一章 『始まりの場所』 ③


「――決めたわ」

「……?」

 朝食の席で、エリス様は唐突にそう言った。

 私は何の事か分からず、瞳を覗き込んで首を傾げる。

「ここから出ましょう。お父さん達の居る……筈の、シェルターまで」

 覚悟はしていたつもりだったが、彼女の口から出た言葉に即答する事は出来なかった。

 私は一度目を伏せ、改めて彼女に視線を定める。

「早く着けて一週間の、険しい道程になります。途中で死んでしまうかもしれません」

「分かってる。それでも私は、行きたいの」

「決まった時間に起きる事も、三度の食事もろくに取れないですよ?」

「……分かってるわ」

「シャワーも浴びる事は出来ません。それどころか、綺麗な水も手に入りません」

 私の確認に、彼女は表情を渋くするのでもなく、確かにほほ笑んだ。

 予想外の事に、私の方が驚いて言葉を詰まらせてしまう。

「心配してくれてありがとう。それと、ジュゼの気持ちも良く解かった」

「お嬢様……」

「本当は、ここに残って欲しいんだよね?」

 やはり、即答できない。私はお嬢様に対して、嘘を付く事は出来ないから。

 だから、答えないという選択しか取れない。

「ここはとても過ごしやすいし、お父さん達は私が大切だから、私をここに残したのも十分に分かってる。それに、ジュゼにもとっても感謝してるよ。ずっとずっと、私の為に働いて、そばに居てくれるんだから」

 彼女の決意は本物だと確信する。彼女がテーブルの上できつく握りしめた手が、小刻みに震えていた。思いを口にするのは、とても辛く勇気のいる行為だ。

「でも、何時までもそれに甘えてちゃ駄目だと思うの。沢山の人が、苦しい思いをして死んだ。それなのに、私は何一つ不自由なんてせずに暮らしてる。ううん、ここに居たら暮らし続けるんだと思う。そうしたら、私はいつか辛い事なんて都合よく忘れて、自分に嘘をついて、死んでいくんじゃないかなって思うの」

 そんなのは嫌だと、エリスは俯く。

「私は知りたいの。お父さんとお母さんが生きているのかどうか。それと、二人がいろんな場所に作ったシェルターで、どんな人達が、どんな風に暮らしているのか……」

 この大災害を予見した科学者の娘としての覚悟を、彼女は私の及ばない所で固めていたのだ。

 勝手に理由を付け、ここに留まる事を望んでいた私が間違っていた。

「……出過ぎた事を聞きました。申し訳ありません」

「謝らないで。私の我儘わがままなんだから」

 何かを振り切った様な、曇りの無い笑顔。

 私は一瞬の間それに見惚みとれ、一拍遅れで頷く。

「出発は、この豪雨が収まった時にしましょう」

「そうね、もう時間が無いから」

「そうなると、今日から大忙しですね。荷造りもしないといけないですし」

 彼女が決意した事に、私は従うだけだ。それが地獄の道だったとしても、最後の最後まで彼女にしたがってみせる。それが、この家族の一員として認められた時に誓った事だから。

 少し浮ついた気持ちのまま朝食は終わり、本格的に倉庫部屋から旅支度一式を掘り起こす。この時ばかりは、掃除をおこたっていなくてよかったと痛感させられた。

 もしも放置していたなら、何処に何があるのかも分からず、必要なモノを揃えるのに半日以上の時間が必要だっただろう。

 倉庫部屋から掘り起こしたのは、防塵仕様の簡易テントと、大きめの水筒が二つ。

 そして、ゴーグルと防塵マスクだ。

 其々、散歩の時に使っているものより無骨で見た目は悪いが、性能は折り紙つきだ。

 この日の為に、大切に取っておいてよかった。

「なんだか、思ってたよりも大事だね」

「エリス様は、部屋でお待ち下さい」

「私も手伝うよ。外に出たら、自分の事は自分でしないと」

 やはり、彼女は強い。私は小さく頷き、一先ず掘り起こしたテントやマスクをリビングへと運んでもらった。そうして重たい荷物を共に掻きわけつつ、小物類を見繕っていく。

 私達が目指すのは、直線距離で五十七キロ離れた第二号シェルターだ。屋敷から目的地までの間には巨大な山々がそびえており、それを迂回うかいするルートを取る事になるので、実際の距離は未知数。最低でも七十キロを超えるのは間違いない。

 導き出されたルートで、稼働が確認されているシェルターは三つ。稼働していると言っても、あくまで作動中の信号が外部に発信されているだけで、実際に人が居るのか、正常に機能しているのかどうかは分からない。電波状況も悪く、内部との連絡も取れない。

