先生と呼ばせてください

 俺は喫茶店というものがあまり好きではなかった。

 落ち着ける憩いの場所?

 そんなの客だけだ。

 提供する側にとっては地獄以外の何物でもない。

 俺は子供ながらにそう思っていた。

 でも、そんな地獄の中で何故だか父はいつも笑っていた気がする。

 今なら父の気持ちが少しはわかるのだろうか?


 ♢♦♢


 トントントン。

 子気味いい包丁の音が今日の俺の目覚ましだった。

 まだ日も昇っていないというのに、台所から料理をする音が聞こえる。


「お兄ちゃん、起きてー朝ご飯出来たよー」


 誰かに起こされるのなんて何年ぶりだろうか。

 というか、朝ご飯をまともに食べるのっていつ以来だ?


「おはよ。そんなお寝坊さんで、今日から大丈夫?」


 妹は寝坊と笑いながら言うが、まだ5時過ぎだ。

 もう少し夢を見ていても大丈夫だ気もする。

 あ、でもうちってモーニングとかやってるのか?

 俺がいた頃はやっていなかった気がするが、モーニングを始めたというのならば納得である。


「うちってモーニングやってたっけ?」


「んーん、やってないよ」


「なら、朝起きるの早くないか?」


「私は朝練があるからねっ」


 へえ、部活やってたのか。

 それにしてもこんな朝早くからとは感心だ。

 この情熱のひとかけらでも勉強に向かってくれればいいのだが。

 そんな事を思いながら朝食を食べる。


「何部なんだ?」


「バスケ部」


「そんなチビっこいのに?」


「身長はこれから伸びるからいいんですー」


 お前の身長と成績、どっちが先に延びてくれるかね……。

 ♢♦♢


 朝練に行く妹を見送ってから、俺はいそいそと開店の支度を始める。

 入院している親父からやらなければいけない事とかよく出るメニューとかその他もろもろ、メモとして預かってきたので支度に抜かりはない。

 午前10時、俺は看板を店の外に出す。

『cerisier』

 それがこの喫茶店の名前だ。

 フランス語で桜という意味らしい。

 桜の花びらが描かれた看板を外に出し、closedとなっていた札をopenへと裏返す。

 田舎のコミュニティは案外狭いもので、親父が倒れたことや俺が店を継ぐことなんてすぐに広がっていったのか開店再開の前から結構人が訪ねてきていて、その度にコーヒーとか出していたからか意外と緊張とかは無かった。

 さて、記念すべき最初の客は誰になるのだろうか。

 なんて考えながら店で流しているクラッシクをボーっと聞いていると、すぐに最初の客がやってきた。

 カランカランと鳴るベルの音で我に返る。


「いらっしゃいませ」


 言いながら驚いた。

 最初のお客さんは学生服を着た可愛らしい女の子だったからだ。

 制服から見るに、近くの中高一貫のお嬢様学校の生徒だろう。

 因みにまだ6月の頭、夏休みには少し早い平日の朝。

 学生がいるのはおかしい。


「マスター……じゃないっ!?」


 女の子も驚いていたようだ。

 しかし、この女の子どこかで見たことがある気がする。


「あなた、あの時の!」


 会ったことがあるらしい。

 しかし思い出せない。

 昔の教え子か何かだろうか?


