第20話 世界の中心ですべてを燃やすJK

 椿がパニックルームを出て行ってからまもなくすると、一0一号室のドアを叩く音が少し弱まった。

 どうやら物音から察して椿が二階へ何体かを引き連れていったらしい。


「――私が囮役じゃなかったの!?」


 姫が悔しいような情けないような顔で天を睨んだ。

 これ以上椿ばかりにかっこいいところを持っていかれるのはプライドが許さない。これではこれから名乗る予定の死人使いのプリンセス・プリンセスという通り名も形無しだ。


 姫は壁際で綺麗に整列している九体のキョンシーを見た。

 キョンシーと自分が貼り付けている霊符の梵字は愛染明王あいぜんみょうおうを表している。


 愛染明王――サンスクリット語でラーガ・ラージャと呼ばれ、恋愛、縁結び、家庭円満を司る仏様。

 図書館で正しい仏力の頼り方に気付いた後で、自然と湧き上がるように閃いた仏様の力の運用方法。


 それは愛染明王の持つ天弓愛染と言う名の弓矢でゾンビと縁を結んでもらい、さらに人の持つ本能を向上心に変える愛染明王の功徳によって、ゾンビが人を襲うという本能を生者のために仕えるように変換すること。


 姫の狙いは見事に成功して、自身を愛染明王の化身とした死者を操るネットワークは完成した。

 しかし姫自身の力不足なのか、それとも他にやり方があるのか、キョンシーの動きは一律一様で個別に動かす時には他のキョンシーは休止状態となってしまう。また先ほどの食堂での出来事のように姫自身の対応が遅れた時も、キョンシーはただのマネキン状態のままになってしまい、つまりは各個体が自律したスタンドアローンの働きが出来ない。


 もちろん姫からの指示が無い時でも、霊符が貼ってある限りは人を襲わないキョンシー状態を維持できているだけでかなりの進歩があったことは認めているが、ゾンビの成長が計り知れないとわかった今ではやはりこのままでは力不足だった。


 所謂レベルがまだ低い状態のままでキョンシーとして操っているこのゾンビたちが、あの人間離れした動きをする高レベルのゾンビを相手にどこまで通用するのか。

 そして愛染明王の仏力に頼ったゾンビ操縦法があのゾンビたちにも通用するのか。


 姫は大きく深呼吸をすると、そっとドアに近付いた。

 ドアの前にはまだゾンビが一体残っていてドアはもう所々破れかけている。

 そして一際大きな裂け目からアキラが顔を突き入れて歯を剥くと同時に、姫は死角から身を乗り出して愛染明王の梵字が書かれた霊符をアキラの額を目掛けて貼り付けていた。

 しかし無残にも霊符は一気にどす黒く変色すると、腐敗して崩れ散ってしまう。


「くそっ、駄目か!」


 姫は残された一手に賭けて窓際まで後退すると、九字を唱えながら九つの印を切っていく。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」


 そして更に「おん まからぎゃ ばそろ しゅにしゃ ばさら さとば じゃく うん ばん こく」と愛染明王の真言マントラを詠唱しながら空中に筆で「操」と書いた。


 九字に一字を足して十字とすることで九字の持つ霊力の効果を全て十字目に特化したのだ。それはすなわち――


「――みんな行くよ!」


 と、姫は叫びつつ持っていた筆でドアを指し示すと、壁際にいる自分の位置までの空間をその筆で一直線になぞった。

 するとそれまで置き物状態だったキョンシーたちが突如として顔を上げたかと思うと、姫の目の前からドアに向かって綺麗に一列となって整列する。


 しかもさらに驚くことには最後尾に立つ姫がパアンッと両手を合わせて合掌をすると九体のゾンビも一斉に合掌をしたことだ。キョンシーたちが姫の動きを寸分違わずに精密にトレースする、それこそが十字目の「操」の効果だった。


「天地と我と同根、万物と我と一体……」


 姫は合掌をしたままそう呟き終えると、今度は筆を口に咥えてファイティングポーズをとった。それに倣って一斉にファイティングポーズを構える九体のキョンシーたち。


 キョンシーの列の先に見えるドアは既に剥がされていて、今にもアキラがバリケードを破壊して部屋に侵入しようとしている。


「一番目!」


 最後尾にいる姫がそう叫んで右パンチを繰り出すと、最前列の中年キョンシーが同じ動作でアキラの顔面に右パンチを叩き込んで廊下へと弾き飛ばした。

 だがアキラは負けじと雄叫びを上げながらまたバリケードに張り付きドアの裂け目に強引に頭を突っ込んできたかと思うと、先頭のキョンシーの顔に食らい付いてそのまま両腕で頭部を掴んで引っこ抜いてしまう。