 逆に、シグナルの無い場所が稼働している可能性もある。

 それを踏まえると、私達の目指す進路上には計四つのシェルターがある。

 最近の天候の荒れ具合から、嵐をやり過ごす為にシェルターに寄るのは必須だ。防塵テントも、嵐を前にして果たしてどれだけ有効か分からない。

 また、私達は沿岸部の気候しか知らないという不安もあった。

 全世界の気候が狂いに狂っている今、内陸部や山の近くでは果たしてどのような悪天候が待ち受けているのか想像すら出来ない。

 これらの装備で、果たして対応できるのかが大きな不安要因となっていた。

「考えても仕方ないよ。万全を尽くして、それで駄目なら仕方ないと思う」

 全ての事に備えられる様に、私の体が複数あればいいのにと思う。

 彼女を守り抜くには、私の存在は余りにちっぽけで脆弱だ。

 持って行く食料も選別しなければならなかった。

 流石に、バランスを考えて多様なモノを、と言う訳には行かない。半永久保存とはいえ、その大半が冷凍処理必須のものだ。持ち運びにかさばらず、常温で保存が効く食品となればおのずと種類は限られてしまう。

 水も問題だった。上手く立ち寄ったシェルターで補給出来ればいいが、それを当てにする事は出来ない。水はそれだけで大きなウェイトになるので、道中で過度の負担にならないギリギリの量を見極めなければならないだろう。

 粗方の道具を引きだしてリビングに戻り、本当に必要な用具等を重量も考慮して選別していく。

「ローブも、出来るだけ動きやすい素材の物に替えた方がいいですね」

「そうかな。お散歩用のでいいと思うけど?」

「駄目です。あれはあくまで天候が良い時の為の軽装ですから。シェルターを目指す以上、雷雨や砂嵐の中に投げ出されても、ある程度は凌げる様にもしないと」

 何かいい素材はあったかと、考えを巡らせる。分厚い生地では砂等を防げても、動きが鈍ってしまう。逆に薄すぎる生地では吹き付ける砂塵を防げない。

 エリス様に「考えすぎじゃない?」と心配されつつも、持ち出す道具を選別。

 次に地下倉庫に降りて、出発の際に持ち出す食料を一角に纏めた。

 普段なら五日分にも満たない量だが、それが私に持ち運べる限界だ。彼女には我慢を強いる事になるものの、耐えて貰う以外に他無い。

 その事を伝えるのは苦痛だったが、意外にも彼女は「覚悟は出来てるよ」と軽く頷いただけだった。

「何か持って行きたい物はありませんか?」

「えっと、リビングに飾ってる写真だけで、……あっ」

 彼女は何かを思い出したように、しかしそれを口にするかどうか迷っている様子で視線を外す。元より、彼女が何を持って行きたいと言っても反対するつもりなんてない。

 私は彼女の前に屈み込み、視線の高さを合わせる。

遠慮えんりょせずに言ってください」

「……クマの、ぬいぐるみ」

 それは彼女が心から大切にしている、両親から貰った誕生日プレゼントだ。

 旦那様方が消息を絶つ僅か二か月前。エリス様の九歳を祝う席で送られた、大切な宝物。彼女にとって、最後の誕生日プレゼントであり、両親の代わりに彼女の心の隙間を満たし続けてきた。

 全長四十センチの、少し大きめのぬいぐるみ。

 旅の道中、邪魔になるのは間違いない。

「勿論、良いですよ?」

「本当?」

 駄目と言える筈が無かった。彼女にとってこれは家族の一員であり、体の一部だ。

 きっぱり駄目だと告げるのが、真に正しい選択である事は百も承知。

 それを分かっていながら、愚かしくもエリス様の願いを聞き入れる。否定してしまえば、私が何の為に彼女に仕えて来たのか、その意義まで失ってしまう様な気がしたのだ。

 あるいは、端から私は諦めていたのかもしれない。

 シェルターに辿りつける筈が無いと。

「ありがとう!」

 彼女の笑顔と引き換えに、私は旅支度の中から重量を減らす計算を始める。幸い、テディーベアならそれほどの負荷にはならないだろう。内陸部は豪雨になる事はほぼない筈で、水を吸って重くなる危険性があるのは最初の数日間のみ。それさえ乗り切れれば、殆どかさを取る事も無いと、甘すぎる目測を立てる。

