一章 『始まりの場所』 ①

「もう、学校も見えなくなっちゃったね」

 私は声を発した影に寄り添い、そっと肩を抱きしめた。

 三重に重ね着したボロ布は捲き上がる砂を噛み、ザラザラと不快な感覚を肌に伝えている。眼に砂が入らぬように、特殊なゴーグルをして、更にその縁をタオルで覆っていた。

 口には防塵の分厚いマスクをしているので、声は籠って聞き取り辛い。

 それに拍車をかける様に、周囲は轟々ごうごうと風が吹き、全身を覆うローブには砂塵さじんが絶えず叩きつけられている。

 二時間もこの場に居れば砂のオブジェと化してしまうだろう。

 私が肩を抱く少女は、ゴーグルの奥にあるうれいのある青い瞳を、ゆっくりと細めた。

「もう、ここも駄目なのかもね」

 視線の先に有るのは、青々とした海を望める港町――の残骸ざんがいだ。

 かつては多くの人々で賑わっていた港街の景色は、がらりと表情を変えていた。

 人々に豊かな恵みをもたらしていたコバルトブルーの海は、体全体を茶色く泡立たせて荒れ狂い、海に向かってなだらかな傾斜を描いていた街の半分近くを飲み込んでいる。

 それだけでは飽き足らんと言わんばかりに、今や街の全てを飲み込まんと激しく満ちては返し、着々と侵食を進めていた。

 青々としていた空は海と同じ赤茶あかちゃ色の雲が分厚く連なり、太陽光を大地に下ろす事は滅多にない。仮に日の光が覗いたとしてもほんの一瞬。天からの気まぐれか、蜘蛛の糸ほどのか細い光が荒れた大地に垂らされる程度だ。

「三日前よりも、また近づきましたね」

 暴食の海は、日に日に侵食のスピードを増していた。

 彼女の通っていた学校も、淀んだ海の底に沈んでいる。

 先日までは、学校で最も高い鐘の塔が僅かに頭部を海面に覗かせていたが、それも度重なる激しい波に突き崩されてしまったのか、姿が見えなくなっていた。

「ねぇ……、これからどうしよっか?」

「私は、お嬢様に従うだけです」

 間髪いれず、答える。

「その答え、ずるい」

 抱いている彼女の肩が僅かに持ち上がり、ローブの中で彼女がむくれているのが分かった。

 私は答える代わりに、更に強く抱き寄せる。

 言葉を選ぶのは得意じゃない。確かに私のやり方がずるいのは承知している。

 彼女はそれ以上の言及をせず、唐突に話題を変えた。

「でも、これはこれで綺麗だと思わない?」

「そう、でしょうか?」

「ううん、ちょっと言ってみただけ。そう言わないと、昔の景色を忘れちゃいそうだから」

 かつてあった景色を忘れない様に、胸にある景色と照らし合わせる様に、彼女は海を睨み続ける。風が激しさを増し、湿った色が空気に色濃く混ざり始めた。

 局地的な豪雨と嵐が来ると直感する。

「そろそろ、戻りましょう。天候も少し気がかりです」

「うん。今日は長く外に出過ぎちゃったもんね」

 彼女は素直に頷いて踵を返し、しかし再度足を止めて振り返った。

「ねぇ、後どのくらいだと思う?」

 ――海が、この街の全てを飲み込むまで。

「それほど、猶予は無いでしょう。この数日、侵食の早さが増しています。街を出るのなら、決断は一週間以内が……」

 私は首を振る。いけない、話は屋敷に戻ってからでいい。

「戻りましょう」

 半ば強引に背中を押すように支えて強引に歩き始める。少しごねるかと思ったものの、彼女は無言で脚を動かした。

 私達が腰を据えている屋敷は、港町から更に五十メートルほど高台に登った場所にある。

 のっぺりとした装飾の少ない外観で、砂塵を受け流す様な構造になっている。

 尤も、既に屋敷の半分近くは砂に埋まっていて、見えているのは二階部分と、一階部分では正面玄関と一部の窓だけだ。街からは便利が悪かったが、今からすれば良い思い出――とも言えなくない。