 しかし先頭のキョンシーが床に崩れ落ちると同時に、姫の「二番目!」の掛け声とともに二体目のキョンシーが先頭に踊り出てまた同じようにアキラを押し戻した。


 姫の選択。それはキョンシーの順次運用による最終防衛ラインの確立。部屋に一歩でも侵入されてしまえばもう逃げ場ない。そして動きの鈍いゾンビをキョンシー化しても動きには制限があり、成長が進んで高い身体能力を発揮するゾンビの前では赤子に等しい。


 しかし個別に順次投入し部屋と廊下の境界線上にキョンシーによるバリケードを設置することで、このゾンビをここに引き付けながらも自分の身も守れるはず。

 そうすれば必ず勝機が生まれる。

 残されたチャンスは八回。

 その間に必ず――

 ふと自分の中に椿への絶対的な信頼感が生まれていることに気付いて、姫の口許は思わず緩んでいた。




 椿は勝手口から調理場へ飛び込むと、流し台の上にあった据え置き型の包丁差しを掴んで食堂へと駆け込んだ。

 そして食堂の一角に陣取ると、食卓の幾つかを倒して周囲に壁を作り、さらに自分の前の食卓の上に次々と包丁を刺していった。


 サバイバルナイフと合わせて合計五本。

 これが椿に残された武器だ。


 椿は大きく肩で息をしながら暗闇を睨んだ。

 やがて左手の勝手口から大悟が、右手の廊下に繋がる入り口からはシュウが姿を見せる。しかし食堂の一角に陣取る椿を警戒してか二体ともなかなか接近しようとはしない。


 確実に仕留めるには椿でもためらってしまう微妙な距離だ。

 シュウと大悟はゴリラのように両手を床についてウロウロとしながら、時折低い唸り声を発していて、それは何やら会話をしているようにも聞こえた。


 ある程度の知能もあり、更にゾンビ同士で意思の疎通ができるとしたならば相当厄介である。

 椿は呼吸を整えながら、二体の一挙手一投足に全神経を集中していた。

 一瞬たりとも気が抜けない膠着状態が続き、このまま永遠に続くのではないかと思われたその時――


 最初に動いたのはシュウだった。

 両手を使った四足歩行で地を這うように椿に向かって猛然と突進してくる。

 が。

 椿は視界の右隅でその体が急停止したのと同時に、左隅に捉えていた大悟の影が動き出したのをしっかりと確認していた。


 フェイントだ。

 椿は左手のサバイバルナイフを大悟に向けた。

 その刹那、視界右隅から急接近する黒い影。

 ゾンビの移動速度を遥かに上回っている物体の急接近に、椿の反応が一瞬遅れる。


 そして全身に走る鈍い衝撃。

 床に倒れこんだ自分に覆いかぶさる物体が、頭部が破壊されたためにゾンビ化せずに床に転がっていた不良少年の死体で、シュウがそれを蹴り飛ばしてフェイントを二重に仕掛けてきたと気付くよりも早く、椿は両足で立てかけていた食卓をそれぞれの方向へ力の限り蹴り飛ばしていた。


