一章 『始まりの場所』 ②
夕食の支度をする間も、彼女の寂しそうな顔が何度も頭を過ぎり、外の凄まじい稲光の轟音や、バケツをひっくり返した様な雨の狂乱も意識の外だった。
地下の倉庫から持ち出した、半永久保存の冷凍パックの縁を切り、中から合成肉を取り出してレンジへ。
鍋には粉末牛乳の元を水で溶いた物を予め火にかけ、後にコーンスープの素を入れてかき混ぜる。調味料を数種類混ぜ合わせてデミグラスソースを作り、適度に解凍の済んだ肉をフライパンにかけて一気に焼き上げる。
「エリス様、夕食のお時間です」
料理を終えてエリスの部屋の扉をノックするが、返事が返って来ない。
これは本格的に拗ねてしまったのかと覚悟した後、扉がゆっくりと開かれた。
彼女の顔を見た瞬間、私は部屋の中で閉じ籠ってくれていた方が良かったとさえ思った。
先ほどお風呂に入ったばかりだというのに髪は乱雑に跳ね、目じりは泣き腫らされて赤く染まっている。口元はだらしなくへの字に歪められ、淀んだ青い瞳が私を虚ろに捉えた。
「……今行くわ」
「はい」
――私らしくない、短い返事を絞り出す。返事できただけでも行幸だったかもしれない。
エリスの後ろに従って歩きつつ、彼女の服に寄った
「いいわよ、どうせ見る人なんていないんだから」
「良くありません。この先、何があるか分かりませんし。日々の積み重ねが大切なのです」
酷な言葉だと承知しつつも、私は黙々と皺を正す。彼女は何も言わぬまま食卓に到着し、私が椅子を引くと素直に着席した。私はいつものように、彼女の対面の席に腰を下ろす。
ただのメイドが主人と同じ食卓につくなんて本来はあり得ない事だが、それがこの家のやり方だった。
こうして同じ食卓に着くようになったのは、私が屋敷に来てから一カ月と経たない頃。まだエリス様も幼く、旦那様方もほぼ毎日、食卓に顔を揃えていた時の事だ。
『――君も座りなさい。家族の一員なんだから』
唐突に発せられた一言。
その時の私は、二人の提案に恐れ戦いて、あらん限りの言葉で遠慮したのを覚えている。
しかし結局、一向に食事を始めようとしない二人の言葉に根負けして、おずおずと着席する事になった。その日以来、私は同じ食卓に着く栄誉を頂いている。
仮にエリス様が座るなと言えば、私は直ぐに席を立つ心積もりだ。
幸い、そう言われた事は一度として無いが。
「またコーンスープ?」
「申し訳ありません。コーンスープの保存期限がそろそろ……」
「別に責めてる訳じゃないんだけど。そっか、もうそろそろ、コーンスープも飲めなくなるのね」
彼女はスプーンを手に取り、行儀悪くスープを掻きまぜる。
「まるで、外の景色みたいよね」
ドロドロと黄色く
食べ切れないほどの
「折角の料理が、冷めてしまいます」
「……ん、ごめんなさい」
エリス様はスプーンを手放し、思い出したように手を組み合わせる。小さくお祈りを済ませた後、エリス様は普段と変わらない様子で食事を始めた。
夕食が済んだ後、私は一人キッチンに残って食器の片付けを始める。
鼻歌の一つでも口ずさめればいいのに、生憎そんな事をする余裕は持ち合わせていない。
エリス様は食事を終えた後、リビングに向かった。あるのは両親の写真ぐらいのもので、娯楽用のゲーム機は数年前から部屋の隅に打ち捨てられたままだ。私が小まめに掃除をするので埃は被っていないが、部屋の風景の一つに成り果てている。
大きなテレビも居座っているが、勿論そこに番組を届けるテレビ局はもう存在しない。仮に電源を入れた所で、淡く青い光が部屋に捲き散らされるだけだ。
食器の手洗いを済ませ、リビングへと足を向ける。
テレビの前に置かれた、四人がけの大きなソファー。その上に、彼女は体を丸めて寝転がっていた。
「そんな所で寝ては、お身体に障ります」
「寝てないもん」
エリス様の定位置。何をするでもなく、ただ寝転がっているだけ。
まるで、かつてそこにあった両親のぬくもりを探す様に。
「エリス様」
「……もうっ、分かったわよ」
彼女が
ぷりぷりと怒る彼女に向き直り、「今日は一段とご機嫌が斜めですね」とは言わず、「何かしたい事は無いですか?」と尋ねる。
「なら、今日は一緒に本を読んで欲しいわ」
「分かりました。何の本をお読みになりますか?」
エリス様は相変わらずふくれっ面のまま、でも少し気が和らいだのか、私の手を引いて旦那様の使っていた書斎へ。