 早くからこの状況を予見したある学者が、最愛の娘の命を守る為に作ったシェルター。私達を今まで生かしてくれた、素敵な住処だ。

 しかし、私の雇い主である彼女の両親はここにはいない。

 四年前の七月十日に捲き起った天変地異の前日から連絡が取れず、今に至っている。

「ただいまー」

 一つ目の分厚い扉を潜って扉を閉め、ローブについた砂を出来る限り掃い落す。

 続いて彼女のフードを取ると、仕舞われていたブロンドの長髪がふわりと溢れだした。

 彼女の前に回って屈みこみ、目元を覆う布を取ってゴーグルを外す。

 今度は、愛らしい顔と透き通った青い瞳が露わになった。

 私は僅かに口元を緩めて、彼女の頬についた砂をタオルで拭う。

「これは、お風呂に入らないと駄目ですね、エリス様」

「……むぅ、砂で髪がじゃりじゃりする」

 エリス・シュタインバーグ。それが、私が絶対に守らなければならない主の名だ。

 私がここにやって来たのが、彼女が三歳の頃だった。

 研究で多忙だった彼女の両親の身の回りの世話をする為にやって来た筈が、旦那さまがたは屋敷を留守にする事も多く、蓋を開ければ彼女の育児係とほぼ同義になっていた。

 そんな数多の記憶を紐解けば、エリス様とはかれこれ十年以上の付き合いになる。

「ねぇジュゼ、さっきの話なんだけど」

「それは、お風呂に入った後でも遅くありませんよ」

 私も手早くローブを脱ぎ、彼女のローブも素早く剥ぎ取る。下に着ているのは、飾り気の少ない黒のドレスだ。彼女は出掛ける時は決まってこの服を選んでいた。

 エリスはまたもやムッとした表情をしたものの、本気で怒っている様な節は無かった。

 彼女を横目に、私も砂まみれのローブを取り掃う。中に着ているのはフリルの無い、紺のメイド服だ。軽く手で踝丈のスカートの裾を掃いつつ、二つ目の扉を開く。

 出入り口の厳重さに目を瞑れば、中は普通の屋敷だ。扉を潜った先が玄関ホールになっていて、目の前には二階に続く階段がある。

 両翼りょうよくの扉は其々、右側がキッチンと食堂、左側がリビングに繋がっている。

 浴室は正面階段の裏手。少し妙な配置ではあるものの、砂まみれの状態で部屋を歩き回らなくて済むのはありがたい。それも見越して設計されたに違いなかった。

 背後の二重扉を打つ風がより激しさを増して轟々と吹きたける。

 間髪いれず、大地を揺るがす轟音と共に窓の外が激しい閃光に包まれた。

「なんとか、間に合いましたね」

「ちょっと危なかったかも」

 そんなやり取りの間に、またもや落雷。この近辺では珍しい光景ではない。あと数秒もすれば、大粒の茶色い雨が周辺一帯を蹂躙し始めるだろう。

「今回の嵐は、何日続くかしら?」

「ほら、エリス様。早く浴室へ行きましょう」

 彼女を急かしつつ、廊下を直進して脱衣所へ。ローブを纏っていたとはいえ、中の服も僅かながらに砂を噛んでいるので、これも洗濯が必要だ。

 エリスが服を脱いでいる間に、私はシャワー室に足を踏み入れてお湯の調整をする。

 幸いな事に、まだこの一帯は地下から水を汲み上げる事が出来ている。

 これは、屋敷の裏手にある巨大なろ過装置かそうちがあってこそだ。主人の残したメモには十数年は持つと記載されていたが、これを鵜呑うのみにするのに私達を取り巻く情勢は余りに不安定すぎた。

 この屋敷は世界が滅びるその時まで安全だと予測された場所に建っている。

 しかし蓋を開けてみれば四年とちょっとで、荒れ狂う海に周囲を呑まれる危機的状況に直面している。

 刻一刻と世界の終りが近づいているという事なのだろうか。

 屋敷が完全に沈む事は無いだろうが、周囲が沈めば逃げ場を失って孤立する事になる。食料は地下の貯蔵庫に十分な量が保存されているので、望むなら数十年は籠城ろうじょうが可能だろう。