 大きく跳躍して椿に襲い掛かろうとしていた二体のうち、大悟は命中して叩き落すことに成功したが、もう一つの食卓はシュウの脇を掠めて飛んでいってしまう。


 咄嗟に倒れたままの状態で死体を跳ね除けて、傍らの食卓を引き寄せてガードする。

 シュウの体が食卓にぶつかり、その重みと衝撃で四つの脚が砕けて、その下にいる椿の上に天板ごとシュウが落ちてきた。


 シュウが椿の顔に噛み付こうとするが、椿は天板ごと柔道の巴投げの要領で投げ飛ばすと、床に散らばっていた出刃包丁を一つ掴んで立ち上がった。

 まだ床に倒れているシュウの顔面に目掛けて包丁を振り下ろそうとするが、突進してきた大悟の体を交わすことで邪魔をされてしまう。


 椿は後退しながら出刃包丁を咥えると、ジャージの上着を脱いで自分の右腕に巻きつけた。

 玉のような汗がいくつも頬をつたって落ちていく。呼吸も荒い。

 体力が限界に近いことは椿自身がよくわかっていた。


 だからこその最後の手段。

 右腕を一本くれてやっても、それと引き換えに出刃包丁をどちらかの脳天に突き刺してやる覚悟だった。


 せめて一体でも多くゾンビを倒したい。


 椿はジャージを巻いた右腕を突き出して、腰の辺りで出刃包丁を構えた。

 シュウと大悟は容赦なく弾かれたように一直線に突っ込んでくる。

 その時、声がした。

 玄関からここに来るはずのない聞き覚えのある声が――




 まどかは乙葉の手を引っ張って森の中を走っていた。

 向かっている先は、寮から少し離れた場所にある電力会社の鉄塔だった。その鉄塔を待ち合わせ場所として、乙葉の救出作戦は展開されたのだ。


 制限時間は三十分。

 それがさくら寮へ突入する寸前にまどかが提案した妥協案だった。不良少年たちが寮から出て行っても出て行かなくても、椿と姫は一旦は鉄塔へ来るということになっていた。


 寮から鉄塔までは十分とかからない。

 まどかたちが鉄塔にたどり着いてしばらく待てば二人がやってくるはずだ。


「あと少しで鉄塔だからね。頑張って乙葉ちゃん」


「で、でもあの人たちがさくら寮から出て行ってくれなかったらどうするんですか!?」


「その時は四人でどこかへ行くの。みんなで安全に暮らせる場所が他にもあるはずよ」


「だけどこんな世界じゃどこへ行っても同じです」


「え――」


 その言葉に気を取られたため足元の木の根っこに気付かずに、まどかの体が前のめりで地面に叩きつけられた。ジャージのポケットからスマートフォンとジッポが飛び出して地面を転がっていく。


「いたた……」


「大丈夫ですか?」


「うん。でもね乙葉ちゃん、私たちは無力なんだよ……自分たちで自分たちの行く末を決められる力なんてありっこない。だから状況と環境に臨機応変に対応していくしかないんだ……」


「……でもそんなの悔しいです! 先輩は悔しくないんですか!? みんなでせっかく作り上げてきたのに……私、学園に入学したばかりだし第一寮にもまだ少ししか住んでいませんけど、さくら寮には思い出も愛着もあるのに……椿さんや姫先輩だってきっと同じ思いだから…… この先もずっと私たち女の子はゾンビに怯えて、男子にも怯えて暮らしていかなければならないんですか!? どこか新しい場所で暮らしても、世界がこんな風に壊れてしまったらきっとまた同じようなことはいつか絶対に起きますよ!? そうしたら私たちはまた誰かに追い立てられて住むとこを失くしちゃうんですか!? そんなの悔しいです私……悔しくて悔しくてやり切れないです!」


と、堰を切ったように感情があふれ出した乙葉は、ぼろぼろと大粒の涙を零しながら地面にしゃがみ込んで泣き始めた。

 まどかはなんと声をかけていいのかわからず、それでもここに留まっているわけにもいかず、散らばったジッポとスマートフォンを拾うと立ち上がった。


「……乙葉ちゃん行こう――」


 そう言いかけた時に、背後から落ち枝を踏む音とともに人が近付く気配を感じてまどかは驚いて振り向いた。

 霧の中から現れたのは自分と同じ歳くらいの髪を金髪に染めた少年だった。着ているメジャーリーグのポロシャツは薄汚れていて所々に血痕が付いている。


「はは……やっぱこっちに逃げてきて正解だった。あいつらバカだからまた街の方へ逃げてったけど、もうゾンビなんかたくさんなんだよ! だ、だから俺は人の居なさそうなこっちへ逃げてきたんだ…… あいつらバカのくせに人のこといつもパシリ扱いしやがって! はは、ザマーミロだぜ。最後の最後に運がまわってきやがった」


