二章 『穏やかな煉獄』 ③

 昼食を終えた頃、ベンネが私達の部屋へとやって来た。

 すこし気後れした表情で扉の前に立ち尽くす彼女を、エリス様は屈託の無い笑顔で招き入れた。

「さっ、座って?」

 簡易ベッドを指さし、二人で並んで腰かける。積る話もあるだろうと、私は一旦部屋を出る事にした。

 ただ嵐が止むまで思考を止めて、のんびりしている訳には行かない。

 出来る限り、旅に有益となる情報は仕入れておかなければ。

 そう考えて廊下を歩き始めたまでは良かったものの、中々誰とも出会えなかった。確かに両側の扉の向こうには人の気配があるが、出てくる気配は無い。

 ようやく見つけた住人も、私の姿が視界に入ると、そそくさと部屋に戻ってしまった。

「中々、上手く行きませんね……」

 やはり私の容姿は異端と取られるのかもしれない。

 仕方なくシェルターの散策へと目的を切り替えて、外周を巡る様に廊下を進む。

 二階を見て回るのには、三十分も掛らなかった。廊下と扉が延々と続く代わり映えの無い景色に、方向感覚が狂ってしまいそうになる。

 続いて、階段を下って地下三階へ。見回ると言っても、三階は各種の機器で大半が埋まっているので移動できる場所は多くない。巨大な空調管理システムから、ろ過装置に至るまで、数多くの機器が轟々とその身を揺らして、頭上に住まう人々の生活を辛うじて支えている。

「でも、整備はされてないみたいですね」

 整備どころか、掃除すら満足に行き届いて居ない様子だ。表面的には綺麗に見えるそれも、少し身を屈めて窪みなどを探ってみれば、薄く埃が積っているのが分かる。

 やはりこのシェルターには、整備技師が不在の様だ。今は何の問題も無く稼働してはいるが、それも十年、十五年となれば分からない。

「……それよりも先に、食料が尽きそうですが」

 まだ、食糧庫を発見できていない。地下の機械類を冷ます冷却室装置の付近に併設されていると当たりを付けて来たのだが、十数分歩いてもお目当てのそれにぶつからない。

 更に五分ほど進んでようやく、食料庫らしき扉を発見する。

 扉の前には銃を構えた門番が四人待機しているので、恐らく間違いないだろう。

 私が近寄ると、彼らは露骨に不審そうな表情で銃口を向けて来た。

「シェルターの中を見て回っていたら、迷ってしまって」

 私は手を上げて、中の物を取る気は無いと意志表示しつつ立ち止まった。

 彼らに階段の位置を聞きつつも、扉の大きさとシェルターの大きさから、倉庫内部の広さを算出する。続いて中にぎっしりと食料が備蓄されていたと仮定し、避難している人数と照らし合わせる。

「お手数おかけしました、お仕事頑張ってください」

 私は感謝と労いの言葉もそこそこに踵を返す。

 倉庫はシェルター地下三階部分の南奥三分の一を占める形で居座っている。それだけの大きさがあっても、恐らく持って十年。

 私は教えられたルートを辿って一階に戻り、改めて設備の見学を再会する。一階部分は三分の二が居住スペースで埋まっているが、階段を上って直ぐ脇には広めの休憩所があった。どうやら、そこで毎日の食事が支給されるらしい。

 他にも幾つかレクリエーションルームらしき大広間があったが、どこも閑散としていて人の姿は少ない。声をかけてみても、まるで夢うつつの様な緩慢な返事が返ってくるばかりで、とうてい会話が成立する状態では無かった。

 私は早々に対話を諦めて、散策を続行する。

「食料や環境が持っても、人の方が……」

 既に人々の疲労はピークを越え、心の消耗が進行している。この狭い空間で出来る事は、自分達の部屋に閉じ籠る事しか無いからだろう。

 大きな収穫も無く部屋に戻ると、エリス様達の楽しげな会話が耳に飛び込んできた。

 ジュゼは明るく振る舞っているが、その裏では相当の苦労をしているに違いない。

 私は対面のベッドに腰を下ろし、悲惨な現状に黙りこむ以外、出来なかった。

 勿論、此処から出て行く私達が心配するような事ではないのかもしれない。しかし、どうにかならないものかと、思案せずには居られなかった。

 各地に作られたシェルターは、エリス様の両親を主とする研究チームの発案で建造が始まった。しかし様々なしがらみによって、このシェルターは不完全なまま建設が進められたのだろう。