 結局、その一日は出発の準備ばかりに時間を取られてしまった。嵐が過ぎるのが明日かもしれない事を考えれば致し方ない。

 慌ただしい一日を跨ぎ、翌日を迎える。

 出来る事なら、もう少し気持ちに余裕を持って出発したいと考えていたのだが、天はそれを聞き入れたのか、はたまた予定調和だったのか。翌日も暗雲は晴れず、豪雨の代わりに湿った砂嵐を窓に叩きつけていた。

「この調子だと、明日には収まるかしら」

 ほぼ曇りガラスと化した窓の外の荒れようは、天候の見通しを立てろと言う方が無茶で、自然と嵐が去るのを待つしかない。

 流石に、このまま嵐が長引いて出発できない、なんて事は無いと思う反面、それも良いかと考えている自分が居た。そんな優柔不断さが態度に出ない様に、私は日課である掃除をいつもより入念に行う。

「……もうすぐ出て行くんだから、良いんじゃないの?」

「遠い国の言葉に『立つ鳥、後を濁さず』というものがあります。飛び立つ鳥は、飛び立った水面を汚さないという意味らしいですよ」

「だから、綺麗にするの?」

「はい。この屋敷を汚くしたまま出て行くなんて、私には耐えられませんから」

「私も、手伝う」

「いけません。早ければ明日には出発です。エリス様には旅の力を蓄えて頂かないと――」

「やらせてほしいの。私も、自分の暮らしたこの家を綺麗にしたい。駄目、かな?」

「……そういう事なら。お手伝い頂いてよろしいですか?」

 毎日、私の仕事を見ていただけの事はあり、彼女の手際は驚くほど良かった。

 二人で寝室をくまなく掃除し、最も汚れやすい玄関周りには掃除機をかける。窓も一つ一つ丁寧に磨きあげた。

 ほどよい達成感が全身を巡る頃には、エリス様の額にはうっすらと汗が滲んでいた。

「お風呂に入りましょう」

「うん。とっても綺麗になった気がする」

「エリス様のおかげです」

 脱衣所の操作パネルでボイラーを稼働させた後、一旦着替えを取りに二階へ。

 戻ってくる頃には、湯気を滾らせたお湯が湯船の中に滔々と注がれ始めていた。

 私はいつものようにエリス様の後ろに回り、服を脱がせる。

「今日が、最後のお風呂になるかもしれないのよね」

「……そうですね。ここで入る、最後のお風呂になるかもしれません」

 となれば、今日はより入念に体を洗わなければ。

 私が表情を固くしたのを見て、エリスが困った様な笑みを浮かべる。

「ほんと、ジュゼって真面目だよね」

「……そうでしょうか?」

「うん、とっても」

 自覚は無いので、首を捻って聞き返すことしか出来ない。比べる対象が周囲に存在しないし、これが普通だと思って今まで彼女に仕えて来たからだ。

 真面目。悪い響きではないけれど、固いイメージを受ける。

「良い意味で言ったのよ?」

 慌てて、エリス様はそう付け足した。

 私が真面目なら、彼女は天使だ。冗談ではなく、本当にそう思っている。

 ただ、彼女の笑顔が、優しさや気配りが、外の世界ではあだとなりかねない事を私は承知している。屋敷の中での常識は、外の世界では通用しないだろう。

 それを告げるべきか、告げないでいるべきか。彼女を浴室にエスコートする間も答えは出ず、遂には口にするタイミングを失ってしまっていた。

「ねぇ、ジュゼ……」

 己の体を洗っている最中に投げかけられたか細い声に、私は手を止めて振り返る。

 湯船に浸かった彼女はふちに両腕を預け、その上にあごを載せてもたれかかっていた。

「もし私が、途中で死んじゃうような事があったら――」

「エリス様っ!」

 強い口調で、その先を否定する。

「エリス様を守れなかった時が、私の死ぬ時です」

 きっぱりと宣言する。しかし、エリス様は首を振った。

「駄目よ。私が死んだとしても、ジュゼにはそのままで居て欲しいの。私なんて無視して、シェルターを目指して」

「そんな事……出来ません」

「お願い。私が生きた証を繋いで、届けて欲しいの。もしもお父さんやお母さんが生きているなら、私がそこを目指そうとした事を伝えて欲しい」

「私が、私が絶対にお嬢様を連れて行きます。絶対に!」

「分かってる。でも、もしもの時の為に、約束して?」

「……」

「これは命令でも何でも無いよ。私の我儘なお願い。ねぇ、約束してくれない?」

 シャワーの音だけが、浴室の中に響く。その音はまるで私が自分に課した強固な誓いを突き崩さんとしているようで、蛇口を閉めて音を完全に黙らせる。

 重たい静寂が濃密な湯気の霧と共に居座り、代わって天井からの水滴が、ときおり不愉快なリズムを浴室内に響かせた。

「お願いジュゼ、私に命令させないで。私に、家族で居させて」

「ですがっ……」

 こんな状況でなければ、彼女の発した『家族』という単語に私は感極まっていただろう。しかし、今はそれに感化されて、流されていい状況では無い。

 それでも――。

「わかり……ました。約束します」

 遂には、折れる――折れてしまった。

 いざとなれば、約束を破ればいい?

