山の神さまとおじさんと僕

 井斗村いとむらを見守るようにそびえ立つ真留山まるやまには『おじさん』が住んでいて、井斗村の人たちは毎年、順番で『おじさん』の世話をしていた。

 そして今年は、僕の家の番だった。


蓮太郎れんたろう、準備できた?」

「うん、まあ。ていうか、持っていくもの多くね?」

「うーん。でもこれ全部『おじさんノート』に書いてあるものだから」


 テーブルの上には、デリバリー用の黒くて大きいバッグ、甘納豆入りの赤飯、りんご、ビタミン入りのカステラ、いかめし、塩辛、バター、燻製たまご、カンカイ、マヨネーズ、一味とうがらし、黒いラベルの缶ビールと、新品の歯ブラシ、歯みがき粉、T字カミソリなどが置かれていた。


「これは?」

「コンパクトミラーよ」


 白い真四角のフタを開けると、確かにそれは鏡で、そこには洗面所でいつも見ている僕の顔があった。


「はい、どんどんバッグに入れて、さっさと行こうね。真留山の『おじさん』の家までの地図は、そのノートに書いてあるから」

「地図、雑!」


 ノートには山っぽい絵があって、山の真ん中に縦に二つ鳥居のマークがあって、そのななめ右上に赤い丸が描いてあるだけだった。


「ねえ、道に迷うよね、これ?」

「一つ目の鳥居までは道があるし、鳥居をくぐったあとは行けばわかるって、去年行った佐藤さんは言ってたわ」

「『おじさん』って、どんな人?」

「私も会ったことがないから、わかんないけれど。会えばわかるみたいよ」

「母さんも、一緒に行かない?」

「女は山に入っちゃダメなのよ。はい、いってらっしゃい!」



 僕は家を出ると自転車に乗って、真留山に向かって走り始める。真留山の山道の入り口あたりはほぼ田んぼで、米の収穫が終わった後の田んぼには、残された稲の根本が点線のようにきれいに並んでいる。今しか見られない景色だよなあと、僕は思う。土と、刈られた稲と、田んぼを区切るように生えた雑草、真っ直ぐなコンクリートの道路、真留山と、青い空だけがあった。

 山道の入り口の手前で、自転車を停める。ここから一つ目の鳥居までは砂利で急な坂道だから、歩いて登るしかなかった。

 赤飯や缶ビールが入ったデリバリーバッグを背負って十五分ほど坂を登ると、一つ目の鳥居に着いた。



 一つ目の鳥居をくぐって直ぐに、後ろから「ねえ」と声をかけられた。誰かと思って振り返ると、さっき通った鳥居の下に、白いもこもこのカーディガンにレースのワンピースを着た、幼なじみの沢田茉莉依さわだまりいが立っていた。


「なんだ、マリーかよ」

「なんだって、なによ」

「別に。なんでもないよ」

「なんでもあるよね? そんな大きな荷物を背負って、どこにいくのよ?」

「『おじさん』のところだよ。今年は僕の家の番だから」

「ふうん、そうなんだ」

「じゃあな」

「ねえ、私も一緒に行く」

「えええ、来るなよ」

「いいじゃん。早く行こう」


 マリーは走り出すと、あっという間に僕を追い抜いて、先へ行った。


「ちょ、待てって!」

「急いでいるんでしょう?」

「そうだけど!」


 一つ目の鳥居の先は、学校の体育館くらいの広場になっていた。僕たちが来た道以外は広場を囲うように笹が生い茂っていて、どこに二つ目の鳥居に繋がる道があるのかわからなかった。だけどマリーは、少しだけ笹が少なくなっている細い獣道へ入ると、そのまま走って登っていってしまった。


「マリー、待ってよ!」

「早く。こっちだよ」


 足元がほとんど見えない獣道の坂道を、マリーはコンクリート道路を走る自転車のように軽やかに進んでいく。僕は汗だくになりながら、マリーの白いカーディガンを追って、坂道を駆け上がった。


 やっとマリーに追い付くと、僕たちは二つ目の鳥居のところまでもう来ていた。


「はあ、はあ。マリー、早いよ!」

「でも、早く着いたよ?」

「そう、だけど。ちょっと、休憩したい」

「あそこ、座れる場所があるよ。行こう?」


 マリーが指した方向に、屋根のようなものが見えた。ふたりでそこまで行くと、それは小さなほこらで、祠の前にある階段に僕たちは座った。


「あー、重かった!」


 僕は背負っていたバッグを下ろしてフタを開ける。バッグの中に入っているものはほとんど『おじさん』へ渡すものだけど、自分用にペットボトルのお茶を入れておいた。二本あったので、一本をマリーに渡した。


「ありがとう。ほかに何を持ってきたの?」

「えっと、赤飯とか、ビールとか」


 僕はバッグをマリーの隣に置いて、フタを大きく開けた。ここまで背負って走ってきたけれど、中の荷物はそんなに崩れていなかった。僕がバッグに放り込んだコンパクトミラーも、ヒビひとつ入っていなかった。