「忘れたとは言わせませんよ、私をバカにしたこと」


 そこまで言われてようやく思い出す。

 そうだ、この子はあの雨の日に0点のテスト結果を握りしめていた子じゃないか。


「ああ、0点の……」


「っ!?やっぱり忘れてください!」


 どっちだよ。

 まあ何でもいいけど、この時間に学生がいるのは流石にいただけない。

 まあ、この前の件もあるし理由だけは聞いてみるか。


「私は学校に行きたくないんです」


 サボりか。

 まあ俺も昔はサボりの常習犯だったから人の事は強く言えなったりする。

 俺の場合は学校で勉強する意味を見出せなかったからなのだが、彼女の場合は違うだろう。

 どうせ安易な考えに決まっている。


「それより、マスターはどこですか?」


「親父は色々あって店出来なくなっちまったから、俺が代わりをしてる」


「そう……ですか……」


 何故だか、彼女はとても落ち込んでいるようにも見えた。

 普段ならそんな事気にも留めないのに、今だけはなんとなく気になってしまった。


「まあ、折角来たんだ。コーヒーくらい飲んでけよ」


「お兄さんは私に学校に行けって言わないんですか?」


「別に、あんな場所無理していく程でもないだろ。行きたくなったら行けばいい」


 記念すべき最初の客だ。

 折角だし少しだけサービスをしてやろう。

 ラテアート、普段はあまり成功しないが今回のは自信作だ。


「……これ、タヌキですか?」


「いや、どっからどう見ても犬だろ」


「ええ!?そもそもこれをラテアートって呼ぶのがおこがましいですよ。全くアートじゃないです」


 まったく、どこをどう見ても犬だというのに。

 けれど、先ほどまでの暗い顔が大分マシになった。

 カウンターに座った彼女は少し笑いながらカフェラテを飲んでいた。

 二人の間に会話は無く、流れるのはクラッシックくらいだ。

 でもなんだか少しこの空気は心地よく感じる。

 沈黙を破ったのは彼女だった。


「そういえば、お兄さんの名前聞いてなかったですね。私は鹿角葵かづのあおいって言います」


「森治だ」


「私ね、イジメられてるんです。ってこんなこといきなり言われても困りますよね」


 サボりの原因が予想より重いな。

 安易だと心の中で決めつけてしまって申し訳ない。


「で、学校に行きたくない日はここに入り浸ってたんです」


「よく親父は何も言わなかったな」


「私今でこそ元気ですけど、マスター曰く昔はもっと死にそうな顔してたらしいからですかね?」


 確かに、それでむやみに追い返して自殺なんてされたら取り返しがつかない。

 ここが彼女の居場所であれるなら良しとしたのだろう。

 もしかしたら、親父が3年間だけでもと俺に頼んできたのは彼女の事もあるのだろうか。

 少しして、常連さんがちらほらとやってくる。

 常連さんたちとも親しげに話していることから、彼女もまたうちの常連の一人であると気付かされる。

 昼過ぎになると、彼女は何やら教科書類を机に広げて勉強を始めていた。

 テストの点を見るに、勉強を全くしないタイプの人間だと思っていたがそうではないようだ。

 彼女なりに努力してあの結果というのか。

 なんかそっちの方がマズい気もする。

 少し暇になったので、彼女の勉強の様子をちらりと覗く。

 実に非効率的だった。

 しかも、間違いも多い。

 そこで思わず俺は、予備校時代の癖で彼女に勉強の説教をしてしまう。

 因みに予備校時代にはマシンガントークの森なんて呼ばれていた。

 次々と間違いを指摘していくが、彼女は驚きからか一言も発せられないでいる。

 俺がふと我に返ったのはおよそ30分後。

 しまった。

 かなりボロクソに言ってしまった自覚がある。


「あー、すまん。言い過ぎた」


 しかし、彼女は何も反応しない。

 言い過ぎてしまったか?

 けれども、彼女は俺が予想もしなかったことを言い始める。


「凄いです!何ですかその分析力。もしかして、その道のプロなんですか!?」


 その道ってどの道だよ。

 まあ、プロという点についてはあながち間違ってはいない。

 精確にはプロというのが正しいが。


「あの、先生って呼んでいいですか?」


「えっ?」


「私に勉強を教えてください!」


 Mなのか、この子?

 しかし、予備校時代の事をまだ忘れられないでいた俺は思わず首を縦に振ってしまう。

 その時の俺は、彼女が努力して0点を取っていることなんか忘れていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私と先生の喫茶店日記 白味てこ @tecopin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