 少年はひどく怯えた様子で訳のわからないことを口走っていて、薄汚れたドブネズミのように落ち着きがなかった。

 まどかがそっと目配せをして乙葉を立たせると、


「動くんじゃねえよぉ、糞ビッチが――!」


 と、持っていた飛び出しナイフで威嚇するが、自分で出した大声に自分自身で驚いて周囲を警戒している。

 まどかはその隙を逃さずに「逃げて!」と乙葉に向かって叫んだ。

 まどかと乙葉は同時に駆け出すが、少年の手はがっしりとまどかの左腕を掴んでいた。


「まどか先輩!」


「行って! 約束の場所に行けば二人に会えるから!」


 乙葉は少しの逡巡のあとで、意を決したように半泣きの顔で霧の中へと消えていく。


「へへ、あんな中坊はどうだっていいんだ。俺はおめえの方がタイプだからよ。まさかおめえまでゾンビを操れるとか言うなよ……」


 ポロシャツの少年はまどかの首に腕を回して抱き寄せると、ナイフでまどかの頬を叩きながらもう片方の手でまどかの胸を弄った。


「い、いや、やめて……!」


 しかし少年の鼻息はさらに荒くなっていき、まどかの足を引っ掛けて押し倒すと上に覆いかぶさってジャージのファスナーを引き裂くように開けた。

 まどかは必死になって抵抗するが、少年の手が喉に食い込むように押さえつけてくるので上手く逃げられない。

 それでも懸命に体を仰け反らせて、足をジタバタとさせてもがいていると左頬に激痛が走った。


 少年の平手打ちにまどかの身体は驚きと恐怖の余りに硬直してしまう。すると少年は調子に乗って下卑た笑みを顔に張り付かせて、乱暴にまどかのティーシャツをたくし上げると露になった腹部に貪りついた。


 まるで軟体動物が肌の上を練り歩いているかのようなおぞましい感触にまどかはたまらずに顔をしかめる。荒い吐息とともに少年の舌が上へ上へと移動してくるが、まどかは両脇をぎゅっと締め胸の前で腕を交差させて恥ずかしい部分を守った。


 すると少年の右手がすっとジャージのズボンの中へと入り込んでくる。

 全身に電流が流れるような羞恥心にまどかの頭は真っ白になり、思わず少年の胸を突き飛ばすと四つん這いのまま地面を這ってその場から逃れようとする。


 そのまどかの初々しいリアクションが少年に火をつけたのか、「子猫ちゃんかわいいー」と、気色の悪い猫撫で声を上げながら後ろから迫ってくる。

 そして少年は後ろからまどかの両脚を抱きかかえると、ジャージの腰の部分に手を掛けて一気に剥ぎ取った。


 夜霧の淡い光の中にまどかの白くすらりとした両脚がパンティー一枚の露な姿で浮かび上がると、少年の瞳に淫靡で残虐な光が走り抜けた。


「い、いやだ……」


 露になった下半身をジャージの上着で隠そうとしながら地面の上を後ずさっていくまどかに、少年が堪えきれないという風に飛び掛る。

 まどかはヒステリックな金切り声を上げながら少年を叩きまくって激しく抵抗するが、少年も負けじと何度も何度もまどかの頭や頬を張り飛ばす。


 いやだ。こんなのいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 助けて。お母さん助けてよ。


 まどかは心の中でそう何度も叫びながら止む気配を見せない少年の鉄拳から顔を守っていた。痛みで両腕の感覚が麻痺していき、殴られる度に頭が激しく揺さぶられて思考力すらも奪われていく。

 真っ白になりかける意識のなかでまどかは母親の顔だけを思い描いていた。


 すると突然理不尽な暴力の嵐が止んだかと思うと、まどかの身体の上に少年がぐったりとして倒れこんできた。


「まどか先輩……」


 その声に恐る恐る目を開けると、そこに立っていたのは木の棒を持ったまま激しく嗚咽している乙葉だった。あまりの恐怖と奮い立たせた勇気のためか、体が激しく震えていて歯がガチガチと音を鳴らしている。


 しかしまどかは自分を助けに戻って来てくれた後輩には目もくれず、覆い被さっている少年をどかすと、一心不乱に脱ぎ捨てられたジャージのズボンに向かっていく。

 そしてポケットからジッポとスマートホンを取り出すと、すがるようにスマートホンの画面を見つめた。


 無性に母親の声が聞きたかった。聞きたくて聞きたくてしようがなかった。

 たとえその声が留守電に残されたメッセージだとしても、自分は母親にとても酷いことをしたのだと謝りたかった。

 いまそれが出来なければ自分は本当に孤独になってしまう。


 そしてスマートフォンから懐かしい母親の声が聞こえてきた。


――まどか。学校が閉鎖になったらどうするの? こっちへ帰ってくるのならば一度連絡をちょうだいね。あの人の機嫌が悪くなるのも困るから。


「え……?」


 まどかは吸い寄せられるようにスマートフォンを顔に近づけて、次のメッセージの再生ボタンを押していた。


――あのね、あの人がね、この霧はすぐ収まるって言ってるの。だから無理して帰ってこなくてもいいって。お互い気を使うだろうし。そっちに残るのならばお金を余分に送っておきます。