 本当は、皆のストレスを発散させる為の設備や、僅かながらでも自給自足が可能な設備が必要なのだが、ここにはそれが抜け落ちている。

 秩序が保たれているのが、せめてもの救いだろうか。

 状況が状況ならば、暴動が起こっても不思議ではないが、ここに住まう人々は、その気力すら失くしてしまっているのだ。

 与えられるがまま備蓄の食料を貪り、自室に籠って抜け殻の様に暮らしている。

 生きている様に見えて、死んでいる。このシェルターは、緩やかな死を待つ棺だ。

 運営している一部の人間を除いて、管理される側、住人の殆どは抜け殻同然の状態だ。

 ベンネの様な若い世代は辛うじて自我を残しているとはいえ、状況が変わらなければいつか擦り切れてしまうだろう。

「どうしたの、ジュゼ? 怖い顔してる……」

「少し、考え事をしていただけです。なんでもありません」

「そう……。なら良いんだど」

 エリス様はベンネとの話を中断して、私の顔を覗き込んでいた。

 何でもないと慌てて両手を振り、「調子が悪いのかもしれません」と曖昧に誤魔化した。その返答が不味かったのか、エリス様は心配そうに眉を曲げ、ベンネに向き直る。

「ごめんね、ジュゼの体調が悪いみたいだから、また後で」

「うん。私も長居しちゃってごめんね?」

 そうしてエリス様が彼女を送りだした後、私は大きく頭を下げる。

「申し訳ありません」

「ううん、いいの。どこかで止めるところがないと、ずっと話し込んじゃってたと思うから」

 彼女はケロリとした表情で言ってのけたが、言葉の端には落胆の色が滲んでいた。

 私は大人しく体をベッドに横たえて、低い天井を見る。思考を整理する時間が必要だった。

 エリス様も久々の会話に満足した様子で、鼻歌交じりにクマの縫いぐるみを包んでいたローブを解いて、テディーベアをぎゅっと抱きしめ、ベッドに寝転がる。

 二時間ほど、仰向けになっていただろうか。扉の外が、にわかに騒がしくなった。

 どうやら、食事の配給の時間らしい。

 私が体を起こすと、エリス様は横になったまま顔だけを私の方へ向けた。

「何処行くの?」

「少し、供給の様子を見てきます。何か、外の情報を得られるかもしれませんし」

「そっか。それじゃ、お留守番してるね?」

「はい、お願いします」

 私は大きく頭を下げて、行って参りますと部屋を出る。あれほど静かだったシェルター内は今、食事の配給を待つ人々が長い列を成して活気づいていた。とはいえ、其々の表情に笑顔は無い。ただ与えられる食事を求め、仕方なく並んでいるという感じだ。

「あの、ちょっとよろしいですか?」

 勇気を振り絞って列に並んだ三十代の女性に声をかける。彼女はゆっくりと私の声に振り返り、感情の殆ど籠らない視線で私を見据えた。返答が無い為、私は次の言葉を発するタイミングを掴みかね、しかし意を決して一歩前に出る。

「外の様子とか、分かりませんか?」

「……外? 部屋の?」

「いえ、シェルターの外の事なのですが」

 彼女は視線を一度天上に向けて数秒、僅かに首を傾げつつ私に視線を戻した。

「分からないわね。もう二年近く見てないんじゃないかしら」

「二年という事は、避難してきてから何度か外に?」

 彼女は問いに目を見開き、一拍の間を置いた後に首を振った。

「ここにずっといると、月日の感覚が薄くなるから。嫌だわ、もう何年経ったのかしら?」

「およそ四年の筈ですけど」

「……四年、ふぅん。四年ね。早いものね。……いえ、長いのかしら」

 既に彼女の意識は私に向いていない。ぶつぶつと独り言を始めた彼女に、「ありがとうございました」と小さく会釈をしてその場を離れる。

 やはり、誰もが重症だ。あるいは、話しかけた相手を間違ったのだろうか。

 半ば逃避に等しい甘い考えを胸に抱き、列を作る人々を捕まえて話しかける。

 しかし、私の求める答えは得られなかった。話を聞いて受け答えしてくれる人はまだマシな方で、私を一瞥しただけで完全に無視する人も少なくない。

「やっぱり、駄目ですね」

 一旦列から離れてよく観察してみれば、並んだ人々の間にも会話は殆ど無かった。部屋が隣り合っている筈の人達でさえ互いに視線を合わせる事すらなく、足元を見て沈黙を貫いている。