 エリスがここに居る事を願うのなら、私はそれに従うだけだ。

「……ねぇ、まだなの?」

「お待たせしてすみません、お湯の準備は出来ましたよ」

 私は取り留めのない思考を打ち切って脱衣所に戻り、エリス様の背後に回って服の紐を解き始める。この数年で何度となく繰り返している行為。

 砂を噛んで固くなった結び目を外すのも既にお手の物で、物の数秒で彼女の服を脱がせてしまう。最初は四苦八苦して、折角沸かしたお湯が冷めてしまった事もあった。

 日の光を殆ど浴びないエリス様の肌は白磁器のように白い。室内照明を浴びる機会しか無いので当然だ。

「下着ぐらい、自分で脱げるもん」

 数年前までは「脱がせてくれるまで何もしない」と駄々を捏ねていたのに、彼女は澄ました顔で下着を取り掃うと、軽やかな足取りで浴室へと駆け込んだ。

「先にシャワー、浴びて下さいね?」

「分かってまーす」

 元気な返事を耳に挟みつつ、メイド服を脱いで二人分の服を部屋の隅に畳んで置く。

 先に風呂の残り湯で手洗いをしないと、砂で洗濯機が動かなくなってしまうからだ。

 バスタオルとバスマットを用意して、予め用意していた下着と部屋着の入った籠を取り出す。外出の際は、いつもこの準備を欠かさない。

「おそいよ、ジュゼ」

「すみません」

 浴室に入ると、エリス様は既に体を軽く清め、お湯が張られた湯船に小さな体を沈めていた。

「髪の毛がざらざらする。嫌になっちゃう」

「今日は一段と風が強かったですからね。よかったら、お切りしますけど」

「絶対に嫌。ジュゼとお揃いになっちゃうじゃない」

 私は苦笑して、浴室の姿身に目を向ける。そこに、自分の姿が映っていた。エリスに引けを取らない色白の肌に、銀色のセミロングの髪。そして、緑色の眼。

 私はこの髪と目が、疎ましかった。

 まだこの惑星が正常だった頃。私はメイドという職柄、街に買い物に行く事が多かったのだが、髪と目の色のせいで注目され、時に露骨に嫌な顔をされる事があった。

 尤も、悪い事ばかりでは無かった。エリス様だけは私の瞳をとても綺麗だと言って、仕事の邪魔になるという理由で短めに揃えた銀髪も、似合っていると笑ってくれた。

 シャワーで素早く砂を洗い落し、髪に櫛を入れる。

 確かに彼女の言う通り、いつも以上にざりざりと砂が絡んで櫛が通りにくい。

「早く私も、ジュゼみたいになりたいな」

「エリス様が私の様に、ですか?」

 エリスは頷き、視線を私の体のラインに這わせる。

 確かに、私と彼女に比べて頭一つ分背が高い。

「直ぐに大きくなりますよ」

 そう言うと、彼女は何故かふくれっ面で、湯船の中で己の胸元を両手で其々覆う。

「分かってない!」

「……はい?」

 私が小首を傾げると、彼女は更に頬を膨らませて勢いよく湯船から立ち上がった。

 盛大に跳ねた湯船の水が、私の腰辺りに打ちつけられて弾ける。

 突然の行動に、私は目に水がかからないように腕を上げた。

 エリスはその隙に私の後ろに回り込んで、私の胸をぎゅっと両手で覆った。いや、覆ったというのは控えめな表現だ。形が変わるほどに、ぐむっと鷲掴みにされ、状況が掴めぬまま胸を弄られる。

「ちょっと、エリス様?」

「しーらないっ!」

 エリス様は問いには答えず、むぅっと視線を逸らす。

 私は一先ず彼女の手を解いてから向き直った。

「ほら、髪を洗いますから座ってください」

「……ずるい」

 文句を言いつつも、彼女は私の前にちょこんと座った。

 丁度、鏡面に私達の姿が並び、鏡越しに目が合う。

「ジュゼは本当に背が高いよね?」

「そう、でしょうか。エリス様のお父様の方が高かったですよ?」

「それは男の人だから、でしょ?」

 背の高さに性別は関係ないと思います、と進言しようとして、しかし統計上では一理あるかと言葉を飲み込む。

 お湯を髪にかけ流しつつ、くしでゆっくりと髪を梳いていく。櫛が引っかかる度に一旦手を止め、櫛を僅かに引き戻してお湯を潜らせ再び櫛を進める。

 髪を洗う間、手持無沙汰てもちぶさたなエリス様はスポンジを手に体を洗い始めていた。

「背中はお願いね」

「はい、かしこまりました」

 石鹸の甘い香りが鼻を擽り、彼女は鼻歌交じりでスポンジを肌に滑らせる。歌っているのは、古い童謡だった。それは彼女が、両親から教えて貰った唯一の歌でもある。

 天変地異で二人きりになった後。しばらくの間は、彼女も学校で習った歌や、テレビから流れて来ていた流行の曲を口ずさんでいた。

 しかし、一年と過ぎた頃には次第にレパートリーは減って行き、今はそれしか口ずさまなくなった。それを歌い続けていれば、いつか両親が帰ってくると信じているのかもしれない。あるいは、両親に会いたいという気持ちが無意識にその歌を口ずさませるのか。