「「あっ」」


 コンパクトミラーに映っているのは、いつも見ている僕の顔と。

 もうひとつ、僕の知らない、枯れ木のように痩せ細ったお婆さんの顔があった。


「え?」


 おそるおそる、顔を上げて、マリーを見る。

 僕の幼なじみの、僕が知っているマリーの顔が、粘土が崩れていくように、全く知らない、白い着物を着た、皺だらけのお婆さんになった。


「えっ」

「見たな」

「いや、ごめん!」


 そう言いながら、僕はすぐ立ち上がって、そのまま走って逃げていた。全身がぞわぞわしていて、鳥肌が立って、なんともいえない気持ち悪さとこわさから、いてもたってもいられなかった。


「待ちな!」


 その声はもうマリーのものではなく、地鳴りのようにとても低い声だった。

 僕は二つ目の鳥居の場所まですぐに戻って来れたけれど、そこから先はどこも笹で覆われていて、焦ってることもあって、来た道が全然わからなかった。


「待ちなあ!」


  白い着物のお婆さんは、まるで犬のように両手両足で走ってきて、僕に迫ってきていた。


「ゆるさんゆるさんゆるさんゆるさん! この姿を見たお前を、絶対にゆるさん!」


 髪を振り乱し、血走った目を見開いて、裂けたように大きい口から唾を吐き散らすお婆さんは、黒ずんだ細い指で、僕に掴みかかろうとした。


「おい、こっちだ!」


 笹の向こうから、『おじさん』の声が聞こえた。

 僕は反射的に、その声の方に向かって走り出した。


「こっちだ! 早く来い!」


『おじさん』の声はとても低くいのに、僕に真っ直ぐ届いた。


 あっという間に一つ目の鳥居が見える広場に戻ってきた。

 直感で、あの鳥居のところまで戻らなきゃと思ったのに。山道を走って登ったり下りたりしたせいで、僕の足はもう限界で、あと一歩のところで転んでしまった。


 ジャッ、ジャッ、ジャッっと、犬が走って追いかけてくるような音が、僕のすぐ背後まで近づいている。


 やばいやばいやばいやばいやばい。


 そう思いながら泣きそうになっていた、そのとき。


「おーい、レディがそんな格好じゃ、あまりにはしたなくねえか?」


 僕の目と鼻の先には男の人の汚れたブーツがあって、頭の上では『おじさん』の声がしていた。


 すると僕の背後のこわい気配や音がなくなって、


「もう、どこにいってたのよ! プンプン!」と、小さい女の子のようなかわいい声が聞こえてきた。


「悪ぃ。ちょっと野暮用でな」

「なによ、野暮用って。まさか、浮気じゃないでしょうね?」

「こんなめんこい奴と一緒にいるっていうのにか? 安心しろ。俺は約束した通り、お前のことしか見ていないからよ。愛してるぜ、ハニー」

「な、なによなによ! バカ!」

「ははっ。照れてるお前も、めんこいぜ」


 僕にはなにがどうなっているのかわからないけれど。

 目の前のブーツの先が、くいっと動いて、鳥居の方を向いた。


「さあ、俺たちの家に帰って、飯を食おうぜ。今夜はご馳走だぞ」

「あたしの好きな、カステラもあるかしら?」

「おう、あるぜ」

「じゃあ、早く帰りましょ!」

「わかったわかった」


『おじさん』のブーツが僕の体を跨いでいった。

 僕は地面に這いつくばったまま、ほふく前進で急いで、鳥居をくぐった。

 あがった息と鳥肌が落ち着いてから振り返ると、鳥居の先にはもう誰もいなかった。

 自分の自転車に戻ると、全速力で家に帰った。



***



「ただいま……」

「おかえりなさい。あらら。お風呂、先に入っちゃいなさい」

「うん」


 玄関からまっすぐ脱衣所に行くと、土で汚れた服を脱ぎ捨て、さっと体と頭を洗ってすぐにお湯に入った。


 お風呂から上がった後は、母さんが用意してくれていた服に着替えて、洗面所のドライヤーで髪を乾かす。洗面所の鏡に映った僕の顔は、いつもより少し大人に見えた。


 洗面所から台所に行くと、マリーが母さんの隣に立っていた。


「あ、マリーちゃん遊びに来てるから」

「蓮太郎、『おじさん』のところに行ったんだって? おつかれー」


 僕はマリーの腕を掴んで、洗面所の鏡の前に立たせた。


「え、ちょ、なになに蓮太郎?」

「マリーだ……」

「え、なんなの?」

「本物じゃん……」

「は? 意味わかんないんだけど」


 僕の手が掴んでいるマリーの腕は、柔らかく温かくて、僕はすごくホッとした。


「なんかさ、大丈夫、蓮太郎?」

「大丈夫……たぶん」

「大丈夫には、見えないけど」


 マリーの腕を掴んでいる僕の手に、マリーの手が重なった。しっとりと吸い付くようなその手が、優しく僕の手包む。


「まあ、私がいるから、大丈夫だよ」

「……うん。そうだな」

「おかえり、蓮太郎」

「ただいま、マリー」


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さっきの夢なら丸めて食べた 春木のん @Haruki_Non

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