く諦めの笑顔をひとつ。
かくなるうえは今日もあの手で行くしかない。
汐里は汚れた上履きをいつもの下駄箱にしまうと、床にささくれだった場所がないか注意深く確認しながら、可能な限りの急ぎ足で図書室へと向かった。
図書室の頑丈な扉の取っ手を握り、汐里は初めてここに来た時にしたように、耳を澄ませて内部の様子を探ろうとした。
旧校舎の中はやはりしんと静まり返っていて、
あの時と同じく、扉の向こうからは何の物音も聞こえてこない。そもそも分厚い木の板を間に挟んでいるわけだから、よほど大きな音を立てない限りは伝わらないものなのかもしれない。
それと
重い扉を開けて一歩踏み込まない限り、伝えたい言葉も気持ちも何も伝わらない。
だから、こんなところで躊躇している場合じゃない。
汐里は思い切って扉を開け放ち、紙の匂いが充満した部屋にその足を踏み入れた。
ともすれば
それからすぐに、「いや違う」と思い直す。
長い年月を経て醸し出された香りはそう簡単に変わったりはしまい。
変わったのはきっと――、
汐里がふと思いを巡らせようとした時、不意に思いも寄らぬことが起こった。
人気のない図書室の、そのカウンター向こうの壁の辺りから、「ゴトゴト」とお腹の底に響くような重く大きな音が二度三度。
何かが倒れ落ちたらしきその音に混じって、かすかに女の子の悲鳴が聞こえたような気がする。
「――
他の誰でもあり得ないその名前を汐里は咄嗟に呼んだ。
それから、音のした方をもう一度よく見ると、カウンターの奥の壁にも入口と同じような木の扉があることに気づく。どうやらさっきの音と悲鳴はその中から聞こえてきたものらしい。
汐里は扉に駆け寄ると、まるで体当たりするような勢いで取っ手を押した。
すると幸いにも扉は施錠されておらず、少し軋むような音を立てて内側へ開いた。
無我夢中で扉の中へ駆け入った汐里の目に飛び込んできたのは、教室よりも二回りほど小さな部屋の内装と床に散らばる数十冊の本の山。そして、その中に埋もれるように尻餅をつく、凛々しくも可憐な黒髪の少女の姿だった。
一目見て、何が起きたかは大方予想がついた。
見たところ彼女には目立った怪我もないようだが――。
必然、何と声を掛けて良いかわからず固まったままの汐里の視線の先で、
けほ、と可愛らしく咳き込み、「あいたた」と目に涙を浮かべながら稚佳子が暢気にお尻をさすっている。それからようやく気づいたというように視線を上げて、
「――あら、汐里さん? どうしたの、また上履きも履かないで」
「どうしたの、じゃないです。大きな物音がしたから、稚佳子さんに何かあったのかと思って、それで――」
「まあ」と口元に手をやって稚佳子が言う。
「ごめんなさい、心配させてしまったかしら」
彼女の憎めない仕草に思わず毒気を抜かれ、汐里は「心配して損しました」という憎まれ口をすんでのところで飲み込んだ。
「……お怪我はないんですか?」
汐里は気を取り直し、念のためと思って一応確認する。
「ええ、大丈夫よ。倒れた拍子にぶつけたお尻が少し痛いぐらい」
「それなら、とにかく立ち上がってください」
乱れたスカートから覗く、白く細い足に気を取られつつ、汐里は倒れこんだままの稚佳子に近づいて右手を差し伸べた。
「ありがとう、汐里さん」
柔らかな笑みを浮かべて礼を言い、稚佳子は汐里の手を取って「よいしょ」と立ち上がった。
その瞬間、手の平に伝わる温かい感触と腕に掛かる確かな質量。
居住まいを正した稚佳子は、何故か汐里の右手を握ったまま片手でスカートの裾をぱたぱたとはたいて埃を落とし始めた。
「掃除を小まめにしていたつもりだけれど、こうしてみると、結構埃がたまってしまっているわね」
独り言のように言いながら片手でやり難そうに手を動かす稚佳子を見て、汐里はおずおずと言う。
「あの――」
「なあに、汐里さん」
「ええと、両手を使った方が早いんじゃないかと思って」
すると稚佳子は指摘されて初めて気づいたというように、「あ」と小さく声を上げて握っていたままの手をパッと離した。
「――ごめんなさい、つい。嫌だったかしら」
「嫌ではないですけれど」
正直ちょっとだけ名残惜しい。
汐里が否定の言葉を口にすると、稚佳子の表情がたちまち明るくなる。
「ねえ、それならもう一度手を繋いでも良い? 汐里さんの手って温かくて何だか安心するの」
あるいはそうされるのもやぶさかではないが、今の汐里にはその前にどうしてもやらねばならないことがある。
汐里は苦労して稚佳子の顔から視線を外し、床に散らばる本にその矛先を向けて言った。
「……でも、その前に〝これ〟を片付けちゃいましょう」
「それで、稚佳子さんはここで何をされているんです? ――これが委員会のお仕事なんですか?」
散らばった本を一通り片付け終えたタイミングで、汐里はついに核心に触れる一言を放った。
すると、稚佳子は少し考えるように間を開けてから、部屋の真ん中に置かれた作業机を目で示して、
「その机の上にあるものが何だかわかる?」
稚佳子の視線の先で、がっしりとした天板の上に『黒い金属で覆われた一辺が 50センチほどの立方体』が鎮座している。恐らく何らかの機械装置であると思われるがその用途まではわからなかった。
汐里が首を振って見せると、稚佳子は手品の種明かしをするように言う。
「これはね、いわゆる 3D スキャナーの一種よ。物体の三次元情報を読み取ってデータとして出力するためのものなんだけれど、普通のものとは違う特殊な機能がついてるの」
「特殊な機能?」
「そう。ここにあるような紙の本をスキャンするのに特化した機能がね。――例えば普通の 3D スキャナーに本を入れても、データ化できるのは表紙や背表紙といったその外側の部分だけ。つまり中身に書かれている文字まではスキャンできないの。でもこれは違う。自動的にすべてのページをスキャンして、外側はもちろん、その中身までそっくりそのまま、ページについた小さな折れ目さえも再現して、本一冊分のデータをまるごと出力できるの」
「何が出来るのかはわかりました。でも、どうしてそんなことを? ここにある本のほとんどはパピルスでデータ配信されているものだって、昨日稚佳子さんが教えてくれたじゃないですか」
図書室を案内してもらっている際に聞いた話を思い出しながら、汐里が言う。
だって、すでにデータがあるものを手間暇かけてわざわざデータ化するなんて、そんなの道理に合わないと思う。
ところが、稚佳子は汐里の意見が全く的外れだと言わんばかりに首を振った。
「同じようだけれど全然違うわ。パピルスで読む本というのはただのテキストデータでしかないけれど、これを使えば、この図書室にある本を文字通りそのままの形で永遠に保存できるの。たとえ、その形が失われたとしてもね」
〝その形〟というのが、紙の本のことを指しているのか図書室を指しているのか。
あるいはその両方なのか。汐里には判断ができなかった。
けれど、一つだけわかったことがある。
壁に窓はなく、外からの光が差し込まぬこの部屋で、
いつかのように切なく寂しげな笑みを口元に浮かべた彼女の口ぶりは、
まるで近い将来に、それが現実になることを確信しているかのようだった。
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