「話し掛ける相手を選ばないと」

 私は適当に声をかけるのを諦め、珍しく談笑が成立している四十代半ばの女性二人組を見つけて声をかけた。

「あの、少しお聞きしたい事が……」

「あら、何かしら?」

 ――よかった、話が通じる。

 私は僅かな期待と安堵を内包しつつ、二人に外の環境について尋ねる。

「ごめんなさいね、ここに避難してきてから外に出た事は無いの。ほら、外って凄い砂嵐らしいじゃない? 出た人は居ないんじゃないかしら」

「そうね。外に出たって話は聞いた事無いわね。それより、あなた見ない顔だけど外から来たの?」

「……ええ、まぁ」

「大変だったでしょう。シェルター暮らしも楽じゃないけど、頑張ってね?」

「そうそう、皆辛気臭い顔しちゃってね、こっちまで気が滅入っちゃうわよ」

「本当に、困っちゃうわよね」

 二人は廊下中に響き渡る大声で笑う。周囲が怪訝な表情をしたが、二人はまったくお構いなしに話を続ける。

「大体、この配給方法もいい加減見直してほしいわよ」

「本当よ。みんな一列に並ばされて、足が疲れちゃう」

「息もつまるし最低よね。貴方もそう思わないかしら?」

「……私は」

「思うわよね。当然よ!」

 徐々に険悪な色を増していく周囲の気配に、私は堪らず頭を下げて早々に二人から距離を取った。二人は未だ自分達の会話に盛り上がっていて、私の事はどうでもいいらしかった。やはり、彼女らも何処か頭のネジが飛んでしまっている。そう考えずにはいられない。

 いや、もしかすると私が普通では無いのかもしれない。

「……いいえ、私は正常です」

 湧き上がって来た疑念を振り払う様に、私は一旦列から離れて、別のルートで受け渡し場所へと向かう。食料の受け渡しを終えた後の人なら、じっくりと話が聞けるかもしれないと思ったのだ。

 結果から言うなら、その考えは大失敗だった。食料を受け取った人々は一様に受け取ったパックを抱え、俯き加減でそそくさと部屋に戻って行く。

 私は呼びかけるタイミングを掴めず、呼びかけに立ち止まる人は皆無だった。

 こうして私が手を拱いている間に配給作業は終了。

 閑散とした廊下に取り残される事になった。

「随分と熱心ですね」

 茫然と立ち尽くす私の背中に、重苦しい声がかけられた。振り返ると、そこには厳めしい表情で私を睨むボドレの姿があった。

「私は――」

「困るんですよ。変に嗅ぎまわられるのは」

「別に、嗅ぎ回っている訳じゃありません。私はただ、周辺の状況を――」

「それが困るのですよ」

「困る?」

 ボドレは深い憤りを露わに、足を踏み鳴らす。

「皆、外の事は忘れようと努力している。外には辛い思い出しかない。シェルターに守られて安全が保障されている。この事実だけ、あればいいのですよ」

「そんな、忘れるなんて……」

「どうせ、もう外には出られない。もう二度と、この星が緑が豊かだった頃には戻らない。なら、考えるだけ無駄だ」

「ですが、今の状況を見て出来る事がある筈です」

「もう遅い。今、このシェルター内は『何もしない、何も考えない』事で均衡が保たれている。本来なら、閉鎖された狭い空間に押し込められている事によるストレスで暴動やいさかいが起きてもおかしくない。奇跡的なのですよ。こうして普通が保たれているのは」

