第5話  トラブル発生

 その日の朝、リンクに朝の挨拶をしたのだが、リンクは返事もなく押し黙ったまま見向きもしなかった。俺に背を向けながら椅子に座り、机の上に両腕を置いて俯いている。


『やばい、鬱状態なのか?』


 控室の空気の温度が一気に下がったように感じた。何か嫌な予感がする。今日一日なにも起こらず、無事に終わってくれれば良いのだが……。

 ただ単に機嫌が悪いだけなのか、体調が悪いのかは俺には分からなかった。しかし鬱状態であることだけは間違いなさそうだ。


 そんな不穏な空気を抱えたまま、俺たち四人は現場であるコークス炉屋上の休憩室に入った。実際の作業開始は、原料の石炭を炉に投入する『挿入車』の動きを見ながら判断しなければならない。それまでの間は待機である。


 あと十分位で作業開始になるだろうというタイミングで、リンクがなにも言わずに休憩室を出て行った。おそらくトイレなのだろう。この現場にきてしまったら、トイレ以外他に行くところはない。

 作業開始時間になってもリンクは戻ってこなかった。大でもしているのかもしれない。そのうち戻ってくるだろうということで、とりあえず残りの三人だけで作業を開始する。


 結局リンクは作業も終わり近くになってから、慌てるそぶりもなくゆっくりとした歩調で現場に戻ってきた。ほとんど牛歩とかわらない。

 ほどなく作業が終わり、四人は休憩室に飛び込む。ピンと張った緊張感の中、それぞれに汗を拭っている。


 そんな緊張感をほぐそうと思ったのか、おしゃべりの尾田君が、えへらえへらと笑って少しどもりながらリンクに話しかけた。

「リ、リンクさん。ま、松田さんが、お、お、遅いと、も、文句を言っていましたよ」

 えっ、俺? こいつはいったい何を言い出すのだ。そんなこと俺は一言も言った覚えはないのに。

「なにっ!」

 リンクが凄い形相で俺を睨み付けてくる。完全な濡れ衣だ。俺はあらぬ疑いをはらさなければならない。

 

「尾田ちゃん、誰もそんなこと言っていないのに、さも言ったかのように言わないでくれる」

 俺はとりあえずそう言ってリンクの視線をかわす。しかしリンクはまだ俺のことを睨み付けていた。尾田君はことの重大さを理解していないのか、未だにえへらえへらとしている。


 その時班長の大田君が割って入った。

「リンクさん、松田さんは本当にそんなこと言っていないよ」

 そこまでは良かった。しかし大田君は班長として、それだけでは言い足りなかったようだ。

「でもね、言ってはいないけどみんなそう思っているよ。遅いうえに態度も悪いって」

 まずい。これではリンクという火に油を注ぐようなものである。


「なんだとっ!」

 一瞬でリンクVS大田君の構図ができあがった。

「だってそうでしょ。黙ってトイレに行ってほとんど作業をしていないんだから」

 大田君はそう言って畳み掛ける。腹に据えかねていたのは大田君自身なのかも知れない。

「具合が悪くてトイレに行っていたのだからしょうがないでしょっ!」

 リンクも自分なりの理屈を主張する。


「具合が悪いなんて一言も言ってなかったし、それに態度が悪すぎます」

「誰でも具合の悪い時はあるでしょっ! しょうがないでしょっ!」

「それなら一声かけていけば良いのに」

「なにっ!」

 リンクはいきなり立ち上がると大田君の胸ぐらを掴んだ。もう片方の手は拳を握りしめて上から振りかぶっている。

「やめろリンク!」

 俺は咄嗟にそう叫んでいた。それなのに体は動かない。身を挺して止めるということはできなかったのである。しかしリンクも振りかぶったまま拳を振り下ろしはしなかった。


 まるで時が止まったかのようにしばらくその状態で停止していたが、やがてリンクは掴んだ手をほどき黙ったまま元の椅子に腰かけた。その間、俺には相当に長く感じられた。しかし実際には、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。


 大田君は休憩室から外に出て行った。おそらく責任者の永田さんに、電話でことの顛末を報告しているのだろう。

 リンクは椅子に座ったまま黙って俯いている。尾田ちゃんは相変わらずえへらえへらとしていた。俺はその場にいるのがなんとなく気まずくなった。

 外に出ると、大田君が片隅にしゃがみこんで電話をしているのが目に入った。横目で様子をうかがうと、目にうっすらと悔し涙を浮かべているように見えた。


 人と人との関係は心の掛け違いによって、いつどのようになるのか分からない。普段陽気で気さくで親切なリンクが、たまたま具合が悪く鬱状態になってしまうとこんな結果になってしまうのである。

 この人と山田さんと俺で福島に行くのかと思うと、なんだか少し不安になってきた。

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