東南アジアの短歌
ワタクシ、短歌の他にも小説を書いておりまして、ただ今の野望が「東南アジア風の壮大なファンタジー小説」の執筆であります。それで、参考資料としていろいろ本を読んでいるのですが、時折気になる記述に出会うんですね。
「カンボジアの新聞記事の間には読者投稿の詩が掲載されている」
「インドを鉄道旅行してたら日本でいう俳句みたいな短い詩を作ってるお兄ちゃんに会った」etc……。
こういうのを目にする度に、短歌やってる人間としては
「なぬっ!」
と思わず前につんのめってしまいます。外国にも短歌や俳句っぽいやつあるのか? 新聞に投稿欄あるのか。伝統詩の結社(サロン?)あるのか。歌会やってんのか。テレビつけたら夏井いつきさんみたいな人が民族衣装着て出てんのか。有名な詩が印刷されたカルタを取って遊んでんのか。気になってしょうがない!。
多分世界を見てみたら、詩を持ってない民族ってあまり無いと思います。ただ、ワタクシとしては定型の伝統的な短詩にはどんなものがあって、それがどれくらい短歌や俳句と似ていて、それが現在でも作られているのかどうか、という事が非常に気になりました。
そんな時、新聞広告を見ていて、一冊の本のタイトルに目が釘付けになりました。
小笠原至著 『南の國の恋の唄 マレー・パントゥンの世界』 文芸社
解説には「南の國の韻文に思いを寄せる著者が解説するマレー四行詩への理解が深まる一冊」とあります。おお、これだ! と思い、さっそく一冊取り寄せてみました。
手にした本を開いてびっくりしました。目次を見ると、なんと「マレー・パントゥンと和歌」という項目が一章設けられていているではないか! そして著者に言わせると、四行詩パントゥンは三十二音節が標準的な音数であり、三十一文字の和歌と長さが近く、その描かれた内容も日本の和歌に重なる、とのこと。
おおお! これを読んだ感激たるや! 短歌を始めた時、私の中に「日本の伝統」という縦方向の繋がりが芽生えた気がしたんですが、これを読んで、横方向のワールドワイドな繋がりが出来た気がします!(笑)
文芸社ならおそらく自費出版で、お金と労力がつぎ込まれた貴重な著作物からの長々とした引用は避けますが、パントゥンという四行詩は一行目と三行目、二行目と四行目がそれぞれ韻を踏んでいて、詩の意味は後半二行に語られているということ。前半二行は後半を引き出すためにあり、内容的には無意味。ちょうど和歌で言えば枕詞のような役割、とも言えるでしょうか。しかし無意味といっても、ワタクシにはそれら東南国的な言葉の数々がまるで俳句の季語のように、歌の世界に読み手を引き込む役割をしているように感じられました。
原語と日本語訳、そして解説が続くのですが、マレー語が分からないワタクシには原語を読んだだけではもちろん内容はさっぱり分かりません。日本語訳を読んでも、その良さが一瞬で分かるような詩は多くありません。まあ当然ですね。解説を読むことでその詩の意図がジワジワと分かってきます。でも、それは和歌でも同じこと。マレー語が分かる人に読んでもらって、自分でも口ずさんでいるうちに好きになりそうな詩はたくさんありました。(日本も亜熱帯化してますからね。)マレー・パントゥンに描かれた世界が案外自分の感覚にしっくりくるような感じもします。
……それで、この本で紹介されているのは昔のマレー・パントゥンなんですが、今知りたいのはこの形式で今もお詩を作っている人がいるのかっていうことです。まあ、我々みたいな人達ですね。いるんなら会って話をしてみたいなあ~。(言葉通じないけど)
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