 ある意味で、正論だった。それに反論する事が無意味である事も知っていた。

 しかし――。

「私には、これが普通だとは思えません」

「それは貴方の価値観だ。ここの普通は、こう言う事です。ですから、平和を乱す様な詮索せんさくは控えて下さい」

「でもっ!」

「ルールを守れないなら、今すぐに出て行って貰う事になりますよ?」

 脅し文句に、私はそれ以上の言葉を飲み込む。この男なら間違いなく、言った事を寸分違わず実行するだろう。エリス様の為に、引き下がる他になかった。

「出過ぎた事を言いました。申し訳ありません」

「賢明です。あなたが何もしなければ、私達は良き隣人となれるでしょうな」

「そう……ですね」

 彼はそれで満足したとばかりに踵を返す。

 私はその背中を睨むように見送った後、部屋へと進路を切った。

 やっぱり、ここは狂い始めている。

 そうは思うものの、ボドレが言った事にも一理ある。下手な行動に出れば、シェルター全体を危険に晒す事になるだろう。

 心臓に針が刺さった様な捉え所の無い違和感。納得できない、割り切れない感覚。

「私は、エリス様の事だけを考えないと」

 他者にかまけている余裕は無い。嵐が止むまでに準備を済ませなければ。

 ――全ては、エリス様の為に。

 己の歩幅が大きく乱れている事に、その時の私は気付かなかった。



 翌日。

 嵐は幾分か勢力を弱めていたものの、出発するには不十分だと断定せざるを得なかった。

 早く出発したいという気持ちがあったが、エリス様を休ませる事が出来るならと考えを改める。何時でも出られるように支度は済ませてあるので急ぐ必要は無い。

 それでも二度目の荷物チェックを終え、出発に盤石の態勢は整っていた。

 今日もジュゼが部屋にやって来て、エリス様と楽しげに会話を弾ませている。

 しかし私達がシェルターを去った後、ベンネも近い将来には笑顔を無くしてしまうに違いない。それを分かっているが故に、私は純粋な気持ちで見守る事が出来ないで居た。

 ――出来る事なら、彼女も連れて行ってあげたい。

 土台、無理な話だった。何しろ、二人で旅するのにも心許無い装備なのだ。

「それじゃ、また後でねー」

 流石に、食事の時は彼女も自室に戻る。

 私達が食事を終えて、きっかり一時間後に彼女は再びやって来た。

 恐らく、部屋に居てもする事が無いのだろう。

 普通なら親にとがめられそうなものだが、彼女の両親もこのシェルターの空気に毒されて無反応に変わり果てているに違いない。

 その証拠に、エリス様が部屋に行きたいと言うと、彼女は決まって苦い表情をするのだ。

「部屋が狭いし、ちょっとお母さん達の調子も良くないから。もし風邪とかだったら、うつしちゃうと悪いし」

「そっか、それなら仕方ないよね」

 それが方便なのか、あるいは本当に何かの病気と思っているのだろうか。

 ついつい、そんな邪推をしてしまう。

 そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ、午後三時を回った頃。

 部屋の扉が、静かに二度ノックされた。

 話をしているエリス様達を横目に、私が扉の前に立つ。廊下にはボドレの側近らしき男が居て、彼を見た瞬間に要件は理解できた。

「嵐が止みましたか?」

 私の問いに、男は表情の乏しいままコクリと頷く。どうやら、出発の時が来たらしい。

 今から出発すると、一時間も経たずに夜になってしまうが、致し方ない。

「三十分後、扉を開けます」

「分かりました」

 私は振り返り、楽しそうに御喋りを続けている二人を一瞥する。

 彼女達の会話に割って入るのは心苦しいが、仕方がない。

 私が視線を廊下側に戻すと、伝令の男は既に踵を返して通路を戻り始めていた。

「まるで機械ね……」

 私は冗談にもならない言葉を吐き捨てて扉を閉め、改めて二人に向き直る。

「エリス様」

「なぁに?」

「三十分後に出発です。準備を」

 きっと、私達の会話を見て薄々は気付いていたのだろう。エリス様は露骨に表情を強張らせ、しかし気丈に笑顔を取り繕って頷くと、ベンネに向き直った。

 打ち消しようの無い、気不味い沈黙があった。

「もう、お別れみたい」

「……そう」

 彼女は落胆を隠そうともせず、「仕方ないよね」とエリス様の手を取った。

「私、エリスと会えて嬉しかった。もっともっと、お話したい事はあったけど、でも……楽しかったよ」