 まどかの唇が震えていた。


――まどか、明日から伊豆の別荘へ避難することになったの。あの人がね、どうしてもって言うから。お金は送っておいたので一度電話に出て。


「はは……なんなのよ、これ……」


 まどかは泣き笑いの顔で呆然とスマートフォンを見つめていた。

 自分が親を捨てたのではなかった。

 捨てられたのだ。

 この学園に転入させられた時と同じように。

 自分はまた親に捨てられていたのだ。

 まどかは怒りをぶつけるようにスマートフォンを地面に叩きつけた。


 そう、お笑いぐさだった。

 捨てられた腹いせに今度は捨ててやろうとした幼稚な企み。

 しかしその行動の裏には、母が自分の犯した罪に気付いて懺悔の涙を流し、もう一度母娘二人で暮らそうと迎えに来てくれることを望んでいた気持ちがあったのだと思う。


 いや、そんなことはとうにわかりきっている。

 もう一度母と二人で暮らしたかった。

 また昔のように、女手一つで自分を養ってくれながらも生き生きとしていて、何ものにも縛られず、自由で逞しくて優しくて綺麗な母に戻ってほしかった。


 そしてもう一度父の形見のライターを握り締めながら思い出話を語ってほしかった。

 そうでなければ電話が繋がらなくなってからも、ずっと罪の意識からうじうじと悩むはずなどない。

 本当は留守電には母が自分を捨てた愚かさに気付いて、涙ながらに謝罪をしているメッセージが残されていることを期待していたのだ。


 だけど今日までずっとそれを確認するのが怖くて聞けないでいた。

 でも結局自分は悲劇のヒロインを気取っていたただのピエロにすぎなかった。

 みじめで。

 滑稽で。

 世界中どこを探しても居場所もなく、一人も観客の居ない劇場で暗闇に向かってパントマイムを演じている哀れな道化師だった。


 だからそんな自分を笑い、そしてそんな自分に泣いた。

 なんのことはない。

 世界は終わっていた。

 もうとっくの昔に終わっていたのだ。


 世界が霧に包まれてゾンビが現れるという、そんな大層な事件など起きなくとも世界はとっくの昔に終わっていたのだ。

 それはきっと自分がこの学園に捨てられたあの日から。

 そしてサバイバル生活はその時から既に始まっていたのだ。

 誰にも依存せず、強い心のままであり続けるという生存競争が。


 なのに、そんな事実にすら気付かずに、もう手に入ることの無い暖かな優しさをひたすらに求め、求めながらもそんな自分に気付かないふりをして、憎めばいいのか愛すればいいのか、忘れたいのか忘れたくないのか、抱きしめてほしいのか抱きしめられたくないのか、何一つとして心の整理のつかないまま、いつか来るであろう世界の終わりと再生を心待ちにしていただけだった。


 そして降って湧いたようなチャンスを前に自分が出来たことと言えば、甘っちょろくて幼稚な愛情表現の裏返しだけだった。


 もう世界は終わっていたというのに。

 とっくの昔に世界は終わっていて、自分を置き去りにしたまま何事もなく普通にこの星は回っていたというのに。

 それをみじめと言わずして何を言う。

 これを滑稽と言わずしてどれを言う。

 そんな人生が、果たして生きていたと言えるのか。

 生を謳歌していたと言えるのか。

 若草のような瑞々しい時間を、風が導く級友との出会いを、輝ける青春を謳歌していたと言えるのか。


 自分は死んでいた。

 生きながらも、死んでいた。

 そうゾンビと自分は同じだ。なにも変わらない。

 親に捨てられたさくら寮という人生の墓場で、死にきれず、生ききれず、生と死の狭間にぶら下がって、ただ置き物のようにそこにあっただけだ。


 墓碑の下で心を腐らせながら、土の中から腕を突き出して、幸せの青い鳥を掴もうと叶わぬ努力をしていただけだ。

 もう青い鳥を掴むことも、この手で握り潰すこともできやしない。

 もはやその青い鳥の瞳には自分など写っていなかったのだから。

 ああ、自分はいったい何のためにこの世に生まれてきた?

 親に捨てられるためなのか?

 ただ恨みを抱えるためなのか?

 その恨みを誰かに知られるのがかっこ悪くて、作り笑いを浮かべて平気なふりをするためなのか?

 不良少年に追い立てられて行き場をなくすためなのか?

 行く当てもないのに、霧の迷路の中でまだ見ぬ楽園を妄想するためなのか?