 とんでもない。エリス様との約束を破る事は、自分を否定する事と同義だ。

 こうなれば、何が何でも彼女を守り抜いて見せる。守り抜けばいいだけの話だ。

 生きて辿りついて、そして両親と再会した彼女の笑顔を見るのだ。

「ありがとう、ジュゼ」

 スポンジを握る手に力が入り、エリス様に見えない様に死角へと移動させる。

 醜く潰れたスポンジは、今しがた折れ曲がってしまった私の意志に違いなかった。



 本当は、もう少しだけ嵐が続いてくれればと思っていたが、日付が変わって深夜二時頃には三日間続いた嵐は嘘のように収まり、どんよりとした黄色い泥雲がゆっくりと空を流れていた。上々の出発日和になったと言えるだろう。

 窓の外を眺めつつ朝食の準備を進め、少し遅めにエリス様を起こす。彼女は既に状況を分かった様子で寝ぼけ眼を擦りつつ小さく頷いた。

「今日、だよね?」

「はい。まずは朝食を」

 言葉少なく一階へと降り、いつも以上に静かな朝食を終える。

 持って行くものの準備は既に四度のチェックを終えていた。

 これで洗い収めになる食器を丁寧に洗い上げ、素早く旅の支度にとりかかる。時間をかけ過ぎて天候が崩れては本末転倒だ。

 しかし、作業は散歩の時よりも丁寧かつ慎重に。

 まずはエリス様の長い髪を束ねて半ばで折り曲げてアップにし、崩れない様に特殊ビニールの袋に入れて固定する。

 次に一枚目のローブを着せて体を覆い、更に二枚目は一枚目の継ぎ目を隠す様に重ね、袖の余りを縛って調節する。はたから見ると、雨合羽のお化けの様だ。そして最後に、砂避けの分厚い布を着せて、全体にたるみが無いかチェックを行う。

 最後に、ゴーグルを少しきつめに装着し、肌に当たるゴム面を保護する為、布で周囲を覆った。私もエリス様に手伝って貰い、三枚重ねのローブを着込む。

「なんだか、少し動きにくい」

「これでも心許無いくらいですから、我慢してくださいね」

「うん、分かってる」

 マスクを付けて、ゴーグルと同じように布で周囲を覆う。

 いよいよ顔が分からなくなって、私達は小さく笑い合った。

「エリス様には、これをお願いします」

 彼女は素直に頷き、大きなリュックを背負った。

 見た目に反して、それほど重たい物は入れていない。緊急時の消毒液や包帯、乾パン等の出来るだけ軽い物を選んだ。

 そして彼女は最後に、ローブと同じ生地の布で包まれたテディーベアを両手に抱えた。

 私も食料と水筒が満載のリュックを背負い、玄関へと向かう。その後ろに、彼女が従った。

「それじゃ、行きますよ?」

「うん。一つ目の扉を潜る。まだ空気は部屋の中のそれで、少し窮屈なスペースに二人で収まった後、扉を閉める。

「……行ってきます」

 確かに、エリス様はそう呟いた。私は感傷にも似た気持ちを覚えつつ、声には出さず『行って参ります』と扉を閉めた。

 改めて彼女と視線を交わして、外に繋がる扉に手をかける。少しは躊躇するかと思ったものの、自分でも驚くほどすんなりとノブを回して外へ。

 砂の混じった緩やかな風が開いた扉の隙間から流れ込み、床の砂埃が僅かに捲き上がる。

 一歩一歩を確かめる慎重な足取りで外に出ると、目の前の景色が少しだけいつもと違って見えた。

 表扉を閉めて、いざ目指すシェルターの方角へと視線を定める。

 鍵はかけない。有り得ない事だけれど、もしも誰かが私達の住んでいた痕跡を発見したのなら、そこで生きながらえる事が出来たなら、それはそれで良いと思ったのだ。

「行きましょう、あの山の向こうまで」

「うん!」

 多くの不安とほんの僅かな希望を胸に、私達は過酷な一歩を踏み出した。

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