 私は何も声をかける事が出来ず、ただ黙々と髪を梳き続ける。

「終わりました。スポンジを貸して下さい」

「うん、お願い」

 エリスからスポンジを受け取り、彼女の背中に優しく這わせる。日を追うごとに大きくなっていく背中は、何故かとても弱く、小さく見えた。

「さっき……お散歩した時の事だけど」

「そうですね。私は、エリス様に従いますよ」

「それが、ずるいって言ってるの!」

 彼女が勢いよく振り返ったせいで、濡れそぼった髪からいくつもの水滴が弾け、顔に掛った。私はそれを手の甲で拭いつつ、勤めて笑顔を作る。

「こうして身の回りのお世話させて頂けているだけで、私にとっては十分過ぎる幸せですから。それに旦那様方からは、貴方を頼むと仰せつかっています。エリス様の決断なら、私は異論なんてありません」

 彼女は納得できないという表情で顔を前に戻した。

 鏡という緩衝材を挟んで、目と目が合う。

「分かってるの。ここに居た方が、良いって事」

 エリスはしかし瞳を揺らして、己の肩を抱きしめる。

「寂しいの。お父さんに会いたい。お母さんに会いたい」

 ここは安全だ。しかし同時に、誰も来ない。誰とも会えないのだ。

 港町に留まっていた僅かな人々も、三年前の早い段階で近場のシェルターへと出発した。日々激しい嵐に見舞われ、徐々に侵食されていく街に留まるのは狂気の沙汰では無かった。

 現に二年前、街に残っていた最後の住民が死に、海に呑まれた。

 四年前は二週に一度のペースだった砂嵐や雷雨も、今では一週間に二度来る事も珍しくない。外に出歩ける時間の方が、圧倒的に少なくなっていた。

 今からシェルターまで徒歩で避難するとなれば、非常に大きなリスクを背負う事になる。私達は安全で安定した生活と引き換えに、避難のタイミングを完全に逃していた。

 そして、避難の選択すら出来なくなるリミットが刻一刻と迫っている。

 現在の街の呑まれ具合から判断して、あと半月も無い。

「旦那様が避難している筈のシェルターまで辿りつけるかどうか、私にも保障できません」

「うん」

 私も重々理解している。エリスが二人きりの生活に寂しさを覚えている事を。

 決して両親の事だけではない。先に避難した友人達に会いたいと願っているのも知っている。時折、私に隠れて泣いているのも知っている。

 きっとエリス様は、私が「行きましょう」と言えば、間髪いれずに首を縦に振るだろう。

 しかしそれは茨の道だ。彼女の事を真に考えるのなら、ここに留まる選択こそが最善。

「私は――」

 それで、エリス様は幸せなのだろうか。

 本当にそれでいいのかと、疑問が湧いてくるのだ。

 心が擦り切れて、果たして人は生きていると言えるのだろうか。この状態が続けば、彼女の精神は摩耗してしまうかもしれない。まるで、日々侵食されていく街の風景の様に。

 この先、外の散歩すら不可能となれば、本格的に室内に籠りきりの息苦しい生活が待っている。

 エリス様はその生活に耐えられるだろうか?

 分からない。でも、私の心無い助言で彼女を苦しめるのだけは、絶対にしてはいけない。だから私は己を殺して、同じセリフを口にする事しか出来ない。

「私は、エリス様に従います」

 そう。彼女の言う通り、私はずるいのだ。

 紡がれる結果を恐れて、表面的な笑みを頬に形作る事しか出来ない。

「分かってるの、私が決めなきゃいけない事だって」

 彼女は体を洗い流して、私から目を逸らしたまま浴室を出てしまう。

 私はしばらくの間その場から動けなかったものの、「……着替え、手伝って」という声に重い腰を上げて、浴室から出た。

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