「違う! 違う違う違う違う!」


 まどかは泣き崩れていた。悔しさを地面に叩きつけていた。

 そこでまどかはふと握り拳の中の感触に気付いて、そっと指を開いてみる。

 握り締めていたのは父の形見のジッポライターだった。知らぬ間に握り拳に力が入っていたためか、手の平にはくっきりと十字架の跡が付いている。 

 それは純銀製で手の込んだ十字架が掘られている母から父への初めての誕生日プレゼント。今はもう失くしてしまった幸せの結晶。


「お父さん、なんで私は生まれてきたの……?」


 まどかは涙に濡れた顔を上げると、ジッポを持つ右手を突き出してカチンと火を点けた。

 グラスファイバー製の芯に点った小さな火を目掛けて夜の冷気が吸い込まれていくみたいに、シュボンという音とともに一メートルほどのオレンジ色の火柱が勢いよく立ち上がった。


 その炎の勢いに乙葉が思わず息を呑んだ。

 そしてまどかの左手は吸い寄せられるように炎の中へと消えていった。


「先輩、なにしてるんですか!?」


 乙葉が血相を変えて駆け寄ると、慌ててまどかの左手を炎の中から引っ張り出す。

 そしてまどかの左手が手首のあたりから炎に包まれているのを見て、乙葉は急いで炎を叩き消したが、その左手が火傷の一つも負っていないことに驚きの声を上げた。


「せ、先輩大丈夫なんですか……?」


「全然熱くない、熱くないんだよ乙葉ちゃん。私なんか燃えてなくなっちゃえばいいのに、全然熱くないんだよ……」


 ドラッグストアからの帰り道、椿と姫の二人に言われた言葉を思い出す。

――先輩の妹の力いものちからはもしかしたら火に関係があるのかもしれない

――何か思い当たる節はないのですか

 二人の真剣な眼差しを笑ってはぐらかしたものの、心当たりがないわけでもなかった。


 日常の中の微かな前兆サイン。それに気付いて意味を見出していくのも、結局はその人間の心構え一つ。

 椿と姫は生に執着し、生き残ることに真剣だったからこそいち早くその前兆サインに気付いて妹の力ギフトを手に入れていった。


 それに比べて自分はどうだっただろう。

 どれだけ生に無頓着だったことか。

 どれだけ流されるままだったのか。

 どれだけ生きていくことを心のどこかで諦めていたことか。

 どれだけ心のどこかで死を願っていたことか。


 まどかは乙葉を見た。とめどなく涙が溢れた。だが悲しいだけではなかった。胸の底からこみ上げてくる温かな気持ち。それに感情が激しく揺さぶられていた。


「……ずっとさくら寮は墓場だと思っていた。私はその墓場で生きているのか死んでいるのかわからないゾンビそのものだったの。波風を立てず、心を見透かされず、平気なふりをして、普通に見られるように過ごしてきた。いつか私は氷みたいに温度を失くした生活が普通になっていた。でも、そんな冷たい氷のトンネルの中でもお父さんが生きていたころの思い出だけが熱を帯びていたんだ。ゾンビの私に熱い血潮と体温をもたらしてくれる、かけがえのない存在だったんだ。ライターの炎はゾンビになってしまった私を、人間に戻してくれるたった一つの生命の灯。いま炎の中から聞こえたの。お父さんの声が。お父さんは、それでも生きていきなさいってずっとずっと私に語りかけてくれてたの……」


 まどかは立ち上がった。その顔はもう泣き顔ではなかった。


「ああ、乙葉ちゃん私はいま自分がどうすべきだったのかようやくわかったよ。もう手遅れなのかもしれないけれど、私はもっとがむしゃらに生きるよ。生きるということにしがみ付いてみるよ。そしてどんな手を使ってでも、私はここに居るんだと叫んでやる。私を見て、私を迎えに来て、私を抱きしめろと叫んでやる。世界中にむかって叫んでやる。私の存在を思い出させてやるんだ。だから私はさくら寮で生き続けなければならないんだ。だってあそこが世界の終わりの始まりなんだから。あそこから再生をしなければ、私はいつか昔の自分に踏み潰されてしまうに決まっている。さくら寮が人生の墓場だとしても、死者が生き返るこんなあべこべの世界ならば、その墓場こそが生者が生きる場所だ。全てが始まり生まれる場所なんだ。だから私は帰るよ。お母さんに捨てられたあの場所へ。花城まどかとして。第一さくら寮寮長として。あの場所へ帰って、この新しい世界で新しい生活を始めるんだ!」


 まどかは乙葉に手を差し出した。


「乙葉ちゃん帰ろう、さくら寮へ」


「はい――!」




 椿が右腕にジャージを巻きつけてシュウと大悟と対峙して、まさに二体の突進を受け止めようとしていたその時に、玄関から聞こえてきたのはまどかの声だった。


「椿ちゃん、姫ちゃん今どこに居るの!?」


「――先輩!? 今ここへ来たらダメです!」


 椿に向かって突進していた二体のうち、大悟が弾かれたように食堂を飛び出していく姿を見て椿の顔が凍りついた。

 しかし追いかけようとしたものの、シュウが腕に巻きつけたジャージに食らいついて離さない。幸い歯は腕にまでは達していなかったが、椿の身体を振り回そうとする顎と首の力が凄まじい。