書斎と言っても、今ではお嬢様だけが利用する小さな図書館と化していた。
部屋は広く、両の壁際には天井に届く高さの本棚が並んでいる。分厚い学術書の類に混じるように絵本や童話の類が並んでいて、とてもちぐはぐな光景ではあるものの、混沌とした本棚の有り様が、思いのほか好きだった。
「あの本、あの本を取って!」
私は踏み台を持ち出して、彼女に指定された本を手に取る。水色の表紙に色鮮やかな鳥が描かれた本のタイトルは『カラテラの歌』だ。
そして、彼女が一番好きな物語だった。
もう、暗唱できるほど、繰り返し何度も、何度も読んで来た。故に、他の本と比べて少し
エリス様の手を引いてリビングに戻り、共にソファーに腰掛けて本を開いた。
「ある所に、鳥達が自由に空を飛び回る楽園がありました――」
私の一日は午前五時から始まる。姿見の前で服装をチェックした後、朝の掃除に取り掛かる。まずはテーブル類を布巾で拭く所からだ。
屋敷の中は完全に空気清浄がなされているが、人が生活していれば埃も溜まる。
六時半には掃除を切り上げて朝食の支度。メニューは基本的に曜日ごとに設定している。主にミートローフやベーコンエッグなので、手間はそれほどかからない。
たっぷりと三十分かけて朝食の支度を済ませ、エリス様を起こす為に二階の寝室へ。彼女と朝食を共にした後、八時までに食器類の後片付けを終える。週によっては昼食の下ごしらえも済ませて、再び掃除の時間だ。
エリス様が居間で寛いでいる間に寝室の掃除を済ませる。更に掃除機を持ち出して、十一時までは屋敷の中を歩き回る事になる。
そこから昼食の準備に取り掛かり、十二時にエリス様と昼食。
午後はエリス様との時間だ。天気の良い日は外に散歩に出かけ、天気の悪い日はエリス様に本を読み聞かせて過ごす。本当はもっと色々な事を出来ればいいのだが、私にはこれが精いっぱい。偶には、クッキーを焼く事もある。ちょっとした贅沢だ。
そして五時前にエリス様と入浴。昔は猫の様にお風呂を嫌がっていたものの、今は進んで脱衣所に向かう様になった。
入浴を終えた後、私は夕食の準備を始め、七時過ぎにエリス様と夕食。残りの時間を彼女と共に過ごし、十時前には寝室に連れて行き、ベッド脇に寄り添う形で就寝させる。
彼女が眠ったのを見届けた後、翌日の準備を始める。
最後に戸締りと消灯を確認してようやく、私の一日が終わるのだ。
代わり映えのしない、何百回と繰り返して来た日常。
既に、色々なモノが擦り切れてしまって、時間の感覚すらおぼろげにしか無い。
私達に時間の経過を知らせてくれるのは、砂で徐々に削られて曇っていく厚さ三センチの分厚い窓ガラスや、侵食された街の光景だけだ。
私にとっては、エリス様の成長もその一つ。
しかし、当の本人はあまり自覚が無いらしい。
そのせいか、彼女は髪を切るのを極端に嫌がる。整えるだけだと言っても、なかなか頭を縦に振ってくれない。恐らく彼女は、髪が伸びるという事に時間の経過を見出しているのだろう。
私も出来る事なら彼女の望み通りにしてあげたいと思う反面、伸びすぎた髪は衛生的な問題と、外に出かける際の手間から切る以外に他無い。背中の中ほどまで伸ばした状態が、妥協出来る限界の範囲だった。
また室内の家事とは別に、外に出ての
そんな過酷な環境の中での生活に、私は満足していた。掃除場所等を曜日ごとに分割して仕事をすれば、少なくとも今日が何月何日の何曜日か忘れる事は無い。
家事と掃除をマメにしている故に、感覚が狂わずに済んでいるとも言えた。
となればやはり心配なのは、主であるエリス様の状態だ。
これほど落ち込んだ彼女を見たのは、両親がここに戻ってくる可能性が消えた二年前以来の事になる。その時は何とか持ち直したものの、孤独という病魔は着実に彼女の心を
私では彼女の心の空白を埋めるのには不十分だ。どれだけ傍に居ても、どれだけ大切に思っていても、私という存在は彼女の両親の代わりになれる筈もない。
来る日も、来る日も。
私はエリス様に不自由が起こらない様に身の周りのお世話をする以外にない。
それが、あのお二人との約束だから。
私はこの約束を、恩を、命をかけて守らなければならない。
だから今日も、私は……。
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