「ベンネ、私は……」

「私は一生忘れないよ。この日のこと。エリスと話した事も、全部」

 ――ああ、分かっているんだ。

 私は理解する。彼女は自分自身がこの後どうなってしまうのか知っているのだ。ここの住人達の様に、感情を失って行く事を。

「ベンネ、貴方も一緒に……来ない?」

「エリス様!」

 私はたまらず叫ぶ。

 しかし、ベンネは私が口を挟むとほぼ同時に首を振っていた。

「ううん、私は此処でいいの。私だけ行くなんて出来ない。お父さんも、お母さんも、おばあちゃんだってここに居る。置いていける筈無いよ」

「どうしても?」

「うん。だから、私は此処でエリスを応援してるよ。ずっと、ずっと。エリスが辿りつけるって信じて、祈ってるから」

 ベンネの言葉には嗚咽が混じり、目に溜まった涙が今にも零れ落ちようとしていた。

「だから、私の事も忘れないで?」

「忘れない。忘れる筈なんかない。私達、友達だから。絶対に!」

「ありがとう。私も、エリスの友達で良かった」

 堪え切れない涙がベンネの頬を伝う。エリス様の瞳からも大粒の涙が零れ落ちた。

 二人の友情を確かめ合う様に、涙の筋が途切れることなく頬を伝い、顎下の柔らかい部分にしばし溜まってから床に落ちて混じり合った。

 嗚咽がしばらく続き、それも徐々に掠れ始めた頃。

 二人は互いの涙を拭い合って立ち上がる。そこにはもう湿っぽい色は無く、互いの健闘を称え合う清々しい笑顔があった。

「ベンネ、これ貰ってくれる……?」

 エリス様は小型の折り畳みナイフを取り出して服のボタンを千切り、彼女に手渡した。更に旅支度の中から、小さな乾燥肉の袋を取り出し、押し付ける様に手渡す。ベンネは袋の中身を見て慌てて押し返そうとしたが、エリス様はその優しく手を包み込んだ。

「私にはこんな事しか出来ないけれど。でも、これがあればきっと、私達は凄く近くに居られるから」

「ありがとう。でも、貰ってばかりじゃ悪いから」

 ベンネは小さく頷き、「ちょっと待ってて」と部屋を飛び出す。息を切らして戻って来た彼女の手には、青い刺繍が鮮やかな小さなワッペンが握られていた。

 それを見た、エリス様の表情が驚きに塗り替えられる。

「これって、もしかして」

「うん。学校の授業で作ったものだよ。エリスも、これで私を思い出してくれる?」

 エリス様は何度も頷き、愛おしげにワッペンを抱き締める。

 そこには、私の知らない二人の思い出が詰まっているのだろう。

「大切にする。絶対!」

「よかった。それじゃ、私行くね。見送りに行くと邪魔になっちゃうし」

 ベンネは私に会釈をして、踵を返す。

 エリス様はその背中に何か声をかけようとして、しかし無言でそれを見送った。永遠の別れになるが故に、互いに「またね」という言葉は使えない。そして、「さよなら」という言葉は二人をより遠く引き離してしまう気がしたのだろう。

 静寂が戻った部屋の中で、私はエリス様に向き直った。

「さあ、支度を。時間がありません」

「……勝手にあげた事、怒らないの?」

「怒りません。エリス様ならそうすると思ってましたから」

 出発予定まで十分を切っている。私は言葉少なくエリス様の支度を促し、ワッペンはクマのぬいぐるみと一緒に包む事にした。時間一杯を使って入念に支度を済ませ、地上に続く階段へと向かう。

 既にボドレは側近の男二人と階段前に待機していて、私達の姿を見て忌々しそうな視線を投げかけて来た。

 私はそれを正面から受け止め、大きく頭を下げる。

「短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございます」

「礼には及ばない。この先の道中、せいぜい気を付けて進んで下さい。無事に目的地へ辿りつける事を祈っていますよ」

「ありがとうございます。貴方達もご健勝を」

 感情の一切籠らない社交辞令を土産に、私達は地上への螺旋階段を登る。

 分厚い扉の前に立つと、ボドレ達が三歩後ろに下がり、遠隔で扉を操作する。重い扉がゆっくりと開き、砂を孕んだゆるやかな風が体を包み込んだ。

 私は最後に後ろを振り返って一礼し、エリス様の手をしっかりと繋ぎ、握り締める。

「行きましょう」

「うん」

 決意を新たに、私達はシェルターを後にした。

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