「くそ、邪魔をするな糞ゾンビ!」


 椿が焦りの感情を露にシュウの眉間目掛けて出刃包丁を振りおろした。

 しかし咄嗟に右腕でガードをされてしまい、刃は鈍い音とともに尺骨に当たって止まってしまう。

 そしてここへ現れるはずのないまどかの登場で動揺していたのか、出刃包丁での攻撃失敗の一瞬の隙を突かれてシュウの右キックが椿の左膝を直撃していた。


 電流が流れたような痛みが左足を駆け抜けて、一気に椿の体勢が崩れていく。

 そして左腕に噛み付いているシュウの暴力的なパワーが、彼女の細く小さな身体を右へ左へと振り回し始めた。

 そうなってはもはや蹂躙されるがままであった。


 椿には最早その凶暴な怪力を食い止める術がなく、竜巻に飲まれた木の葉のように身体が宙に舞っては床へと叩きつけられた。

 するとその時、視界の中に火の玉が飛び込んできた。

 それが何者かの全身が火だるまとなって食堂のなかへ飛び込んできたと理解できるまでに数秒を要した。


 床に倒れて燃える何者かは体の大きさからつい今しがた食堂を飛び出して行った大悟と思われ、獣のような鳴き声を上げながら床の上を苦しそうに転げまわっていた。

 大悟の体はすでに黒く炭化していて一部が崩れ始めていたが、不思議なことにその巨体を包み込む炎は、その勢いに反して床や天井へ燃えうつる気配が全くなかった。あくまでも炎はその巨体だけを燃やし尽くそうとするみたいに、執拗に大悟の体だけに絡み付いている。


 シュウが椿の右腕を放して、床でのた打ち回っている大悟に駆け寄ろうとした時に、廊下がオレンジ色に赤く染まったかと思うと、今度は上半身を炎に包まれたアキラが食堂のなかへ転がるように飛び込んできた。


 アキラは半身を炎に焼かれながらも威嚇するように入り口に向かって唸り声を上げている。

 そしてその入り口に姿を見せたのはジッポライターをかざしたまどかだった。


「椿ちゃん大丈夫!?」


「――パイロキネシス!。先輩、やっぱり……!」


「まず謝っておく。ごめんね。私いろいろと間違えてた。私たちは弱い存在だからって、ずっと流されるままでいいなんてこと決してないんだ。もう何かを失うのなんてごめんだよ。でもその為には人や物事の間をすり抜けて逃げてるだけじゃダメなんだ。だから私も戦う。ここが私たちの居場所なんだから。ここしか私たちは行く場所がないんだから。――椿ちゃん、私たちのさくら寮を奪い返すよ!」


「はい、先輩!」


 二人の会話をよそに、シュウとアキラが怒り狂ったように雄叫びをあげてまどかへ飛び掛った。

 しかしジッポライターの小さな炎が渦を巻きながら大きく燃え上がったかと思うと、空中のシュウとアキラに襲い掛かって全身を飲み込み、さらには炎の勢いで二体の体を押し戻して背後の壁へと叩きつけた。


 シュウとアキラは全身を炎に包まれながらもゆらりと立ち上がった。

 それを見てもまどかは臆することなく落ち着いていて、その瞳には静かな怒りに満ち溢れている。


 そしてまどかの右手がジッポライターの炎の上でゆっくりと回転し始めると、それまで小さな炎だったのが、右手の引力に引かれるように勢いを増してまるで生き物のように右手の動きに追随し始めた。


 それはまさに空中でとぐろを巻く赤く燃え上がる蛇のようでもあったが、椿が目を見張ったのはその炎が見る見るうちに直径三十センチはあろうかという火球に成長したことだった。


「寮長としてこれだけは言っておくわ。第一さくら寮は男子禁制で部外者は立ち入り禁止なの! そして害虫は見かけたら即刻駆除が大原則!」


 まどかが宙に浮かんでいる火球にふっと軽く息を吹きかけると、火球はまるで空を切り裂く弾丸のようにシュウとアキラを目掛けて飛んでいく。


「――燃えてしまえゴミ虫」


 その声に呼応するかのように火球は二体の間でピタリと停止したかと思うと一気に収縮し、そして今度は一気に膨張すると二体を紅蓮の炎の中へと包み込んだ。二体を飲み込んだ火球は激しく回転をしながら炎の勢いを増していき、その周囲をプロミネンスが龍のように駆け回っている。


