カルキノスを偲んで

カルキノスを偲んで


 カルキノスの話があまりに酷すぎて、蟹を見るたび偲んでしまう。水槽の中にいるこの蟹もあの蟹も、ヘラクレスのような大男に踏まれて死んでしまったら、カルキノスのように天に上げられ永久に飾られてしまうのだろうか。

 そんな空想をしていると、後ろから低く静かな声が響いた。

「カミヤさんって、蟹が好きなんですか?」

「はい。蟹って、おいしいですよね」

「あっ、食べるほうか」

「えっ。あの、すみません。ハヤシさんも、蟹がお好きですか?」

「蟹の足が動いているところを見ているのが好きかな。ゆっくりだけど、一生懸命だなあって。あと口のところとかも」

「へえ、そうなんですね」

 私は食べること以外で、蟹への興味がまったく無かった。でも星座占いをきっかけに、蟹座の性格や相性をたくさん調べた。ついでに、蟹座の由来も調べた。

 結果から言えば、蟹座のハヤシさんと私の相性は、性格も体も良い方だった。平日の夜に水族館をブラブラして、ホテルのレストランとバーで食事と酒を嗜んで、そのままそのホテルにお泊りして、翌朝にホテルのエントランスで別れるのがお決まりのデートコースだった。ハヤシさんはサービス業の営業で、土日は休みじゃないと聞いていた。私もサービス業のパートで、土日はシフトが入っているから、平日の方が都合が良かった。ハヤシさんはいつもスーツ姿だった。お酒が回ってくると、ワイシャツの第一ボタン外してネクタイをゆるめる。その姿を月に一回見るのが、私の楽しみだった。


「やばいやつじゃん」

「そうなの?」

 久しぶりに中学時代の友人と遊んだ日。最近の互いの恋バナをしていたら、かなり強い口調で友人は私に詰め寄った。

「ちなみに聞くけど、相手の家行ったことある? 住所は知ってる?」

「ハヤシさんの家は、車で片道一時間半くらい先の街だから、行ったことは無い」

「クリスマスとか誕生日とか、彼氏と一緒に過ごしたことある?」

「クリスマスは、お互いサービス業だから仕事だよね。誕生日は、その前後の平日にデートしたときにホテルでお祝いした」

「彼氏と結婚の予定は?」

「できたらいいねって。でもお互いまだ仕事が忙しいから、すぐには無理だねって」

「もし彼氏と結婚したら子どもは?」

「子どもは考えていないって」

「カミヤは?」

「私は、まあ。子ども、産んでみたい、かな。いたら、かわいいと思う。でも、いらないって言われたら」

「でも、なんて言ってられないんだよ。カミヤ、私らもう、三十になるよ。今の彼氏に、結婚しない子どもいらないって言われてさ。もし何年後かに別れたとき、彼氏はほかの女とまた生きられるけど、カミヤは? カミヤが子どもが欲しくて子どもが産める時間は、過ぎたら取り戻しができないんだよ」

「でも、結婚も子どもも一人じゃできないし」

「だからだよ。カミヤは子どもがほしい。彼氏はいらない。じゃあ二人はもう、すでに、同じ未来を向いていないんだって」

「えー」


 そんな友人の忠告から数ヶ月後。私はハヤシさんと別れた。

 きっかけは、お決まりのデート中に鳴ったスマホだった。ハヤシさんはシャワー中。深夜零時。登録名が無い電話番号。つい、スマホを持ち上げてしまった。ハヤシさんのスマホは、持ち上げると自動で電話機能が開始になるものだった。

「パパ?」と小さな子の声が、スマホからホテルの部屋の中に響く。

 私は何も答えられなかった。息を押し殺した。通話の切り方を思い出せなかった。ベッドの上ににスマホを落として、それから自分の荷物をかき集めてホテルを出た。


 ギリシャ神話に出てくるゼウスという神様は、浮気ばかりしていたらしい。妻のヘラは、ゼウスが浮気した女やその子に嫌がらせをしたという。ヘラクレスはゼウスの愛人の子どもで、生まれたときにヘラから二匹の蛇を送りこまれ殺されそうになったとか。

 頭の中がからっぽにして、天いっぱいに広がる星の神話だけを頭の中につめこんで、ほかの事はなにも考えたくなかった。


 それから、ハヤシさんに会わなくなった。平日の夜のお決まりのデートの誘いは、断っていると来なくなった。深夜に「パパ?」と電話してきた小さな子とハヤシさんの関係はわからないままだったけど、知りたくないから聞かなかった。

 それから、ハヤシさんに会わなくなった。平日の夜のお決まりのデートの誘いは、断っていると来なくなった。深夜に「パパ?」と電話してきた小さな子とハヤシさんの関係はわからないままだったけど、知りたくないから聞かなかった。

 それからしばらく経った、土曜の夜。仕事が終わって外に出ると、オリオン座が夜空に浮かんでいた。小学の理科の授業で習った『夏の星座はさそり座、冬の星座はオリオン座、ずっとあるのは北極星』を思い出した。

 オリオン座を見えると、もうすぐ冬が来るんだと実感する。冬が来たら、自分の誕生日も来る。誕生日が来たら、私は三十になる。好きな人の子どもを産みたいという夢は、あと十年余りで叶わなくなる。

 頭の中がぐるぐる回る。北極星を中心に、星が回るように。歳月が流れれば、季節も巡る。同じ季節が来ても、同じ時間は無い。過ぎ去った時は戻らない。今だって止まらない。目から零れ落ちる涙のように止まらない。戻らない。幸せだと思っていた時間も、好きだと思っていた人も、すべて泡沫の夢だったのだと、私はようやく理解した。


 残りわずかの二十代。夢からさめた私は、真面目に婚活を始めた。最低限の条件は、子どもが欲しくて、一緒に育てられる人。あと、誠実な人。

 もし浮気をしたら、ヘラクレスに踏まれて死んだ蟹のカルキノス以上の酷い伝説をつくって、一生みんなに晒されてしまえばいいと思う。

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