 凄まじい熱風が食堂中を駆け抜け、熱気の塊が椿にも襲い掛かったが不思議と恐れは感じなかった。

 なぜならば、そのまどかが生み出した炎は彼女が念じた対象だけを焼き尽くすまどかの心の力なのであろうという確信があったから。そしてその炎の暖かさこそが、彼女と初めて出会った時から感じていたまどかの優しさそのものだと気が付いたから。


 シュウとアキラの体は半径三メートルの灼熱地獄の業火に焼き尽くされて、一気に炭化して塵となって崩れていく。そしてそれに合わせて炎の勢いも弱まっていき、やがて自然と消滅してしまった。


「ああ、ようやく終わったぁ。残りキョンシー一体、まどか先輩が来なかったらマジでやばかったかも……」


 姫と乙葉が互いに体を支え合いながら食堂の中へと入ってくるが、乙葉は食堂の惨状を見て顔を引きつらせていた。


「こ、これはかなり掃除のし甲斐がありますねぇ……」


「大丈夫、椿ちゃん?」


 まどかが椿に歩み寄って手を差し出す。


「私ね、椿ちゃんに一つだけ言っておくことがあった」


「なんですか……?」


「実はね、私もこんな世界燃えちゃえばいいっていつも思ってた。私たち似た者同士の普通じゃない子供なんだよ、きっと」


 そう言って笑うまどかを見て、椿は照れ臭そうに、そしてどことなく嬉しそうに微笑んだ。




 6月1日 月曜日   記入者 花城まどか


 世界がこんなふうになってしまってから、今日で一ヶ月が経つ。

 今のところあれから平穏な日々が続いている。

 不良少年たちに乗り込まれて寮は大荒れになってしまい、そのせいでここ最近はずっと大掃除&大改修に追われて忙しい日々を送っていた。


 まず寮内には少年たちとキョンシーの死体が何体か残っていて、その処理にはこまったけれど、結局中庭で火葬にして裏山へ埋葬してあげることにした。

 その後で床や壁に飛び散った血液を洗い落とすのにも一苦労だった。

 こんなこと初めての経験だったし、精神的にもかなりきつかったが、みんな黙々と作業をこなしていた。


 いまここで命の尊さや人のあり方について思いを巡らせても仕方が無い。

 毎日は無常に流れていき、それでも私たちはどこかへ行く当てもなくここで暮らして行かなければならないのだから。


 そして今回の事件をきっかけに、外へ物資の調達へ行くのにはなるべく四人揃って行動をするか、或いは留守番は必ず二人で行うことにした。

 最近は寮の前の坂道をゾンビが上がってきて徘徊していることもあるので、念には念を入れておいたほうがいい。


 そう言えば外出時に着用するヘルメットには、いつの間にかイヌ耳ネコ耳ウサ耳一角獣の細工が施されていた。暇を見つけて姫ちゃんと乙葉ちゃんの二人でフェルトと綿を使って作ったそうだ。

 それを初めて見た時の椿ちゃんが無表情のままお茶を噴出していたけど、一角獣はまんざらでもなさそうだった。


 そして私と椿ちゃん、姫ちゃんが手に入れた妹の力ギフトと名付けた不思議な力。

 なぜ乙葉ちゃんには兆候が現れていないのかなど、この力についてはまだよくわからない事のほうが多いけれど、少しでも生存確率を高めるために力の探求に怠りはなかった。


 私の妹の力いものちからである発火能力パイロキネシスと言う力は、どうやら自分が念じた対象だけを燃やし尽くす力のようで、他にも自分で点けた火については離れていても火の様子が手に取るように感じられることもわかった。


 なので今は寮の周囲にかがり火をたいている。五十メートル位の距離内であれば火が消えたことも、誰かがかがり火に近づいたこともわかる。

 我ながら便利な能力を手に入れたと思うと同時に、寮生活の安全度が増したような気がして嬉しい。


 おや、そんなことを書いているうちに南東のかがり火に誰かが近づく反応があったみたいだ。

 ちょっと様子を見てこよう。


 いま見てきたけれど誰も居なかった。

 おかしいなぁ、確かに反応はあったのに。

 そういえば昨日


                             了

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終末は女子寮で… ~私、JKだけど目覚めた能力でゾンビもDQNもぶっとばすから!~ 王様もしくは仁家 @ousama99

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